サンダルウッドの情念
40.余計なお世話




朧げな記憶の中で執拗に膝を狙うナックルサーブとあの真っ赤に充血した目を思い出す。とにかく膝の急所を避けることに必死で、やばい、と思ったその先は霞にかかったよう。途中まで負けてたことは覚えるんだけど。
放課後の部活に向かいながらそんなことを考える。とにかくあの赤目はヤバすぎ。ぼやきながらコートを目指すと会う先輩会う先輩、今日に限って目を真っ赤に腫らしてきて一体どういうつもりなの。

「ところで越前。その膝どうした?」

充血にトラウマを抱えた俺を桃先輩がからかってきて、それから俺の膝をじっと見た。意外とよく見てるよな桃先輩。

「…別に転んだだけっス。」
「ふーん。どうだか。…それとな越前。」
「何すか。」

まだ何か?どうせ何かにつけて茶化してくるのだろうとため息をついて向き合うと、桃先輩は声を落としてこんなことを言ってくるから汗が噴き出た。

「名前とはどこまで進んだ?」
「はあ?!」

反射で顔を上げて辺りを見渡す。みんなそれぞれ練習に熱中してこちらの様子に気付くものはいない。名前もまた向こうのコートで他の部員と何かを話している。いや、ていうかなに。突然。

「どこまでって。そういう話?」
「そう。そういう話。」
「いくら桃先輩でも名前のことそういう目で見るのやめてほしいんすけど。」
「なんだよ突っ掛かんなって。ただの雑談だろ?そういうお前はそういう目で見てないっていうのかよ。」
「…。」

ニヤニヤと、桃先輩は肩を組んで見下ろしてくる。付き合うということと、その延長線上にある諸事。それは必ずしもイコールではないし、そんなつもりで付き合いたかったわけではない。でも俺も男なので。桃先輩の言わんとしていることは、正直わかる。

「前も言ったけどお前ら一緒に暮らしててさ、色んな意味で距離感が近えわけだろ。嫌でも目に入るわけだ。俺なら正気でいられないね。」
「…そりゃあ、まあ…めちゃくちゃキツいっすよ。」
「お?ってことはまだ手出してないのか?すげえなお前。」
「だって、嫌われたく、ない、し。」
「お前…」
「なんすか。」
「本当にあの越前か?」
「どの越前すか。」
「はは。そりゃあ無理強いはよくないけどよ。でもお前ら付き合ってんだろ?」
「そうだけど、向こうは分かんないじゃん。」

したいか、したくないか、なんて。
背中をトンと押してしまえば雪崩れ込めそうな気もするし、でも例えそうだったとして優しい名前は心の奥ではどう思っているのかなんてきっとそのときの俺には分からなくなってしまうのだ。その場で怒ってぶたれるならまだマシだ。万が一にも泣かせてしまったらと思うと自分の欲との間で天秤がぐらぐらと揺れるのである。

「でもよ越前。あいつ相当お前に惚れてるぜ?」
「そう、すかね。」
「そうだろ。好き同士ならよっぽどお前がバカしない限りは大丈夫じゃねえの。」
「…。」
「ま、来たるときに備えて準備だけはしとけよ。いつなんどきチャンスが来るか分かんねえからな。」
「余計なお世話っす。」


桃先輩は俺の肩を解放すると高笑いして去っていった。ほんと余計なお世話。士気の高い先輩たちに紛れて練習を始めようとしたそのとき、誰よりも目を充血させた顧問のおばさんがコートに入ってきたので不甲斐なくも卒倒してしまった。





「ほんとムカつく。なんなの今日。みんなやばい目してた。」

帰り道、名前と並んで歩く。もうすぐ夏休み。湿った空気が名前の夏服を掠めた。

「さすがにちょっと異常だったよね。大体の人は夜更かしのせいらしいよ。」
「目薬常備してよ。部の救急箱に。」
「そういえば他にも色々切らしてるものがあるんだった。薬局寄ってもいい?」

…そういったいきさつで、現在近所のドラッグストアに来ている。カゴを持って名前の後ろをついて行くとあれこれと商品が入れられてカゴが重さを増していく。

「今度からは買い出し付き合うから。この量運ぶの大変でしょ。」
「ありがとう。さすが男の子だね。」
「ねえそれ子ども扱いしてる?」
「違うよ。頼りになるなあってこと。」

店内を巡って、温泉の素買いたい、と手を伸ばせば部費で落ちないからダメ、と弾かれた。いいじゃんちょっとくらい。
ふと出来心。
別に桃先輩に言われたからってわけじゃないけれど。黙々と備品を選ぶ名前の目を盗んで売り場を離れる。0.01。手のひら大の紙箱をカゴに忍ばせて戻れば突然いなくなったことを咎められ、それから俺の手元に視線を落とした名前の顔は真っ赤に染まった。

