サンダルウッドの情念
49.いつかまたこんなふうに


帰宅すると夕食の時間だった。家族と名前は既に食べ始めていて俺も食卓に加わる。

「今日勝ったんですって?順調ね。」
「うん。」
「お疲れ様。」

母親が俺をいたわる。父親はニヤニヤして俺を見ている。一回くらい負けてみろよなんて言って。負けないよ。

「そう、今ね名前ちゃんのお家の話をしていたの。…リョーマにも話していいのよね?」
「ある程度は話しています、今日のことはこれからですけれど。」

ごく。思わず息が止まりそうになったのを慌てて飲み込んだ。今までどうやって呼吸していたんだっけ。名前は、名前は箸を揃えて置き、膝に手を置く。俺は持ち上げた茶碗をそのままに呼吸が浅くなっていくのを自覚した。ああ。名前が頭を、
頭を下げた。

「寂しくなるなあ。」

父親が酒を煽る。

「本当にお世話になりました。」

顔を上げて、眉を下げて、名前は言った。



「私、家に戻ります。」












良かったわねと菜々子さんが言った。その良かったとは名前の父親の体調に対してのことだと分かるのに時間がかかった。俺は混乱している。どちらにしてもこの家は出ることになっていたんだ。だから、だから良かったじゃないか。隣の部屋が、今度は隣の家になるだけで。何も変わらない。名前はマネージャーを続けるしこれまで通り、これまで通りなんだからよかったじゃないか。

風呂を上がって、真っ白な頭で、リビングにまだ居た名前の隣に座ってみたりして、これが当たり前の光景で、でも、もういないんだ。

「いつ戻るの。」
「3日後にはお父さんとお母さんこっちに来るみたいだから、それに合わせて、かな。」
「そっか。」
「そろそろ寝よう。明日は氷帝と試合だよ。しっかり休まないとね。」
「疲れてない。」
「嘘ばっかり。」

くすくす。こんなときにも名前は笑って。そりゃそうだ。だって彼女は自分の家に帰れるのだから。両親とまた揃って暮らせるのだから。喜ばしいことじゃないか。階段を登る。確かにもう眠る時間だ。カルピンがついてくる。名前もその後ろをついて上がってくる。だから、俺が自室の前で立ち止まって、その後ろを名前がすり抜けて隣の部屋に入っていくことだって何も、間違っていないのに。

「…リョーマ?」

「……」
「どうしたの?」

どうしたの、とは。少し考えて腑に落ちる。俺のことか。
何故か自分の部屋に入れない。ドアノブがまるで何か詰め物でもされているのかのように重くて硬くて開けられない。子供じみている。いや俺はまだ子供だ。
俺は、ただ、どうしても
名前がいなくなることが怖いんだ。


ねえ、
「何もしないから、」

無意識だった。数歩先の隣の部屋に今まさに入ろうとしていた名前を追いかけて抱きしめる。

「絶対何もしないから。…一緒に寝たい。」

「…明日に響くよ。」
「名前。」
「おやすみ。」

俺の手を下ろさせて、名前は笑った。目の奥がぐっと痛いくらいに熱くなる、ねえなんで。なんでそんなに泣きそうなの。
名前はパッと顔を背けて足速に部屋に入って行った。そうか、そう。明日があるから今日は早く寝ないといけない。その通りだ。シンと一瞬静まり返って、一階から誰かがドライヤーをつける音がした。

「ほあら?」

カルピン。
愛猫が俺と名前が入って行った部屋とを心配そうに見上げていた。

大事だ。テニスは大事だ。でもこの時間だって、名前と過ごすこの一分一秒だって、俺にとっては大切なんだ。

カルピンも寂しい?俺もだよ。

「一緒に怒られよう。」

カルピンを抱き上げて目の前の部屋に入った。
いつだって俺は敵わない。名前には敵わない。
名前は驚いた顔ひとつせず、ベッドに腰掛けこちらを見ていた。
目に涙を溜めながら呆れて笑う君と目が合う。

「仕方ないなあ。おいで、カルピンも。」
「ごめん。」
「ううん。本当はね、私も一緒に寝たかった。」


抱き合って、キスをした。約束通りにそれだけで、俺たちは天井を見上げる。二人で。目を閉じる。二人と一匹で。
名前。好きだよ。
名前。おやすみ。
またいつか、いつかこうして共に眠りにつく日を夢見て。













