サンダルウッドの情念
50.心の動く方へ



翌朝天気は回復し延期された氷帝戦の続きが始まる。復活したゴールデンペアは『同調』を実現するも宍戸鳳ペアに一歩敵わず惜しくも敗れ、いよいよ回ってきた俺の試合。

「やっとアンタと戦える日が来たよ。サル山の大将さん。」




唯我独尊。それは自分が一番優れていると自惚れること。ギャラリーの誰かが試合をする俺たち二人をそう呼んだ。自信と誇りと目標と重圧と人の想いを、全部背負って、でも一度だってもうだめだなんて思ったことはないんだ。
この程度のテニスで満足してねえだろうな、だって。するかよ。そんなの俺が一番分かってる。できるだけじゃだめだ、やれるだけじゃだめだ、コピーじゃダメなんだって、そんなこと。

数時間続く試合、やっとの思いで返した打球、スコアはタイ。岩に閉じ込められたように体が重くて体が崩れたのだと遠い意識の中で感じた。みんなが俺を呼ぶ。先輩たちが俺を呼ぶ。全国に行くんだってずっと言ってた。先輩たちはずっと言ってた。そして全国行きが決まったとき、泣いてたんだ、名前が、名前が泣いて


「リョーマ!」


試合前に切った啖呵を思い出す。

「…ねえ名前、あれ用意しといてよ。」

ああ、テニスをしよう

立ち上がる。みんなの声が聞こえた。名前の声が聞こえた。審判のカウントダウンを断ち切ってサーブを打ち込んだ。俺は青学の柱になる。そして、俺たち青学は頂点へ行くんだ。









胴上げもそこそこに、気まずそうにしかしちゃっかりとそれを手に持って現れた名前に思わず笑って。バリカン片手に俺は走る。
悪いね。約束通り、坊主はアンタだ。














「は?秘書?」

試合のあと、昼休憩の時間名前から話を聞く。なにそれ跡部さん。

「跡部さんのお家が財閥の家系で、私にその仕事のサポートをしてほしいって。」
「なんで名前に。」
「分かんない。けど確か自分に興味ない人をそばに置きたいとかそんなことを言っていたかな。」

そうは言いながらさ。初めて氷帝の人たちに会ったのはストリートテニス場だった。そのときに名前のこと「あの跡部に普通に接するから怖い」的なことを言っていた気がする。そんなの相手にされてないからって負け惜しみじゃんと俺は言った気がするけれど、やっぱり今でも思う。結局振り向かす自信があるのだろう。唯我独尊とは彼にとって在る言葉であるように思う。


「試合前にリョーマと跡部さん散々煽り合ってたからヒヤヒヤしちゃったんだけど、テニスとは関係無いからあの人もこのこと試合中には言わなかったんだと思う。そこはまあ…なんというか大人だなあと思ったよ。そういう線引きはしっかりしてるよね。」
「随分たてるじゃん。この話引き受けるの?」
「…将来やりたいこととか何に向いてるとかまだよく分かんないんだ。だからまだ何とも。」
「そうだね。俺もまだ分かんないし。」
「プロは目指さないの?」
「さあね。」
「そっか。…きっと少しの思い切りなんだろうなとも思うし、意外といい方向にとんとん拍子に進んだりするんだろうけれど。やっぱりまだ今は決められないかな。」

そんなことを話し込んでいれば「うちの孫娘からの差し入れだよ!」と顧問のおばさんが言うのが向こうから聞こえる。昼食の時間。少し休んで午後からまた試合だ。

「それより午後は準決勝だよ。不動峰か、四天宝寺。上がってきた方と当たるね。」
「四天宝寺…ああ、あの。」
「おーい名字ちょっと来てくれ!」

遠くで先輩が名前を呼ぶ声がして、名前はテキパキと顔を上げた。

「はーい!…ごめん行くね。」
「うん。俺飲み物買ってくる。」
「じゃあまたあとで。」

不動峰と四天宝寺の試合が間も無く始まるらしく見に行こうぜとはしゃぐ声も遠くで聞こえた。
さて。どちらが勝ち上がってくるか。






***






無理すんなよって言って、お前のこと俺は分かってるぜって顔して笑おう。そしたらやっぱり桃はお見通しなんだねなんて言ってお前は顔を隠したりする、そういう、そういう夢みたいな話を。



「おう名前。荷物持つか?」
「大丈夫だよ。大体堀尾くんたちに持ってもらったから。」
「不動峰と四天宝寺の試合始まってるぜ?見るだろ?」
「うん。ありがとう桃。すぐ行く。」
「俺は口が軽いから言っちまうけどよ。」
「?」
「越前なんだが、さっき一年の女子と二人でいたぜ。」
「…そうなんだ。」

差し入れを持ってきたのだというばあさんの孫が、越前を追いかけて行ったから乾先輩らと尾行したんだ。見たままを名前に言えば思った通りに淡々とした反応が返ってくる。

「なんか飯?渡されてたみたいだぞ。」
「そう。」
「まあ結局四天宝寺の遠山に食われちまってたけどな。」
「へえ。」
「いいのか?」
「いいって、なにが?」
「随分余裕だな。妬かねえの?お前は。他の女に取られてもいいのか?」
「どうだろう。ただその子なりにリョーマのこと大切に思ってくれているのだからそれを悪いこととは思いたくない、かな。…だけどさ、桃。」
「?」
「どうしてそんな意地悪を言うの?」
「……え、」