「…それも部費で落ちないから、別にして。」

か細い声。ふーん。ダメじゃないんだ?
俺は顔の綻びを抑えるのに必死になって、よろこんで自分の財布を取り出した。






来たる関東大会決勝戦の日。
会場の雰囲気は大いに湧いており、いつにも増してひと気が多い。全国大会目前ということもあり各地域から偵察が集まっているからか見慣れない制服を多く見かける。
手塚部長不在の中、常勝を掲げる立海に分があるとの了見が強く、その雰囲気に飲まれるように海堂先輩と桃先輩、それから久しぶりに復帰したゴールデンペアのダブルスは辛くも敗退となった。満身創痍で自陣に戻ってきた先輩たちに名前はいつものようにタオルとドリンクを手渡していた。

ダブルスペアの試合を見届けてアップに向かう。途中で自動販売機でいつものジュースを購入して踵を返すと知らない女子に道を塞がれた。

「ファンタ好きなんだ?」
「…」
「君は試合には出ないのか?東京来るの初めてなんだ。案内してくれる?」

知らない制服。少し訛った言葉。地方の生徒だろうか。にこやかに距離を詰めてくる女子に思わず一歩後退する。

「悪いけど、他当たってくれない。」
「あはは。内地の人は冷たいなあ。」
「俺もう行くんで。」
「オイラも青学さんのマネージャーになりたいな。強い選手がたくさんいて楽しそうだ。」

やっぱり俺が青学の選手と知って近付いてきたのだろう。ジャージのロゴを見れば身分は明らかで特に青学に関してはそのジャージを羽織れるのはレギュラー陣だけなのだから。

「そういうの間に合ってるから。」
「まあそう言わず。連絡先教えてよオイラ全国大会も見に来るからそのときまたお話ししよう。」

大会で顔見知りの多い名前はいつもこんな気持ちなのだろうか。よく他校生から話しかけられるのを見かける。
無下に振り払うには相手に落ち度はないがいくらこちらが態度で示してもその少し訛った言葉でペラペラと話しかけてくるのでその勢いに気圧されてしまう。

「…俺彼女いるからそういうのパス。」
「オイラは君のことを気に入っちゃったんだから君に彼女がいるかどうかは関係ない。」
「…」
「ま、いっか。またね王子様!」

ハツラツと手を振ってその女子は嵐のように去っていった。またねも何も、もう来なくていいから。


なんだかドッと疲れて、コートに戻る道中今度はこれまた見たくない光景を見かけてゲンナリした。お互い苦労するね。

「名字。お前は手塚とデキてると思ってたぜ。」
「そんなことは。部長は硬派なので恋愛には興味なさそうですし。」
「あん?ならばお前のとこのルーキーは随分と俗っぽいと見えるが。随分お楽しみだな名字。」
「いいえ。私から見る彼はしっかり硬派ですよ。」
「あれがねえ。しかしお前は相変わらず揶揄い甲斐がねえな。」
「照れてみせましょうか?でもそれこそつまらないでしょう。」
「ふん。」

様々な学校が観戦にきている中でも一際目立つ氷帝学園の部長、跡部に名前が絡まれていたので、面白くなくて間に割り込んだ。何を話しているのか知らないけれど名前も他校生相手に懇切丁寧に対応することないじゃん。

「名前。こっち。」
「噂をすれば。…お前。今日のオーダーは?」
「教えない。」
「真田とやろうってんじゃねえだろな?」
「言わないってば。行こう名前。」
「フッ。手塚のヤツ焦りやがって。」



「あんなヤツにまでまともに相手しなくてもいいんじゃないの。」
「…リョーマもしかして女の子と会ってた?」
「……なんで?」
「なんとなく。リョーマは女の子に話しかけられても優しくしないの?」
「俺は名前にだけだよ。」
「気持ち良いこと言ってくれるね。」
「本心だってば。」
「うん。わかってる。」

女の勘は鋭いというがなるほど恐ろしい。恐る恐る後ろをついてくる名前を振り返ればとりわけ機嫌を損ねているわけではなさそうだが、普段滅多に嫉妬という感情を見せない名前のその片鱗が見えた気がして恋人として当然悪い気はしないのであった。





コートに戻ればシングルスの試合が始まる。
乾先輩のS3、不二先輩のS2がそれぞれ危うくも勝利となり戦況は2-2。命運の全てはは残るS1に委ねられた。
青学の柱となれ。
手塚部長にそう言われたことがある。相手は全国大会2連覇、関東大会15連覇中の強豪校。全国前の決勝戦。大事な意味を持つ今日の試合で俺が配置されたのは、シングルス1だった。

隣のベンチでは皇帝と呼ばれる男が靴紐を結び直している。振り返ればレギュラー陣の先輩たち、そして名前がこちらに手を差し出してきた。先輩たちのハイタッチに応え、最後に一番端の名前の手を握って引き寄せる。

「わ、」
「行ってきます。」

手を引かれてこちらに身を乗り出した名前を抱き止める。耳元でそう言えば行ってらっしゃいといつもの静かな声が帰ってきて。満足した俺は元気な先輩たちに野次られながらコートに入った。




≪前 | 次≫
←main