サンダルウッドの情念
45.チクチク



六角中との合同合宿から帰ってから数日、変わらず練習に打ち込む、今日も変わらない一日のはずだった。部室に向かうと中から声がする。

「お引き取りください。失礼ですが部外者は立ち入り禁止ですので。」

異様な緊張感に包まれたそこには名前と、もう一人知らない制服の女子が立っていた。

「はは。本当に失礼だね。あなたマネージャーでしょ?」
「はい。」
「オイラがここに来たのは私用だから。いくらマネージャーでも選手のプライベートには立ち入り禁止だ。」
「ここは男子更衣室ですよ。もう部活が始まる時間ですからこちらへ。」
「さすがしたたかだね。男子部のマネはこうじゃなくっちゃ。」

いや、知っている、気がする。名前と話す相手のその独特な訛りはどこかで聞いた覚えがあった。誰だっけ。まあいい。そんなことより。おいやめとけよ越前!という一年男子部員の焦る声を無視して半開きの扉を大きく開いた。

「アンタ誰。早く出てって。」
「リョーマ、」
「名前こっち、…え、うわっ!」
「越前くん!!待ってたよ〜!」

名前に向かって伸ばしたはずの俺の手を何故か女子は勢いよく掴んできて、ぶつかった。俺と、女子の額が。正しくはキャップをかぶっていたのでそのつばと。女子は跳ね返って床に転がり目を閉じた。は?扉の隙間から中を伺っていた一年たちがアッと声を上げる。

「え、死ん…?!」
「こら堀尾くん、滅多なこと言わないで。リョーマ大丈夫?」
「俺は全然…。」
「よかった…。もう大会前の選手に乱暴なことを…なんて愚痴を言っても仕方がないね。どうしよう保健室連れて行こうか。」
「いいんじゃない放っといて。」
「みんなこれからここで着替えるでしょ、困るよ。」
「おいどうした?って誰だよ!?」
「ええ、大丈夫?!倒れてるじゃん?!」

先輩たちがぞろぞろと集まってくる。早くしないと騒ぎが大きくなりそうだ。運ぶ?誰が?

「越前くん、保健室連れてって?」

「「?!」」

むくり。
いたた、と額を抑えながら女子は起き上がって言った。みんなの視線が俺に集まる。名前も俺を見ている。なんで俺。いやまあぶつかったのは俺だけど。

「オイラ約束通り会いに来たんだよ王子様?」







みんなからの視線が痛くて逃げるように部室を出た。さっさと保健室に連れて行ってさっさと戻って誤解を解こう。とにかく言いたい放題のこの女子を黙らせないといけない。俺はこの人のこと知らないし、関係ない。後ろをついてくる女子は寿葉と名乗ってペラペラと話しかけてくる。こないだ会ったのに忘れちゃっただ冷たいね?関東大会で会ったよ。ほら自販機でジュース買っててさ。そのときオイラ言ったんだ、また来るねって。だから来ちゃったわざわざ北海道から!会えて嬉しい。クッキー焼いたんだ食べる?…いらない。えーどして?!そういやオイラ昨日ABCオープン見に行っただけんど凄ぇんだ。プロの試合初めて見た。
え、行ったの?

ああモビックのサーブ?あれは速いよ。でも実はファーストよりセカンドの速度が落ちない事が凄いんだよね。



とかなんとか。
ペースに呑まれてつい話し込んでしまって。慌てて会話を切り上げて部活へ戻った。女子は何故かついてくる。全国直前で他校の偵察がコートをぐるりと囲んでいた。規制していないとはいえここまで人数が多いと最早部員よりも多いのではとすら思う。
やれ王子様だの会えて嬉しいだの擦り寄ってくる女子もまた偵察の一人なのだろう。
ここで下手に指摘して逆上されても面倒なので適当にあしらって適当に満足してもらって帰ってもらおう。チクチクと視線を感じる。ごめん、名前。あとで事情は説明するから。

ピタリと俺の後ろをついて回ってくる女子。かと思えば俺がラリーをしている間にどういうわけか名前に話しかけているのが目の端に映って、余計なこと言うなよと内心冷や汗をかく。
すると「青学さんはたくさんボール持ってるなあ」などと雑談をしている様子で。名前は驚いたように目を丸くしたがすぐに受け答えをしていた。一見和やかに見えるがどうだろう。

ネットの反対側から高さのあるロブが飛んできて、ふと視線を感じると名前がこちらを見ていた。いつもならこの程度の高さ問題なく届く。ラケットを伸ばして、しかし、なんとなく、それとなく、空をぼんやりと眺めた。俺はこのボールをスルーすることにした。
ギャラリーは惜しいとため息をつき、女はドンマイ!オイラのタオル使えって!と駆け寄ってくる。自陣にインしたボールを振り返り、そして名前を見ると背を向け隣のコートへ入って行くところだった。





「お?越前、愛人帰ったか?」
「は?!」

部活の時間も終わり、女子が手を大きく振って帰っていくのを確かに見届けて部室に戻った。桃先輩、冗談きついっす。

「そんなんじゃないし。もう二度と来ないっすよ。」
「あ?」
「スパイでしょ、どう見ても。」
「はー、それでかあ。」

先輩たちは気付いていなかったみたいで目を丸くしていた。ってことは何。今日一日みんなから浮気者と思われてたの俺。

「ねえ乾先輩。全国に北海道の学校出ません?」
「北海道。椿川学園だな。組み合わせはまだ出ていないが全24校ある中うちと当たる確率は――」
「ほらね。偵察っすよ。」
「なあんだ。焦ったぜスキャンダルかと思ってよお。」
「でも名前ちゃんは落ち着いてたね。」
「正妻の余裕ってやつかな。」
「…いや、結構怒ってましたよ。」
「そうだった?いつもと変わらないように見えたけど。」

