サンダルウッドの情念
48.同じ言葉



店の仕込みをしながら親父がよく言ってた。お前はまだまだ見習いだけれどいずれお客さんを前にした実践もできたらいいよなって。関東大会の初戦、氷帝戦を突破したあと、竜崎先生のはからいでボーリング大会が開催された。そのレクリエーションの景品として俺はうちの寿司屋の無料券を提供した。部のみんなならもし俺が少しくらい失敗したとしても温かく見守ってくれるだろうと思ったんだ。そして無料券を手にしたのは越前だった。

「よかったら来てよ。握るの俺だけどね。」
「っす。」
「誰か誘ってくれてもいいし…、いや誰かなんて野暮か。はは。」
「まあ。誘ってみるっす。」

越前は不思議だ。こんなに小さな体で、こんなにクールな表情で、俺たちをいつも驚かせてくれる。名前ちゃんと付き合い始めたと聞いたときも俺はびっくりしたんだ。誰にも興味無いですみたいな顔をする彼が、名前ちゃんの前でだけ明らかに目が優しいんだ。でもそれがもしかしたら逆なのかもなと思うこともある。テニスボールを前にしたときにひかる目と、恋人への優しい眼差し。そっちがきっと性分で、普段俺たちが見ているこう淡々としているというかボーッとしているというかあの気怠げな様はあくまで側面なのだと。





全国大会が始まる少し前のことだ。ある日、予約通りにのれんが揺れた。

「いらっしゃい。お、やっぱり二人で来たね。」
「こんばんは。お邪魔します。」
「名前ちゃんも来てくれてありがとう。デートにうちを選んでくれて嬉しいよ。頑張って握るね。」
「デート…?」
「違うのかい?」
「そっか。デートかこれ。」

越前も不思議だし名前ちゃんも不思議だ。付き合ってる二人が、二人で出掛けたらそれはデートじゃないのかな。と彼女もいない俺なんかは思うのだけれど。

越前と名前ちゃんは二人で並んでカウンターに座って、静かに会話をして、静かに食事をして、時々二人にしか分からないようなテンポで笑って、目を合わせて、とても穏やかな空気が流れていた。その雰囲気がなんだか羨ましくてそういう恋愛が羨ましくて、あれを対等というのだろうか。

越前はもちろん、名前ちゃんもまた部内だけではなくて校内で一目置かれている存在なのだと思う。よく噂で聞く。バスケ部の誰々に呼び出されてたとか、そういう噂。
越前もファンクラブができる程に女子から大層モテているし、二人はどこかこう人を寄せ付ける魅力がある。それ故に人から一線引かれてしまうこともあるのかもしれない。実はこの二人にとって同じペースで同じ表情で会話をできる相手って意外と少ないのかもなあ。だから今日見たゆっくりと食事を楽しみ談笑する二人は、ああだから二人は付き合っているんだと、俺なんかは勝手に思ったんだ。



「河村先輩、ごちそうさまっす。」
「俺もいい経験になったよ。こちらこそありがとう。」
「ではまた部活で。」

店の外まで二人を見送って手を振る。並んで歩く二人はやっぱりどう見てもお似合いで、歩幅を合わせる後姿が絵になっていた。
羨ましいと思う。恋愛はまあ置いておいて、ああやって同じ目線で同じ気持ちでいてくれる人がいるのは随分と羨ましい。
名前ちゃん。越前の試合を見る名前ちゃんは、越前によく似ている。クール?淡々としている?あれをなんと呼ぶのだろう。俺驚いたんだ。地方大会のとき俺は不動峰の波動球で腕を痛めて病院へ行った。そして再び自陣に戻ったときに初めに目に飛び込んできた光景。ルーキーの小さな背中。横顔からのぞく大量の出血。目、いやあれは瞼だ。
当時既に付き合っていたのか、好き合っていたのか、それは分からない。越前の瞼は誰がどう見ても大怪我で棄権一択なのに越前と名前ちゃんだけがその試合を諦めていなかったんだ。前を見て、コートを見ていた。

俺が試合をするとき、みんなが俺を心配する。俺はテニスが特別うまくはないしみんなみたいに器用じゃ無いから俺にはこれしか無い。だからこそ心配されているのも分かっている。これしか無いんだ。俺には。
俺にも、俺にも最後までやらせてほしい。腕が体がどうなっても、血を流しても、俺だって越前みたいに名前ちゃんみたいに前を向いて、そしてみんなにも前を向いていてほしい。心配しないでくれよ。俺を信じてくれよ。なんて、言えるほどの度胸もないけれど。