***




早朝のコートに荷物を運び入れる。いつものように名字名前は選手が到着する前に試合の準備をしていた。試合を控える部員たちに、試合以外のことで手を煩わせたくない。切り離せるものは切り離してあげたい。そう考え誰に言われるでもなく名前は試合の日は誰よりも早く現着していた。ベンチの周りを綺麗に整頓して名前は一息つく。

「早くからご苦労なことだな。」
「、跡部さん。」

手が止まったのを見計らったかのようだった。声の出どころを振り返ると氷帝学園の部長、跡部景吾がこちらを見ていた。いつも後ろに人を引き連れている派手な男は今日は単身そこに立っていた。

「上げ膳据え膳、いい環境だな青学は。」
「そちらもマネージャーを募集されては?希望者は多いでしょう。」
「その関係はトラブルが付き物でな。過去に試用期間もあったが結局全員不採用だ。」
「想像ができます。」

跡部は無人のコートに入り監督ベンチに座った。お前も座れと言われ名前は躊躇ったが、試合前だ問題ねえだろと跡部は言う。本来登録された選手と監督以外、試合中はコートには入れない。当然ベンチ監督もできない。座ったことのないその席に名前はこの日初めて座った。

「だからうちでは手配関係は俺が請け負い学園のスタッフに投げている。下級生が担当していたこともあるが雑事に手を取られスキルアップの機会を失うのではそれは意味のない苦労だ。」
「分かります。」
「特に人数が多いからなうちは。外注で解決できるならそれがいい。…おいなんで救急箱にバリカンがある。」
「ああ…卒業生にいたんですよ、気合を入れるために試合の直前に頭を丸めるという人が。」
「否定はしねえが共感はできねえな。」
「それより跡部さん。随分お早い到着ですが。」
「ああん?」
「目的は下見や雑談、いうわけではなさそうですね。」
「ふっ。そうだ。スカウトだ。」
「…。」
「そう、お前のな。」

跡部は射るように名前を見た。反応を見ているというよりも、口でそうとは言っているがきっと今この瞬間も試されているのだ。しかしスカウトとは一体。

「…なぜ今この話を?」
「今でなければいつ話すんだよ。この試合でどちらかは負けるんだ。確実にお前が捕まるのは今日しかねえだろ。」
「恐縮ですが、」
「何勘違いしてんだ。」
「…?」
「テニスの話じゃねえよ。別にうちに転校してこいなんて言うつもりもねえ。話した通りその件については厄介なんだ。いくらお前が優秀であろうとマネージャーが居るが故の面倒事が絶対に起きる。」
「…。」
「お前卒業後の進路は?」
「このまま高等部に進む予定ですが…気が早いですねまだ2年ですよ私。」
「もう2年だ。時間は大切にした方がいい。」
「…なぜ私の進路を。」
「うちに来ねえか。」

言っておくが、と跡部は続ける。これは仕事の話だ、と。
火花が散るような眼力と有無を言わせない雰囲気に押されまいと名前は表情を崩さないことに徹した。なぜ。たくさんのなぜが頭を駆け巡る。

「それって…」
「うちの財閥の秘書部にお前の席を作る。いずれはお前を俺専属の秘書にする。」
「…」
「恋愛の話をしてるんじゃねえ。妻ではなく秘書だ。俺は俺に興味のないやつをそばに置きたいだけだ。」
「でしたら男性をあたれば、」
「ビジネスの話だっつってんだろ。」

飛躍している。そう思った。大きな話をする目の前の男が名前は純粋に疑問だった。だって私たちは部活の大会でたまに会ってたまに話す、それだけの間柄ではなかっただろうか。特別関わったことがない。お互いのこと何も知らないのにどうしてこんな話を。しかしお構いなしにプレゼンは進んでいく。

「俺は仕事に専念したい。故に仕事に専念できる秘書を欲している。俺にではなく、俺の仕事に、だ。お前にはそれができる。」
「随分と高く買っていただいているようですが…」
「だから取り急ぎこれは打診だ。高等部に上がったらまずはアルバイトでいい。もちろんお前が望めば学業優先だ。お前がいいと思うタイミングまで待つ。考えておけ。」
「お言葉ですが、存外一方的なのですね。」
「そうだ。そういう意見が聞きたい。惚れたぜ。いつか迎えにくる。」