名前の、いつだって誰にだって笑う、その表情が、メッキの端にバリが立つように微かに剥がれた。

「例え彼が他の誰を好きになろうとそれは私が決めることじゃない、ってのは分かってるし、みんなはそう答える私であってほしいんだろうけれど」
「…」
「ごめんね。やっぱりこんな私はだめ?」
「…駄目なわけあるかよ。」

ああ、ちくしょう。
どうしてそんな意地悪を言うか、だと?
なんでだろうな。イライラするんだ。あんな試合のあとだからきっと俺はお前に八つ当たりしてるんだ。忍足さんに負けた。頭ぶつけて血流して越前に5分で倒してこいって発破かけられたにも関わらず、あいつはそんな状況でも勝ってきたのに俺は勝てなかったんだ。そしてあいつは昼休みに他の女子と歩いてて。大事にしとけよ、なあ、お前何もかも持ってるくせになんで大事にしねえんだよって、むかついて、むかついて、名前が泣けばいいと思っちまったんだ。

「桃、」
「なんだよ。」
「ねえ待って。」
「不動峰の試合、見てくる。」
「私も行く。一緒に行こう。」
「なんで俺のご機嫌伺いまでするんだ?」
「…何が言いたいの。」
「なんでもねえよ。」
「言ってくれなくちゃ分かんないよ。」
「俺が言ったところで!!」
「っ、」
「俺が言いたいことを言ったところで、何になる。………お前を、困らせちまうだけだろ。」

かっこ悪い。すっげえかっこ悪い。ごめんな名前。こんな話がしたかったんじゃないんだ。
大体持ってもらったという割に重そうに抱える荷物を奪って歩く。俺の後ろをついてくる名前を客観視して悪い気はしないのだから俺は救い様がない。なあ俺よ。俺が越前になれないのはきっとそういうところだぞ。







***







結果勝ち上がってきたのは四天宝寺だった。聞くに去年のベスト4らしい。準決勝、大変な試合になるだろうと先輩たちはみんな緊張していた。
その不安を煽るように天才と呼ばれる不二先輩がシングルスで負けた。四天宝寺の連中とは一度スタジアムの下見に来たときに会っており賑やかな印象を持っていたが実力はなるほど確からしい。

珍しく不二先輩はタオルを頭から被ったまま席で項垂れていた。次の桃先輩、海堂先輩ペアの相手はお笑いテニスでコートと観客を巻き込む。誰もがこんなに沸いているのに、不二先輩とその隣に座った名前だけはとても静かだった。
相手の賑やかな応援や笑い声に時々かき消されながら、細々と聞こえる会話に思わず耳をそば立てた。

「越前とは仲良くやってるの。」
「まあ、…はい。」
「そっか。まあそうだろうね。そんな感じだ。」
「どうしたんですか突然。」
「…名前はみんなと仲が良かったからいつ誰と付き合い始めてもおかしくないとは思っていたんだけど」
「そんなこと思っていたんですか?」

くすくすと名前が笑う一方で不二先輩の目は笑っていないのだろうと容易に想像がつく。振り返って顔色を見るほどの無神経さはさすがに持ち合わせてはいないが。

「うん。だから初めて知ったときには正直驚いたよ。越前なんだ、って。」
「そうですか?」
「ほら、彼とてもクールじゃない?」
「…ああ見えて優しいんですよ。すごく。」
「なるほど。君から見た越前はそうなんだね。」
「はい。」

聞こえないふり。きっと不二先輩も、もしかしたら名前も、俺に聞こえていること分かっていてこんな会話している。だから、俺は試合を見ているふりをする。

「ねえ、名前。」
「…?」
「例えばそこにいたのが僕だったとして。
僕が君のことを好きになって、そして告白をしたとしたら。…君は僕と付き合ってくれた?」
「それは、」
「例えばの話だよ。」

…。

「今日の不二先輩はいつもよりお喋りですね。」
「…君は本当に優しいね。」


聞こえないふり、知らないふり。だから俺の隣にスススと寄ってきて「俺ともお喋りしないかい」とノートを開いた乾先輩のことも聞こえないふりしてかわそう。










その後桃先輩と海堂先輩のダブルス、河村先輩のシングルス、手塚部長と乾先輩の変則ダブルス、それぞれで勝利し決勝戦進出が決まった。
俺まで出番は回ってこなくて、対戦予定だった遠山はごねていたがそちらの言葉を借りるとすれば勝ったもん勝ちじゃん。でもまあ。客席を見渡す。大怪我をして病院に運ばれた河村先輩に名前も付き添って、まだ帰ってきていない。決勝前にこんなことして名前は怒るだろうか。でもごめん。今は心の動く方へ。
いいよ。やろうか。一球勝負。



『無我の境地の奥には3つの扉があっとたい。』



四天宝寺の長身の選手が先程の不動峰戦で言っていた。
百錬自得の極み、才気煥発の極み、そして天衣無縫の極み。
公式戦じゃないから本気でやらなくても?関係ないね。俺はただこいつを倒したい。
遠山の決め球がこちらに向かってくる。逃げろと外野が俺に言う。逃げる?俺はどんなときでもテニスを選ぶよ。ドクン。心臓が跳ねる。今一瞬。何。天衣無縫って何。
ボールは真っ二つに割れて互いのコートに落ちた。



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