サンダルウッドの情念
44.蕾、牡丹、松葉、散り菊


翌朝重たい足で食堂に向かい食事をとる。和食だ、嬉しい。隣にドカリと桃先輩、反対側には菊丸先輩が俺を挟むようにして座った。桃先輩朝からそんなに米食います?

「おチビ昨日部屋戻るの遅かったじゃん〜。ナニしてたの?」
「ダメっすよ英二先輩、越前にはまだ早いですって〜。なあ越前?昨日ナニしてたんだよ?」
「消灯時間過ぎて戻るなんてさあ〜ヤダァ〜〜」
「…。」

ご期待に添えずスミマセンネ。そんなんじゃないんすよいやほんとに。

「おはよ〜桃お米すご。」
「おう名前お前はもっと食えよ〜。」

いやタイミング。今くる?正面の席に名前が座っていただきますと手を合わせた。なんだか落ち着かなくて自分の皿の野菜をつつくふりをする。

「名前ちゃんおはよ。」
「おはようございます。今日も朝から暑いですね。」
「ね〜。昨日の夜もアツかったんじゃない?」
「そうでしたっけ。東京よりはなんとなく涼しい気はしましたけど…。」
「…昨日はテニスしてたんすよ。」
「は?テニス?」

なんだか嫌な流れになってきたので思わず口を挟む。
そうテニス。一人でね。

「寝る前暇だったんで。」
「お前さすがにそんな嘘は通じねえって」
「ああ、だからボール落ちてたんだ。だめだよちゃんと拾って戻らないと。」
「それはごめん。」
「え、名前ちゃんそれ本当?」

味噌汁を同時に啜る。残念ながら本当で、昨日は大部屋に戻る前に宿舎の裏で壁打ちしていたのだ。全然らしくなくて、名前の前ではどうしても俺はおかしくて。

「掃除とかしたほうがいいかなぁってさっき外歩いたんです。結局そのボール一個しか収穫なかったですけどね。」
「真面目だねえ名前ちゃん。」
「ほんと真面目だよなあお前ら。」
「それ俺にも言ってます?俺は真面目っすよ元から。」
「どうだか〜」

ねえ。真面目ってなんだろうね。無欲なのが真面目なの。じゃあ食欲も眠くなるのも卑しいことなの。俺は強欲なの。本当は全部全部。ああ疲れる。合宿は今日も今日とてハードスケジュール。浜を走り靴の中に砂が入って先輩たちと海で足を洗えばこの洗った足どうすんだよなんて笑って結局また足を汚して宿舎に戻って。

「ちょっと皆さんどこ走ってきたんですか。」
「助けて名前ちゃん俺たち足が…」
「もうこれじゃあ中にも入れないじゃないですか。ちょっと待っててくださいね。」

名前はそう言って宿舎に入って行くと顧問のおばさんがどこからかホースを担いできて水道につなげた。

「すみれちゃん気がきく〜!」
「あー気持ちいい〜」
「くらえ!」
「うわ冷てえ!」
「こらお前たち!」

最初こそ大人しく足を洗っていた先輩たちはだんだんとテンションが上がって遂にはホースを奪い合って水を掛け合いはじめた。足どころか頭の上からずぶ濡れで全員で大笑いをする。暑くて冷たくて気持ちがよかった。

「はー涼しい最高!」
「えっ、なにやってるんですか?!」
「おう名前も来いよ!」
「え、やめっ、わ!」

タオルをたくさん抱えて戻ってきた名前も標的にされて、タオルを庇って背中からもろに水をかぶって冷たいと悲鳴をあげた。

「はは、名前もずぶ濡れ!」
「もー怒りました!!明日の皆さんのスポドリめちゃくちゃ薄く作りますからね!」

揉みくちゃになって全員絞れるくらいに水をかぶって顧問のおばさんも珍しく笑って見ていた。なんだか俺もどうでもよくなって。いつもだったらそんな格好で無防備に先輩たちの輪に入ったなら手を引いていたかもしれないけれど、あまりに楽しそうに笑うから。まあいいか。ひとしきり騒いであっという間に日が傾いて。体を拭いて宿舎に戻った。

「明日には帰るのかあ。」
「副部長、もう一泊して行きません?」
「ハハ。そうしたいのは山々だけどな。」

着替えを済ませて全員で夕食を囲む。明日の昼過ぎにここを出ることになっている。

「皆さん!今日もお疲れ様でした!」

前に立って六角の葵が指揮を取った。

「ニ日目ということで疲れも出てきてるかと思います。怪我なく明日まで駆け抜けましょう!それでは夏といえば…これ!やりましょ!みんなで!」

葵は大きな袋を掲げて言った。
花火?







