サンダルウッドの情念
51.約束


決勝戦は8月23日に開催されることになった。立海との決戦だ。本来明日行われるはずだったのだが会場の都合で延期となったのだった。そのためぽっかりと空いたこの三日間をどう使うか俺は考えていた。河村先輩の病院から戻った名前は会場の外水道でドリンクボトルを洗っている。手伝いを申し出るとじゃあ話し相手になってよと俺に言った。

「親父に聞こうかと思って。天衣無縫のこと。」
「うん。それがいいと思う。多分人それぞれ解釈はあるんだろうし。」

ゆすいでは水を切る。レギュラーの人数分のボトルが流しに並べられていた。

「…名前何か知ってるの?」
「六道輪廻、て世界観があって。」
「?うん。」
「仏教の考え方ね。無我と百錬は知っていたから聞いたの合宿の時、六角のオジイさんに。オジイさんもゆかりのある方だから。」

手を止めずに名前は言う。

「最後の扉と呼ばれるものはあるけれど要は無理に立ち入る必要な無い、みたいなことを言ってた。」
「…?」
「どうなっちゃうんだろうね。私は六道でいうところの人間道から天道に行くようなものだって解釈してて。」

聞き慣れない単語が次々と出てきて、名前の生い立ちを考える。そういった言葉が飛び交う中で生きてきたのだろう。当たり前の様に名前は続ける。

「死後人は6つの世界のどこかに生まれ変わるんだけどそれは現世の行いにより選ばれ辿り着くのね。だから、要は何かを失うことで入れるところ、とも言えるのかなって。」
「生まれ変わり…。」
「だからそういう意味でいえば私は手塚部長が一番近いとなんとなく思っているんだけどね。」
「手塚部長?」
「ほら何度もテニスを失ってるじゃない。怪我で。」
「ああ…。」
「ただ千歳さんが一番近いのは遠山くんと言うくらいなのだからやっぱり天真爛漫さなのかな。天衣無縫の言葉の意味だけで言えば縫い目のない天女の衣の如く自然かつ、またそれゆえに美しいってことだから、テニスが強いだけで言えば他にもいるからね。」
「名前は難しいことを考えるね。」
「ま、論より証拠、だよ。まずは南次郎さんに相談だね。」

そこまで話して、水に濡れない様にと水道の端に避けられていた名前の携帯端末が震えた。ムームーと鳴り続け、思わず視線を向けた、上に向けられた画面に映し出された文字に思わず固まる。

「…名前、電話。」
「わ、ちょっと待って、誰から?」
「………たぶん、名前の母さん。」

お母さん。そう表示されている。だから多分名前の。
洗い物で気付かなかったのらしい名前は慌てて手を拭くものを探し辺りを見渡す。右に左にと何度か視線を投げそして焦ったそのままの顔でこちらを見た。

「ごめんリョーマ出てくれる?」
「えっ、」
「持ってくれてるだけでいいから。」
「ああ、そういうこと…。」

びっくりした。
通話ボタンを押す。手が濡れて身動きの取れない名前の耳元に電話を近付けようとすると、うわ。それより早く名前が俺の懐にずいっと入ってきて首を傾け耳を寄せた。
近。

「もしもし、お母さん?…うん、うん。」

くすぐったい。俺の手首に名前の柔らかい髪がふわりふわりとかすめる。近いなんて今更だけれど、さすがに不意打ちはずるい。手を振って水滴を切りながら電話の向こうの話に名前は相槌を打ち、思い出したようにこちらを見上げ会話の切れ目に口だけでありがと、と俺に言った。

「そう、分かった。はい。…ん?え、っと、あの……越前さん、の息子さんならここに。」

「え?」
「ごめんリョーマ…お母さんが話したいって。」

そんな。生唾を飲み込んだ。なに。なに?こんなに緊張することってあるだろうか。名前が俺からすっと離れてごめんねと身振りで伝えてくる。…出るしかない。小さく咳払いして、名前の携帯を自分の耳に当てた。

「…はい。」
『あら。リョーマくん。ご無沙汰してます名前の母です。』


一瞬こちらが突っ掛かったのもお構いなしに名前の母は続ける。

『ごめんなさいね代わってもらったのはお礼が言いたかったの。ご両親にもよろしくお伝えいただけるかしら。私たちが至らないばかりに越前家の皆様に不躾なお願いをしてしまってその節は本当に…。』
「いや、別にそれは…」
『明日そちらに戻るわ。今まで私たちの娘によくしてくれて本当にありがとう。』

「…」

頭がこんがらがって
ちょっとよく覚えていない。手を拭き終えた名前に端末を返して名前は少し会話をしてそれから電話を切った。
とても優しい声色の人だった。確かに名前の母親だと納得した。というか明日にはこちらに来るって、そうかもうそんな時期か。早いな。名前の両親は明日こちらに帰ってきて、そして名前も自分の家に帰るんだ。

待って。

「会ったことあるの、俺と名前の母さん。」
「え?」
「ご無沙汰って言われた。」
「そうなの?少なくとも私は知らないけど…。でもそういう挨拶ってつい流れで口から出ちゃうことってあるじゃない?」
「…。」