「俺、これが最後のテニスなんだ。」

小さくなった二人の後ろ姿に、誰に聞かせるでもない告白をする。テニスは中学でやめる。だから悔いのないように。
俺も強くなりたい。俺は全国No. 1のパワープレイヤーになるんだ。






***






全国大会初日、開会式の雑踏に紛れる。盛大な音楽に合わせ各校のプラカードを掲げて入場するというので先輩たちのあとに続く。ねむ。
まもなく初戦が始まり、みんなで六角と比嘉中の試合を観戦した。ひどいね、と名前が言う。合宿でお世話になった六角のオジイが比嘉の選手にボールを当てられ担架で運ばれていったのだ。あの日オジイに勝手に巻かれたグリップテープは不思議と手に馴染んでいて俺は気に入っていた。

ひりつく空気の中六角は破れ、よって俺たちの初戦の相手は比嘉中となる。俺はS3を任されタイブレークまで持ち込んで勝ち、次は先輩たちの番。負けないでくださいよと揶揄えば桃先輩に生意気だと蹴られた。ねえ少しは労ってくれない。
次にコートに入ったのは不二先輩と河村先輩のダブルス。打ち合いの最中で、オジイのときと同じように向こうのキャプテンと思われる男がどこかを指差し選手に顎で指図した。最初に狙われたのは竜崎先生、それはコート内にいた河村先輩がボールに追いついて打ち返し、今度は比嘉の監督が名前を指していることを俺たちは同時に気付いて同時に走り出した。しかし向こうの飯匙倩を操る金髪で髪の長い選手が沖縄の言葉で何かを怒鳴り、結局ボールは飛んでこなかった。

「あっぶねえな。名前俺たちの後ろにいとけよ。」
「ありがとう。でももう来ないと思うよ。」
「分かんねえだろ、あのハブの男はもうしねえかもしれねえが他の選手は。なんでしたっけ乾先輩、物騒な通り名ついてるやついるんすよね?」
「ああ…あいつだ。殺し屋、木手。」

先輩たちは順調に勝ち進み、3勝したので早くも青学の準々決勝進出が決まった。俺たちはシードでこれが初戦となるので勝負はついたけれどシングルス3つとダブルス2つ全てを行うことになっている。そして残るはS1。殺し屋と呼ばれる男がコートに入り、迎え撃つは昨日部活に復帰したばかりの手塚部長。怪我は完治したと聞いている。完治したからか、いやそれだけではない。いつもと様子が違くて。コートに立つ。空気が変わった。
観客の一人が言った。百錬自得の極み。なにそれ。

「名前知ってた?」
「…知ってた、話だけは部長から聞いてたから。でも実際に見たのは初めて。」

背中に隠していた名前に声をかける。先輩たちはみんな知らないって言ってんのに、乾先輩ですら知らないのに、名前だけは知っているんだ。



完治してよかった。
まだ倒してないから。
帰ってきてくれてよかった。
聞きたいことがたくさんあるから。

「おかえりなさーい、部長。」

青学の柱も、俺のほしいものも全部、俺はアンタから正々堂々正面切って奪うから。







部長の試合には他校が続々と集まってきており、四天宝寺、立海、氷帝などがコートを囲む。

「ああん?お前…」

氷帝の部長の跡部サンが名前を見て自らの眉間に指を添えた。それから俺を一瞥してため息を吐く。

「なるほどな。」
「は?」
「こんにちは跡部さん。これはまた随分なご挨拶で。」
「女は顔が変わるというが確かにそうらしい。」
「内緒ですよ。」
「だったらその虫刺されのあとくらい隠してこい。」

何の話をしているのだろう。「自分そこはキャッて言うところやで。」と眼鏡の人がぼやきながら氷帝の人たちは去っていった。それをいつもの綺麗なお手本のような笑顔で見送って一行の姿がなくなった頃にこちらを振り返る。

「ねえ私どこか刺されてる?」

両の腕をくるくると返しながら名前は首を捻った。あ。いつかの夜の心当たり。多分これだろうなあと、うなじの赤い痕を見て冷や汗が流れた。よく見てるなあの人。いや虫って言い方はさすがにさあ。どちらかと言えばそっちが。

「…さあね。からかいたかっただけじゃない。」








明日は準々決勝。解散の号令があったもののまだ日が高いので学校に寄ることにした。相手してくださいよ。同じく学校のコートで打つことにしたのらしい手塚部長を捕まえる。

「名前はどうする?」
「ごめん今日は帰るね。多分今日中に連絡くるから。」
「連絡?」
「お母さんから。これからのこと。」
「ああ…。うん。分かった。」

そうなのか。
今日、名前の父親の検査結果が出るらしい。
気丈に手を振って帰っていく名前の背中に、大丈夫だよと言いたい気持ちを堪えて見送った。大丈夫。俺はどちらでも大丈夫。本当は近くにいてほしいし毎日会いたい。これからも青学のマネージャーでいてほしい。俺たちのこと一番近くで見ていてほしい。
継続治療なら名前は父親の通う病院の近くで母親と暮らす。結果良好で退院となれば名前は家族と元の家で暮らす。
どっちでもいいよ。大丈夫だよ。なんて。
そんなの自分に言い聞かせたいだけなのだから。