夕食後、六角の人たちに連れられて揃って浜辺に出た。火薬の匂い。煙の光。シュウシュウ、パチパチ、ジュ。耳心地のいい音とみんなの笑い声。名前も先輩たちと一緒になって大笑いをして火を分け合って絶えず花火を付ける。
「うわ、やば!!」
「あぶねー!!」
置き型の花火を着火させた桃先輩がそこから走って逃げる。勢いよく噴き上がるキラキラに照らされて名前の瞳が煌めいた。
「綺麗だね。」
名前が言う。うん。綺麗だ。

時々ふと思う。部の輪の中に溶け込む名前は、当たり前だけれど俺より先に先輩たちと知り合って先輩たちは俺より長く名前といる。それが何だって話だけれど時々思う。きっとまだまだ知らないことだらけなんだろうなと。何処かへ行ってしまいそうとまでは言わないしそれを不安に思っているわけでも無い。ただ隣に立ってみる。横顔を見れば気付いてこちらに笑いかけてくれる。この人を大切にしたいと思う。




ひとしきり遊んで残りは線香花火だけ。みんなめいめいに輪を作ってしゃがみ込む。控えめな明かりに先程までの馬鹿騒ぎと打って変わって夏の終わりのような淋しさを感じる。

「これからなのにね、夏。」
同じこと考えていたの。名前は静かに先輩たちの背中を見ていた。
「花火って寂しいんだよね、なんだか。」
「苦手?」
「ううん。好き。…好きだから余計寂しいのかな。」

空を見上げると月が浮かんでいた。煌々と光るそれは黒い水面に反射して鏡のように揺れる。余った線香花火と蝋燭などを拾い上げて波打ち際まで行くと名前が着いてきた。少し歩きたい。波を避けて進むと後ろから風が吹いて煙の香りが舞ってくる。

「私あれから考えたの。昨日の桃の話。」
「?」
「いつから好きなの、って。」
「ああ…。」

さざなみ、ふたつの足音、背中からは先輩たちの笑い声。振り返れば名前は俺の足跡を踏んで歩いていたので少し歩幅を狭める。

「好き、はよく分かんないけど、」

ゆっくり、と口を開けて。
名前が言った。

「付き合いたいなとは漠然と思ってた気がする。」

脳裏に駆け巡る
初めて会って一緒に降りた寺の階段を
静かな保健室の揺れるカーテンを
コートを見つめる真剣な眼を
ボールを打ち合って楽しいと言った君を思い出して


ああ、
わかる気がする。

「…うん。」
「それを好きって言うのかな。でもよく覚えてないや。」
「うん。」
「ちゃんと好きになりたいって言ってくれたの、嬉しかったんだ。だからこそ私もちゃんとリョーマのこと好きになれたと思う。」

ねえ、正気?俺これから風呂入って部屋に戻ってそれで一人で寝るの?いや大部屋だから一人じゃないんだけどさ。戻ったら戻ったで桃先輩に笑われて菊丸先輩に笑われていや先輩たちのことはどうでもいい。
ねえ。名前はひとりで眠るの?
立ち止まると下ばかりみて歩いていた名前は俺の背中にぶつかる。慌てて俺にしがみついたよろめく名前の手をとって、波の来ないところに腰を下ろす。

