サンダルウッドの情念
42.猫先輩のノスタルジア



俺は大石が好きだ。なんだかんだ俺に甘いから。
手塚が苦手だ。厳しくて隙がないから。
名前ちゃんが嫌いだ。
だって。俺のこと特別扱いしてくれないから。




初めて名前ちゃんを見かけた時のことはよく覚えている。二年に進級していよいよ俺にも後輩ができる、そんな浮かれた空気の中、どれどれ可愛い子いないかにゃ〜なんて。移動教室の時間に一年の教室があるフロアを覗き込んだ。
ふわり。
まるであの子の周りだけ時間の流れがゆっくりであるかのような、そんな感覚を覚えた。すごく、俺にとってはすごく衝撃的な出来事だった。

一言で言えば綺麗な子。でもそれは女優やモデルに言うような綺麗、なのではなく、たとえば港から見る朝焼けのような、雪の積もる神社のような、映画のワンシーンのような、そんな感覚。俺は元々アイドルが好きだったから、なんていうか、女の子ってそう言うもんだと思っていたから、こんな子がいるなんて驚いてしまったのだ。

その子の下校風景を毎日俺はテニスコートから眺めている。どうやら部活には入っていないらしい。毎日毎日見かけるからそれが日課になって、なんだか彼女もこちらをみてくれているような気にもなって、春夏の大会で三年生が引退して俺たちの学年に代替わりした頃。いつもの下校の時間に今日は遂にコートのフェンスの前で立ち止まってくれたのだ。これはチャンスだ。さりげなくコートの隅に転がるボールを拾いに行きながら、もしかして俺のこと、なんて浮かれたことを考える。正直女子の見学者は珍しくないし校内ランキング戦のときなんかはギャラリーができたりするものだが、胸の高鳴りはその比じゃない。

「なになにどしたの〜?君一年?」

平然を装って、それでいてあっけらかんと、いつもの調子で。するとその子は少しも驚いた顔をせず、花が咲いたように俺を見て笑った。え。

「すみません、練習のお邪魔をしてしまって。」
「ぜ、全然〜!邪魔なんかじゃないしむしろ俺見られるとやる気出るタイプっていうか!」
「皆さんとても上手でつい見入っちゃいました。また来ます。」

その子は綺麗に腰を折り、スクールバッグを肩に掛け直した。フェンス越しにいい匂いがして脳裏には厳かな旅館の客間の映像が流れた。これ何の匂いだろう。

「え、あ、うん!またね!」
「英二。呑気にナンパとは感心しないな。」
「ちょ、うるさいな乾!そんなんじゃなくて、えっと、これはその…!」

ばかばか乾。ナンパだなんて軽いやつみたいに思われるからやめてよ!もう女の子の姿は向こうの方に行ってしまったけれど大声で取り繕えば女の子はこちらを振り返って小さく会釈をしてくれた。ああ、なんて綺麗な子なんだろう。



名前を名字名前ちゃんというらしいその子はまた来ますと言った通りに時々コートの前で足を止めてくれるようになった。少しだけおしゃべりをして、あともう少し話したかったなというところで帰ってしまう。次会ったらこれを聞こう、あれを話そう、そう思うのに、不甲斐なくも はしゃいでいたらあっという間に時間は過ぎてしまう。

「名前ちゃんテニス見るの好きなんだね。」
「そうですね、よく父が昔のプロテニスの試合の録画を見てるんですよ。」
「へえ!誰の試合?」
「父の学生時代の友人らしくていつも自慢されるんです。名前は確か…」
「今日も英二は熱心だね。」
「ちょ、え、不二!」

部室の前でお話ししていたら今度は不二がからかってきて、名前ちゃんは不思議そうな顔をした。もう不二!面白がりすぎだから!