私の心を乱して何になる。
マネージャーはコートに立たない。だからもう私の仕事は大方終わっているのだ。なのにどうして。うちに来いだ秘書がどうだ挙げ句の果てに惚れただと。軽口も大概にしてほしい。

「…ビジネスの話では。」
「ああん?心配しなくても取って食いはしねえし、人のもん欲しがる趣味も無えよ。」





***






関東大会の再現だ。氷帝の大応援団がコートを囲み仕切りにコールをうたう。
試合の途中で雨が降ってきた。桃先輩が関西弁の人、乾先輩と海堂先輩が下剋上とムーンサルト、手塚部長は樺地とそれぞれ試合をして二勝一敗。試合の最中に猛烈な雨が降ってきて続くダブルス1以降は天候により延期となった。

「明日まで生かしといてやる。」

敵陣の部長が高らかに宣言をした。





仕方なく現地解散となり、この雨では自主練も満足に出来ないだろうから一旦帰ることとする。いまだに雨は強く降っていて名前と二人、傘に入って帰った。他愛のない会話をする。手首に不安のある大石副部長は今回は控えの予定だったけれどゴールデンペアと部長と先生が先程学校に向かったから多分再登録を検討するんじゃないかとかそういう話。

「雨、夜までには上がるって。桃が言ってた。」
「止んだら寺で打つよ。」
「そうだね。向こうの空は晴れてきてるから虹も見えるかも。」
「うん。」
「虹って7色?」

唐突に名前が首を傾げる。

「虹?」
「なんだっけ。赤、オレンジ、黄色、緑、青、紫?あれこれじゃあ6色だ。」
「向こうでは6色だったよ。」
「向こう?アメリカ?」
「うん。母さんは7色って言ってたのに友達は6って言ってた。確か国によって違うんだよね。確か4とか5色ところもあるらしい。」
「…友達、いるんだね。」
「?そりゃあね。いるよ。住んでたからね。」
「女の子の友達も?」
「妬いてるの?」
「そう。妬いてる。」

珍しく素直な返答に面を食らい振り返ると、どんな顔をしているかと思えば笑っているじゃないか。そうかと思えばその悪戯な顔のまま、名前は俺と傘とを置き去りに突然走り出した。

「ちょ、名前?!」
「わー冷た!」

雨に打たれるのもお構いなしに走っていく。追いかけてとその目が言っている。逃げるように声を上げて笑う名前はまるで少女のようだった。

「はあ、捕まえた…急に何…。」
「さすがリョーマ、足速いね。」
「風邪引くよ。」
「大丈夫!すぐお風呂入るから。」
「あのさ、」
「リョーマはダメ。ちゃんと傘入って。」

傘を名前側に傾けると押し返された。むむ。押し合って右に左にと軸が揺れた。馬鹿みたいな抵抗をそれでも楽しそうに名前は俺と力比べして交互に肩を濡らす。やっぱり俺には勝てなくて渋々名前は争いを放棄した。

「分かった。入るよ。でもリョーマもちゃんと入って?」
「…ねえ知ってる?」
「?」
「今日親父も母さんも菜々子さんも帰るの遅いんだって。」
「そうなんだ?」

和むなあ。全然ピンと来ていないんだから。お返しとばかりに傘を閉じ名前の手を引いた。

「走るよ名前。」

この雨は夜までには上がるから、それからテニスをしたいから、それまでの間。
ね。

「こら!傘さして!濡れちゃう!」
「一緒に入ろ。」
「ちょ、っとリョーマ速い…!入るってこれじゃあ…っ、まず開いて傘!」
「そうじゃなくて。風呂、一緒に入るよ。」
「ふ、…え?!」

言葉を詰まらせた名前を笑って走る。
水溜まりにも怯まずふたりで靴を濡らした。
雨に髪が濡れて、顔に張り付いて、息が上がって。いつの間にかお互い大笑いして。
ねえ。あと何回一緒に帰れるかな。

「やだ、入らないよ。」

玄関をくぐる。肩で息をし膝に手をつく君が濡れた髪をかきあげる。何もしないよ、だなんて今度は上部だけの約束もバレバレで、どれにする?名湯シリーズの入浴剤を掲げれば右から2番目だなんて見もしないで名前は言った。



気付けば今は天気雨。雲の切間に青が見えて光が差していた。虹が出る間も惜しんで今は二人。




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