「ねえ名前。」
「?」
「勝負しようよ。」
「勝負?」
「線香花火、先に落ちた方が負け。」

蝋燭を砂浜に刺す。静かな波が寄せては引いて、それをぼうっと眺めた。肩の触れない距離に座る恋人の存在を想う。思いつき。ううん。本当はずっと。

「…俺が勝ったら」
「うん。」
「今日、部屋に行っていい?」
「……部屋でなにするの。」

マッチに火をつける。
蝋燭に灯れば名前の頬がぼんやりと紅く照らされた。

「したい、名前と。」

ゆらゆら、風にゆれる。灯りをじっとみる名前は少しの沈黙ののち口を開いた。

「…私が勝ったら?」
「なんでもいいよ。決めて。」
「……考えておく。」

だめともいいとも言わず、名前は静かに火を見ている。喧騒からぽっかりと俺たちだけが取り残されたように、波音が一層大きく聞こえた。

「選んで。」
「細工してないよね?」

怪しい、と笑う名前に感極まる。こちらの手からひとつ線香花火を受け取ったその女性らしい手になんだか泣きたい気分になって目を逸らした。

「せーので付けるよ。」

そっと、火の先に近付けて離す。
お互いの花火に火が付いたことを確認して、火の粉の音を聞いた。

「私が勝ったらなにしてもらおうかな。」
「強気だね。もう勝ったつもりでいるの。」
「だって負けないもん。」
「名前が勝ったら今ここでキスしていいよ。」
「それリョーマがしたいことじゃん。」
「嫌なの?」
「ここでは嫌。」

チリチリ。パチパチ。
火花を散らして
一層大きく花が咲いたかと思えばみるみる内に勢いは弱まる。そしてぷっくりと暗闇に光る火の玉が音も立てずに砂浜に落ちて消えた。
先に落ちたのは、名前の花火だった。
追いかけるようにこちらの光も燃え尽きて、また真っ暗な海の音が一際目立つ。

「俺の勝ち。」
「うん。」
「名前。」

俺、名前のこと。
名前のこと好きだよ。大切にしたいんだ。だから。

「していい?」

「…これから?」
「うん、これから部屋に戻ったら。」
「部屋に、戻ったら…」
「それとも今ここでしてほしい?」
「ばか。」

名前の手に余る燃え尽きた花火を抜き取って、指を捕まえる。引き寄せて油断している唇を奪えば名前は怒ったような困ったような顔をする。

「ねえ」
「いいじゃん別に。」

物言いたげな唇を再度奪って砂を払って立ち上がる。文句なら全部が終わった後ちゃんと聞くから。

















ノックをする。明らかに強張った顔に迎えられ思わず吹き出す。泣きそうにも見える名前の頭をひとつ撫でて扉を閉めた。



今から、するんだ
そう思うと耳のすぐ奥に心臓がいるかのように鼓動が頭いっぱいに響いた。手狭な部屋に君臨するひとつの布団がいやに目につく。きっちりとシワの伸びたシーツ。ねえどんな気持ちで敷いたの。目を泳がせて立ちすくむ名前の両手をとる。これから何が起こるか分かっている彼女は指先まで震えていて壊れてしまいそうでそっとその指に口をつけた。

「もうお風呂入った?」
「…うん。」
「怖い?」
「…、」

無言で首を小さく振る健気な唇を奪う。ぎゅっと目を瞑ったのが分かった。緊張で固くなっているその背中を壁につけてふたつみっつとキスを迫れば漏れた吐息に名前を呼ばれた。

「なに。」
「電気、消したい。」
「俺はこのままでもいいけど?」
「ねえ、…お願い。」
「はいはい。」

悪あがきかのように呼吸の切れ目で名前はそんなことを言い出したので素直に捕まえた肩を一旦解放する。スイッチを押しに行くのを横目に先に名前の布団に腰を下ろすとパチンと音がして、暗転するも窓の外が少し明るくてすぐに目が慣れた。
名前もそれに気付いて今度は窓際にカーテンを閉めに行こうとするので手を取って捕まえる。