コートには他の部員もまばらにいて、各々にアップをはじめた。しばらくした頃に手塚部長はコートに入った。俺を見ている。入れと言われているのだと悟りネットを挟んで立った。

「あれやってくださいよ。百錬なんとかの極みってやつ。」
「明日も試合だ。聞いただろう。相手は氷帝だぞ。」
「そうでしたっけ。まあ関係ないけど。」
「あくまでこれは調整だ。お前にはまたいずれ見せよう。」
「ちぇ。」
「まずは大会に合わせ体力の温存も重要だからな。お前も、俺も。」
「治ったんすよね?」
「無論だ。いくぞ。」


調整とか言っといて織り交ぜながらではあるが手塚ゾーンは平気で打ってくるしストイックも程々にしてくださいよ。下手な試合よりよっぽど汗をかいて部室に戻った。

「名字は、お前を随分頼っているな。」
「…?そっすかね?」

珍しい。着替えをしていると手塚部長から雑談を持ちかけられた。こちらに背中を向けているので表情は分からない。

「先程の会話が、すまない。少し聞こえてしまった。だが俺には内容の見当がつかなかった。お前には分かったのだろう。名字が言っていたことが。」
「まあ。そうっすね。前から聞いてたことだったんで。」

身支度を整える。汗が張り付いてシャツがうまく滑らない。片腕をしまいそびれたまま汗が引くのを待ちながら手塚部長の話を聞く。

「あいつはあまり人を頼らないだろう。」
「…。」
「いつも人のことばかりだ。俺もよく怒られた。」
「部長が?」
「昨年肘を故障したときに泣かせてしまった、…いや叱られたんだ。」
「ふうん。」

簡単に想像がつく。手塚部長の腕の事情はよく分からないけれど名前がそれをひどく心配し時には強く意見して、…想像がつく。

「俺は名字に他人…、いや正直に言おう、俺を頼ってほしかったんだ。まずは俺は自分の弱みを見せることにした。抱えている傷も過去の栄光も、俺のテニスを全て話した。」
「だから百錬も名前だけ知ってたんすね。」
「気にさせたか。」
「別に。」

なんとなく納得した。納得してそして安心した。けどいくら部員であるとはいえそこまで気にかけるものだろうか。

「俺と名字が特別に見えるときががあるならばそれはきっと俺だけだ。名字に気を許して欲しいがために名字にだけは全て話してきたからな。」
「…。」
「それで何が変わったかといえば、結論としては変わらなかった。春休みに家庭の事情で部活を休んでから様子がおかしかったあいつも、結局はお前に助けられた。」

部長は俺を見透かすように言う。

「まあ…あのときはたまたまっすよ。」
「俺には分からなかった。あいつがどうすれば弱音を吐いてくれるのか。人を頼ってくれるのか。」
「それは俺も研究中ですけどね。」
「予測ができないんだ。俺はあいつの言動に言葉が詰まる時がある。」
「深読みしたところで返って泥沼かもっすよ。ほら手塚ゾーンでコートの外に出しちゃえばいいのに。」
「テニスと同じようにはいかない。それにゾーンはあくまで手元に打球を集めるものでありそれは不可能だ。シングルの場合センターマークに立ったとして8.23mの───」

?手塚ゾーンはブラックホールのように相手のショットを自分の手元に引き寄せる技。そのゾーンがボールの回転を駆使して成せている技だとすれば、その逆の回転をかければ…?

「───と、このように引き寄せるゾーンに比べ相当の外回転を掛けなくてはならなくなる。」
「ふーん。可能ってことっすよね。」
「…。どっちの話だ。」
「?ゾーンの話でしょ?」
「いつ名字の話は終わったんだ。」

硬派な仮面の下が少し垣間見えた気がして俺はもうどうでも良くなっていた。煮え切らない感情の話よりずっと有意義だと思ったのだ。部長と打ち合うとき、テニスの話をするとき、まるで同じ言語で話しているような感覚になる。いつもの部長の外面は部長が『部長』であるためにこうなのかもなとぼんやり考える。

手塚部長は支度を終えるとため息をつき、鍵を閉めるぞと俺に言った。






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