そうだろうね。名前は見せないよ他の人には。ちゃんと笑うし普通にしてるよ。怒ってた。というか様子が変だった。勘だけれど。
着替えを済ませて部室前で待ち合わせる。来ない。全然来ない。帰り支度を済ませた先輩たちがひとりまたひとりと出て行って最後に残っていたゴールデンペアがパタリとドアを閉めた。

「あれおチビ帰らないの。」
「いや、まあ…」
「名前ちゃん待ち?」
「まだ着替えから戻ってこないんすよね。なので副部長。鍵、今日俺が預かります。」
「喧嘩はやめてくれよ。」
「しないっすよ。一緒に帰るの、待ってるだけなんで。」
「そうか、じゃあお先に。…あれ備品庫空いてるな。誰かいるのか。」

大石副部長と菊丸先輩は部室を出るとそんなことを言った。大石副部長は俺に鍵を渡そうとして、踵を返した。

「ちょっと見てくる。誰かいるのかな。他の部ならいいんだけど。」

備品庫。他の部と共有で使っている倉庫。入口が空いていて灯りがついているらしい。うちの部のボールやネット、コート整備の道具などもそこに入っている。ボール。そういえば練習中にあの女子が名前にボールがどうとか言っていた。
これもまた勘だ。大石副部長に続いて備品庫に向かった。すると中を覗き込んで大石副部長がびたりと足を止めた。思わずぶつかりそうになったのを避けて中を覗くと、…あ。
「…何、してるの。」
そこにいたのは名前だった。すでに制服姿で鞄を膝に乗せてしゃがんでいた。帰り支度できてんじゃん、こんなところで何してるの。

「ある人から言われて」
「…なにを」
「把握してないなんて、危ないよって。」

ある人。嫌な予感がして名前の横に同じくして座る。山ほどあるボール籠を前に、途方が暮れたような顔をしていた。

「あの人の学校では毎日最後にボールを数えてるんだって、それで数が合わないと見つかるまで帰れない、なぜならそのボールひとつに翌朝選手がつまずくかもしれない、そのときマネージャーとして責任はとれるのか、なんなら数えるついでにひとつひとつ破損や異物の確認をするべきだ例えば棘が刺さってたりしてこれまた選手が怪我をするかもしれないそのときマネージャーはどうするあなたはどうする青学はそんなこともしないのか全国に行く学校がそんなこともしないのかって言われてなんかもう、さ、」
「名前」
「もう、……しんどくて」

呪文のようにぶつぶつと一思いに吐き出して名前は大きなため息をつき顔を膝に埋めた。

「間に受けなくていいよ、人が言うことなんて。多分それ全部嘘だよ。」
「私だって嫌。…こんな自分、私だってやだよ。」
「…。」
「……お腹痛い。」
「え、」

蚊が鳴くほどの声で名前は言った。ぎょっとして見れば確かに腹を抑えている。

「え、大丈夫…?」
「やあ越前!こんなところにいたのかー!俺たち上がるから鍵お願いしていいか?!」
「大石副部長、」

ほんと優しい人。大石副部長は見え見えの芝居を打って俺に部室の鍵を差し出した。耳赤いですよ。

「名前、立てる?一旦部室行こう。」





部室に着くと名前はすぐにベンチに横になった。シンとして名前のため息がよく響く。

「腹?大丈夫?」
「…大袈裟に言ってごめん。そんなに痛いわけじゃないの。多分緊張してて、よくない感じになってる。」
「ああ…。」

そうだ。ずっと名前は緊張していた。全国を目指して駆け抜けて、あと1週間ほどで大会は始まる。手塚部長が不在の中気を張り続けていたのは副部長や先輩たちだけではなく名前もそうなのだ。

しんどいなあと名前は呟いた。俺は少し嬉しかった。そういう弱音もきっと今までの名前なら言わずにいただろうから。
隣に座って手のひらを名前の背中に当ててさすった。

「…ボールはさ拾うのは全員の役割じゃん、うちの部では。例えそれを誰かが踏んだって誰のせいでもないよね。」
「わかってるよ。全部嘘なのも。試されてるのも。振り回したがってるだけなのも。でも一理あるんだもん。もう嫌。お腹痛い。」
「痛い?」
「痛くない。」

ふふ、こちらが笑うと名前も釣られて笑った。背中をさすっていた俺の手を取って頭を撫でろと誘導するので猫みたいだなあとぼんやり考える。

「ねえ、あの子だれなの。」
「他校の偵察。」
「ほんとに。」
「ほんと。」
「あんなに仲良さそうにしてた。」
「してないよ。」
「あの子楽しそうだった。」
「俺は楽しくなかった。」
「言ってくれなきゃ分かんないよ。」
「ごめん。」
「心配した。」
「うん。」

俺たちはお互い知らないことなんてまだまだたくさんあるしそれは悪いことではない。お互いが好きで、そうであることを知って。それでも嫌なことは嫌だし。俺たちは恋人だけど他人で、一人の人間だ。

「リョーマ。」
「うん。」
「好きって言って。」

横になったままハグを求めてくる恋人に覆いかぶさってキスをする。名前好きだよ。唇の離れる頃にそう伝えると離れるなと言わんばかりに背中の手に力が入った。

らしくない、でもきっとこっちが本音。何度だって伝えるし何度だって捧げよう。くるくると変わる好きな人の顔色を眺めて。帰ろっか。手を引いて家路に着く。同じ、家路。






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