「待ってリョーマ、」
「来て。」
「カーテン開いてる。」
「いいから。」

この部屋は二階だし向かいには特別建物は無いので外から見られることはないだろう。落ち着きのない名前を座らせて抱きしめる。肩越しに窓の外を見れば風に揺れる木々の隙間から夜空が見えた。
触れるだけのキスをして、顔を上げて、目が合う。
くすぐったくて心臓の音が痛くてどうにかなってしまいそうだ。
クシャ。衣擦れとはまた違う、プラ状の音がこちらのポケットの中で鳴る。名前は目をぱちくりとして、呑気に「お菓子入ってるの?」などと言いだす。

「違うよ。これ。」
「?…あ、」

取り出して枕の下に滑り込ますと赤かった顔がさらに赤くなって。

「…ふ、不要物持ち込み!」
「でも必要、だったでしょ。」
「…!……っ!!」

言葉に詰まって、名前は遂には俺の胸を押し返して布団の上に顔を隠して転がった。

「始まる前からこれじゃあねえ。先輩?」
「こんなときだけ先輩扱いしないで…。」
「大丈夫?名字先輩。」
「離れて越前くん。」
「やだよ。」
「無理、苦しい。」
「無理?」
「…無理、ではないけど、でも、少し待って。」

おかしくて。彼女なりの照れ隠しなのだと思う。いっぱいいっぱいで健気でつい笑ってしまって、やっぱりそんな俺を名前は面白くなさそうに睨んでくる。

「…リョーマは余裕だね。」
「全然。」
「嘘だよ。だって普通だもん。」
「名前に比べたらそりゃあね。」

横に転がって天井を見上げた。緊張してるよ俺だって。大切だから、名前のことが大切だから大事にしたいんだ。渋々顔を出した名前は俺と並行になる。眩しい、と言うので窓を見れば月が見えて、煌々と光っていた。月明かりに照らされて名前の瞳の揺らぎがよく見える。手繰り寄せて手を握る。ぎこちなく握り返してくれたその手が愛おしい。同じ月を見る。この瞬間がずっと続けばいいのに。静かだ。心地いい。初めてなのかな名前は。緊張した面持ちの横顔を盗み見ると名前もこちらを見ていて引力が働くかのように抱きしめ合ってキスをする。別にいっかそんなこと。ねえ名前。好きだよ。好きなんだ。好きだから。俺のものになってよ。






















「あれ名前ちゃん今日ハーフアップ?珍しいね。」
「えっと、あの、そうですね気分転換で…」
「って、薄っ!!!」
「え、」

合宿三日目の今日、朝の走り込みから戻りスポドリを口に含んだ先輩たちが端から咽せて阿鼻叫喚。

「うえ、なんだこれ…?!名前ちゃんこれなんか違くない…?!」
「さては昨日の仕返しか?!くっそぉめちゃくちゃ薄い…これじゃあ水にしてくれた方がよっぽどマシだぜ…?!」

名前から配布されたスポドリのなんとまあ薄いこと。わざと?じゃないよねその様子を見ると。近付いて声を落とした。

「まだ怒ってるの?昨日いっぱい濡れてたもんね。」
「………。何の話かな越前くん?」
「?ホースの話でしょ名字先輩?」
「……、そう。ホースで水を掛けられた話。」

目が泳いだ名前に満足して練習に戻る。精一杯顔に出さないようにしていながらも動揺しているのらしい名前はいつもの癖で髪をひとまとめにしようとうなじに手をかけて、ハッとして腕を下ろした。チラリと見えた、首筋の赤。ああ。それで今日ポニーテールじゃないんだ。







合宿の日程を終え、電車に揺られる。ボックス席に座った先輩たちに名前も続こうとしていたので捕まえて二人掛けの席に肩をつけて座った。最初は近いよなんて小声で咎めてきたが、これで近いって?なんて揶揄い口を塞がれるのを待つ。ごめんごめん。口先だけで謝って膝に立て掛けたラケットバックの死角でその手を握った。
ガタン、
ゴトン。
西日が眩しくて目を細めた名前の瞼が船を漕いでは遂に閉じる。


したんだなあと思う。涼しい顔しちゃってさ。昨日の事を、昨日の名前を思い出して、たまらない気持ちになる。ねえ先輩たち知ってる?名前ってめちゃくちゃ綺麗で可愛くてすごくエロいんだよ。




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