サンダルウッドの情念
47.白む



普段なら気に留めない、玄関の扉が開いて閉じる音。違和感を感じて目を開けた。まだ少し暗い。夜か朝か。違和感。
「…名前?」

隣に眠っていたはずの姿がない。部屋に戻ったのか。いやもしかして。

嫌な予感がして飛び起きた。カーテンを開いて外を見れば名前が、どういったわけかこんなに暗い中庭を抜けて道に出ようとしていた。

慌てて窓を開けて床に転がっていたテニスボールを放り投げる。玄関先の道路のアスファルトに跳ねて名前はこちらを振り向いた。
「何してんの。」
薄暗い、静かな空気に自分の声がよく響く。
名前はこちらを見上げて唇を噛んでいる、心臓がギュッとなった。
「待ってて。」

他の家族を起こさないように小声で伝える。小さく頷いたのを確認して、その辺に落ちてたジャージに着替え音を殺して部屋を抜け出した。




「どうしたの。中入ろう。」
「うん…。」
「…なんかあった?」

暗い中顔色は分からないけれど曇っているのは確かだ。昨日特別酷いことをしてしまっただろうか。それともいよいよ間近に迫った大会に対する緊張か。
華奢な背中がひときわ小さく見える。まつ毛を伏せて名前は言った。

「さっき携帯見たらお母さんから連絡が入ってたの。」
「………。」
「お父さん、転院するかもしれないって。
で、お母さんが。こっちに来ないかって…。」

…ああ、
そういうこと。

名前は下唇を噛み締めて俯いた。
そうか。うん。そう。頭の中を色んな言葉が駆け抜ける。
俯く夢主の手を引いて家に戻る?一緒に布団に入って有耶無耶にする?どれも違う気がした。

「…歩こっか。」
「歩く?」
「うん。歩ける?」




ザリザリとアスファルトを踏み締める足音が夜に響いて遠くではまばらに車の走る音も聞こえる。時間を見ずに飛び出してきたが今は一体何時だろう。住宅街を見渡せば明かりのついている家はほとんど無い。だらだらと進むと名前の家の庭に停まっている自転車が目についた。

「あの自転車、乗れるの。」
「うん、どうかした?」
「貸して。」
「乗るの?」
「一緒にいこう。」
「どこに。」
「さあ?」




自転車に乗って走る。後ろに名前を乗せて。何か言われるかなと思ったけれど名前は何も言わずに一緒に乗ってくれた。
風を切る。夜風に吹かれる。昼間と比べ随分と涼しい。通学路とは逆の方向へ走って、走って、空が薄明るくなってきた。もうすぐ夜が明けるのかもしれない。

「いい風。」

ぽつり、名前が言った言葉を拾う。

「風?」
「なんだか夏が終わっちゃいそう。」
「まだ夏だよ。今は。」
「そうだね。」

背中の温もりを感じる。しばらくペダルを漕げば汗をかいて、あつい?と聞かれたのであついと答えた。私降りて走ろうか?と言うので降りなくていいよと言う。
風に乗って進む。ふわり。ああ。あの合宿の日を思い出す。匂いと記憶は強く結びつくのだと聞いたことがある。夏の、潮の香りがした。

坂を下ると海沿いの道に出た。静かな波音が聞こえる。歩道に自転車を停めて後ろを見れば名前は遠くの海岸線をみつめていた。

「お父さん、のこと」
「うん。」
「話していいかな。」
「降りようか。」
「ありがとう。」
「気をつけて。」

手を貸して荷台に座る名前を下ろし海と道路を隔てる防波堤に寄せて自転車をとめた。前髪が潮風に煽られて額が露わになる。

「気を遣わせちゃったね。」
「別に。」
「夜中になんとなく目が覚めちゃってさ、携帯みてびっくり。見てよこの長文。」

はは、と乾いた笑いを見せるから痛々しくて。ずらずらと、名前の母親から送られたのらしい文章からは夫を心配しそして何より娘を心配するその愛情深さを感じた。会ったことはないけれど優しくて丁寧な人なのだろうと思った。

「細かいことはこれから聞くけど、要は今度検査があって、その結果次第では転院して継続治療になるかもってことだね。逆に結果が良かった場合には退院して自宅療養の可能性もある、と。」
「それって…。」
「そう。だから…結果が良くても悪くても、私は、家族のところに帰るんだと思う。」

言葉を選びながら名前はそう言いきって息を吐いた。

「私おかしいの。大事なの。大事なのに。」

相槌しか打てない。名前は笑っているような泣いてるようなあやうげな顔で海を見ている。

「初めてお父さんが倒れて遠くの病院に入院するって聞いたとき、お母さんもそれについていくって聞いたとき、私は真っ先にテニス部のことを考えた。今もそう。転院かもしれないって聞いて、こっちに来ないかって言われて。今も私は家族のことじゃなくてリョーマのことを考えてる。」
「…うん。」
「この生活もずっとは続かないってわかってたし家に戻れるならいいの。それなら部活も続けられるしリョーマにも会える。でも、もし…。」
「…そうだね。」
「…。もう少し、考える。」
「うん。」