これもまた論より、かな。明日会えたら聞いてみよう。








翌朝、ついに名前が家に帰る日がやってきた。こちらの家に置いていた名前の私物をまとめ、隣の家に運び込んだ。まだ名前の両親は到着しておらず依然としてがらんとしているこの家も今夜にはまた温かさを取り戻すのだろう。あの日、この広い家で名前が一人で居るのだと知ったときを思い起こせば、これで良かったんだと素直に思える。

荷物を運び込み、ふう、とため息をつけば鼻から抜けるこの香り。頭の片隅で何かがフラッシュバックをするかのような。

「やっぱり懐かしい匂いがする。」
「そう?」
「名前初めて会ったときこんな感じだった。煙みたいだけど違うな。なんていうか、寺の匂い?」
「ああ、お香かな。白檀の香りだね。」
「びゃく…?」
「白檀は香水とかにもよく入ってるよ。英語でなんて言うんだったかな。」

家の香り、暮らしの香り。今は名前からはしなくなってしまった白檀というらしいこの香りは、懐かしくてそれでいてどこか寂しいようで。

「よく言われるよ、何の香り?って。家がお寺って言うとああ、って納得されるんだよね。確かに最近は聞かれること減ってたかも。」

俺の深いところに刻まれた確かに君の記憶だ。

「だから次会う頃にはまた元の私に戻ってるかもね。」









最後の荷物を運び入れて、二人して自然と足が寺に向かった。しかし引越し作業でくたびれてこの長い階段を登る気にはなれず、階段の一段目に並んで座る。

「寂しいなあ。」

名前がぽつりと言う。

「私が部活を理由について行かなかったの、多分お父さんもお母さんも気付いてると思うんだ。」
「…。」
「お寺どうするの、心配だよ。私手伝うよって。そんなの子供の私にどうこうできることじゃないのにさ。」

風が吹く。
初めて会ったのも確かこの場所だった。

「私を尊重してくれた親の気持ちも分かるし、今になってこちらにこないかと言った気持ちも分かるから、どんな形になっても今度は両親について行こうって決めてたの。何よりいつまでも越前さんにお世話になるわけにはいかないとも思っていたからね。」
「うん、…うん。」
「でもやっぱり理解もして腹も括って、それでも。どうしても寂しくなる。困ったことにね。」

名前の言葉に耳を傾ける。ねえ。次いつ会えるのかな。通学路で、学校で、部活で会える?寺で会える?家に行けば会える?
約束をしなくたって毎日当たり前のように一緒にいたけれど明日からは違うんだね。

「リョーマ。」
「…うん。」
「今まで本当にありがとう。私一人じゃ何もできなかった。あのとき助けてくれてありがとう。」

まるで最後みたいに名前は言うから、何言ってんのってその前髪を撫で回す。

「…ねえ、名前。」
「…?」
「いつか、また一緒に暮らそう。」

「…え、」

あれ。名前がとびきり驚いた顔をして、そして俺も驚いた。だってこんなことを言うつもりはなかったのだから。でも、包み隠さずこれは本音だ。
名前の目が目一杯開いてみるみる涙が溜まっていく。
そう、本音だ。
ねえ一緒に住もうよ。今度は二人で。

「広いベッド置いてさ、毎日一緒に美味しいもの食べよう。」
「お料理練習しないとね。」
「一緒にすればいいよ。大丈夫、俺果物の皮剥くのうまいから。」
「それは初耳。」

ありがとう。そうなるといいね。そう名前は静かに言ってそして俺を見る。

「ねえ、これって。」
「?」
「もしかしてプロポーズ?」
「さあね。」

ふふ。堪えきれず二人で笑って。

「…まあ、名前のこともっとよく知って、もっと好きになって、そしたらちゃんと伝えるよ。」
「もっと好きになってくれるの?」
「当たり前じゃん。」

手を握る。指を絡める。引き寄せて薬指に唇を寄せる。

「だから待ってて。」

「うん。」


そう言ってくれると思ってた。
名前は瞼を伏せ一粒涙を流す。ああ。俺は名前のこと泣かせてばかりだね。









「おい青少年。」

突然背中から声がして振り向けば親父が立っていた。階段の一番上から声が降ってくる。

「なに。ちょっと取り込み中。」
「軽井沢、行くぞ。」
「は?」

ざりざりと、砂を噛みながら親父は降りてくる。思わず名前と顔を見合わせて首を捻った。何言ってんだよ親父。

「急に何。聞いてないけど。」
「言ってないからな。支度しろ。何も持たなくていい。ラケットも置いていけ。」
「は?旅行なら行かないよ。大会前だし残って練習する。」
「名前ちゃん。」
「!、はい。」
「大会は明後日だよな?」
「そうですが…」
「間に合わせる。行くぞ。」
「え、ちょ、親父?!」


親父はいつだって突拍子がない。ずるずると猫をつまむように掴まれて慌てて名前を振り返ると笑顔で手を振っていた。ねえどこへ行くって?間に合わせる?何が?ずるずるずる。そうだ親父に聞きたいことがあった。あれよあれよと引きづられ気付けば長野の山の中。俺は今日を無駄にするつもりはない。

「なあ親父、」

天衣無縫って何?




≪前 | 次≫
←main