「熱心…っ、て、あはは、…そうだ!俺マネージャーになってくれる子探しててさ!名前ちゃんどう?!」
「マネージャー、ですか?」
「名前ちゃんテニス見るの好きだろ?だから適任じゃん!」

その場しのぎ、口から出任せ。咄嗟に口走ったマネージャー勧誘という口実。始めは名前ちゃんもニコニコと笑って間に受けていなかったようだが、そこからは話がトントン拍子に進んだ。いいね、と不二が言い、それは心強いねとタカさんが目尻を下げ、大石が全くもう英二は仕方ないなあと頭を掻く。しまいには乾が「前例がないわけではないだろう。手塚にも相談してみよう。」などと言って数日後には本当に顧問への根回しも済ませ、あとは名前ちゃんが応えるだけとなった。

「力不足です、きっと。経験もないですし。」

テニスも、マネージャーも。
そう不安そうに名前ちゃんは言った。でも躊躇ってはいながらも嫌ではないんだろうなとなんとなく思った。背中を押して欲しいんだと思う。大丈夫だよやろうやろう!できるできる!俺には笑って励ますことしかできなくて、名前ちゃんもそうですかね、できますかね、なんて空元気に笑う。

「…ラケットを握らなくても」
「わ、手塚?!」
「テニスが好きならお前は俺たちの仲間だ。一緒に戦おう。」

いつから聞いていたのか、手塚がすぐ真後ろにいて、生真面目にド真剣にそんなセリフを吐くものだから思わず俺と名前ちゃんは顔を見合わせて笑った。

「ぷふ、手塚ってば、かっこいいじゃ〜ん!」
「ありがとうございます。やってみます。」

深く頷いて名前ちゃんは正式にうちの部のマネージャーとなった。




それからしばらく浮き足立っていた部の野郎ども(自分含め)であったが、毎日一生懸命に競技や部のルールを覚え一生懸命に仕事をする名前ちゃんは次第に「いつもコートの前を通りかかる綺麗な女の子」じゃなくて本当の意味で「チームの仲間」になっていった。


名前ちゃんが入部していくつか変わったことがある。雑事をお願いできるようになったことはもちろんだが、例えばはじめは海堂とライバルよろしく玉拾いや素振りなど何から何まで張り合っていた桃が憑き物が落ちたようにいつの間にか楽観的で飄々とした人物になったり、それは噂に聞けば二人の犬猿の仲を取り持ったのが名前ちゃんなんだとか。
あとは練習の虫の手塚はいつも最後まで一人コートに残って練習しているのだがある日鍵閉めを申し出た名前ちゃんも一緒に居残りするようになって。多分球出しとかしてたんだと思う。少しずつボールを打てるようになってきたって嬉しそうに俺に言うから、そっかあ、って。でもいつしかパタリと手塚は居残り自主練をしなくなってジュニア選抜の話も断って部の試合にも温存とかいって出場する機会がめっきりと減って、心なしか名前ちゃんは迫力が増したように思う。誰かが怪我をすると血相抱えて駆けつけて無理をしようものなら強い口調で咎める。今思えばあのとき手塚は腕を壊してしまったのだと思う。

そんなある日名前ちゃんが部活を休んだ。家の都合なのらしい。春休みにも突入し姿を見かける機会もなくて、部には今までマネージャーはいなかったし元の形に戻るだけなんだけど心にぽっかり穴が空いたようなそんな気持ち。寂しいなあと思っていたら春風が強く吹く日だった、名前ちゃんは部活に復帰した。あれ、気のせいかな。名前ちゃんなんだか痩せた?

名前ちゃんのおうちはお寺をやっている。だからなんだか旅館みたいな匂いがするなあと思っていたがその正体はお香の匂いだったらしい。その落ち着く匂いが俺は好きで変態っぽいけど近くで話すときとかこっそり嗅いでた。俺たちが三年になってまた新入生が入ってきた。今年は大型新人が現れて、まあ身長はちっこいんだけど、そいつがレギュラー入りして部は益々勢いを増した。賑やかで忙しくて楽しくて、ある日気付いた。あの大好きだった香りが名前ちゃんからしなくなっていること。賑やかで忙しくて楽しくて。期待の新星、スーパールーキー。おチビはいつもおいしいところを持っていく。付き合い始めたらしいっす。桃から聞いて頭が真っ白になった。




名前ちゃんが嫌いだ。
だって。俺のこと特別扱いしてくれないから。


名前ちゃん。なんで?




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