もし、転院になったら。
きっと今度こそ名前は家族の元へ行くのだろう。そうなると学校は?部活は?いつその検査があっていつ結果が出るのか。いつ名前は行ってしまうのか。聞きたいことはたくさんあった。そんなの誰より名前がつらいのに俺からは何も言えない。

「俺はいいよ。どこにいたって会いにいくよ。」
「…うん、」
「だから俺は大丈夫。」
「そうだね。リョーマは大丈夫。でもね」
「…」
「私きっとリョーマが思っている以上に、今だってリョーマに会いたいって毎日思ってるよ。」

眉を下げて情けなく名前は笑った。やめてくれ。空が白んできた。その目を見れなくて、堤防に背をつき俺は下を向いた。優しく名前を呼ばれる。俺じゃないのに。つらいのは俺じゃないのに。返事ができないでいる俺の隣にきて名前も防波堤にもたれかかった。俺の手をすくってふわりと握り、水平線を指差し綺麗だよと教えてくれる。振り返って海に向き合いもう一度手を繋いだ。


誰にでも優しい名前は、きっと大切なものがたくさんあるからそのたくさんを全部取りこぼさず守りたいのだろう。選べない、選ばないといけないときが今日みたいにやってきて名前はそれでも笑って人に優しくするんだ。
大切なものは、ひとつじゃなくてもいい。いつか人が言った。誰にだって笑うのは誰のことも特別じゃないからだろうと。違うよと今なら言い返せたかな。



「私、今日のこと忘れたくないな。」

水平線が橙色に染まって光の筋が扇状に駆け抜ける。眩しくて目を細めた。

今日のことだけじゃなくて
これまでのことも、これからのことも
大切なことだからずっと忘れずにいたい
そう名前は言う。

「俺正直さ、あんまり得意じゃない、覚えてるの。」
「私が覚えてるよ。リョーマのこと。覚えてる。ずっと。」

名前の風に煽られる柔らかい髪が朝日に透けてキラキラと煌めいた。

「…俺も忘れないよ。」
「本当?」
「約束。」













大会前日。
次の風を待つ。葉が落ちるのをひたすら待つ。
遠くから運動部の声がけや文化部の楽器の音が聞こえる。俺はラケットを構え、少し離れたこところで名前がカウンターに指をかけた。
ひらり、小さな葉が舞った。目掛けてボールを打ち込む。カチリ。カウントアップの音が鳴る。

「リョーマ。」
「これで27枚?」
「うん。おめでとう。」

落ちてくる葉にボールを当てる練習メニュー。手塚部長の記録は26枚だと聞いている。これでひとつモヤモヤはマシになった気がする。

「戻る?そろそろ終わったんじゃない。」
「そうだね。」
「名前は部長たちの試合見なくてよかったの。」
「見ないって言ってある。」
「そう。」

今は実のところ自主練の時間ではない。コートでは今日から部活に復帰した手塚部長と、その復帰に意見を申した大石副部長とが試合をしている。手塚部長に対してレギュラーとは認めないだなんてふっかけて。

「笑えないよね。副部長、分かってやってるの。関東大会で痛めた手首まだ万全じゃないのに、そんな状態で“完治”した手塚部長とやりあってどうなるか。」
「…うん。」
「菊丸先輩はどうするのって聞いたら、英二なら分かってくれる、だって。全然分からないよ私。」

テニスコートの方から大きな歓声と拍手が上がった。終わったのかな。行こうと言って名前は前を向く。

「本人が決めちゃったならさ、全然、全然分からないし許したくないけど、それ以上に私はやっぱり、私が止めちゃだめだって思うんだ。」





コートに戻れば試合は終わっていて大石副部長は目に涙を溜めこれが全国で勝てる最強メンバーだと笑った。ほんと笑えないっすよ。名前は救急箱を抱えて駆けていく。「お前には本当に頭が上がらないなあ。」副部長は頭を掻いた。




止めないでほしい。
俺たちのこと、俺のこと、信じて欲しい。
ただそこにいて欲しい。
分かって欲しい。分かってるよって言って欲しい。



だから、みんな名前がそうであることにたくさん救われていると思う。




帰宅後並んで寺の賽銭箱の前で手を合わせる。
「さすがに今日は“全国制覇”?」
「みんなが怪我しませんように。だね。」
「だと思った。」

日が暮れて気持ちのいい風が吹く。確かに季節の変わる音がする。校内ランキング戦から地区予選などの折に名前はここで手を合わせていた。名前に倣って目を瞑る。何をおもうでもなく、名前がそうしているので俺もそうしている。次はいつ来れるのだろう。名前は、俺は、その次の時には一体どこにいるのだろう。

「祈ってるわけではないの。本当は。この先にいるのは神様じゃないからね。」
「?」
「誰かのことを想って何かをするってことがきっといいんだろうなと思う。何もできないけれど、私はみんなに何も言えないけれど。」

深く呼吸をする。

「そうおもうことで私の心が強くなる気がする。だから来るの。ここに。」

凛と、鈴が鳴るような瞬きと、こちらを振り返る口元が微笑んだ。帰ろうか。一歩一歩と階段を下る。思えば日が短くなった気がする。夕暮れどきを一歩一歩。



明日から全国大会が始まる。



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