サンダルウッドの情念
52.君の全部


「名前。やはり連絡はないか。」
「はい、今お母様と電話で話したのですが自宅にも戻っていないそうで…。」
「困ったね。待つしかないか…しかし…」

全国大会決勝戦当日。
青学ベンチは困惑していた。越前リョーマが集合時間にも関わらずまだ会場に到着していないのだった。青学はテニスの名門であり選手層は厚い。しかしリョーマ抜きではきっとここまでは来れなかっただろう。入部して早数ヶ月、半年足らずのこの時間の中で彼はかけがえのない、代わりのない、大事な選手となった。柱。越前リョーマは青学の柱だ。

だというのにここに居ない。何故。三日前にリョーマは父親と軽井沢に向かっていた。あろうことか彼らは連絡手段も持たず具体的な行く先も戻る時間も伝えず嵐のように行ってしまったのだ。一方名字名前は数ヶ月ぶりに生まれ育った家での生活を再開していたのだったが、落ち着く、いや落ち着かない。気がかりだった。間に合わせる。そう言った南次郎の言葉を頼りに名前は家に残る彼の母親をまめに訪ねた。日に日に募る不安。安否も分からないまま今日になってしまった。先に会場に行きます。何かあれば私に電話をください。そう伝え迷いは捨てろと自分に言い聞かせる。探しに行く?どこへ?リョーマならきっと間に合う。マネージャーとして、どうするべきか。私は青学テニス部マネージャーとして。
少しの期待と祈りを抱え単身会場に向かったがやはりリョーマの姿はなかった。

「すみません。私がもっと…」
「いや名前ちゃんが謝ることじゃないよ。」
「そうだ。名前は前日から状況報告してくれていただろう。朝まで待とうと言った私の判断ミスだ。」

「話は聞かせてもらった。」

右往左往、刻一刻と時間は過ぎる。張り詰めた空気を裂くように一人の男が声をあげた。

「跡部さん?!」
「軽井沢だ?俺の庭だぜ。」

跡部はその有無を言わせない物言いでパチンと指を鳴らした。

「ヘリを出そう。必ず連れて戻る。」
「だったら名前ちゃんも行ってあげて!戻るまでは俺たちがなんとか…」
「馬鹿か。行かねえだろ?お前は。」

氷のようだと時々思う。分かってるよな。お前なら。跡部は名前を一瞥しすぐに視線を切った。きっと試されている。そう、跡部さんの言う通りだ。私は、

「はい。私はここに残ります。」
「それでこそだ。今日の控えは誰だ?」
「…俺です。」
「よし来い桃城。」




勢いよく段取りよく、跡部は大股で進みスタジアムの外に出ると同時に自家用ヘリが到着した。桃城は、慣れたようにそれに乗り込む跡部の背中にやはりとものを言う。

「跡部さん。やっぱり名前も、」

氷。冷たい、冷たい視線が桃城を刺した。

「ここに恋愛しに来ているのか?ちげえだろ。マネージャーとして立ってんだ。あいつのプライド踏み躙るようなこと言うんじゃねえよ。」










***










リョーマ。テニス楽しいか?









ぼんやりぼんやりと霞がかかったかのよう。
初めて来た場所。初めて見るスポーツ。
言われるがままに知らないジャージを着せられて知らない人たちの輪に突っ込まれた。

「お前本当に忘れちまったのかよ!」

越前。越前。知らない人たちは僕の名前をひっきりなしに呼んでいる。忘れた?知っている。僕は僕の名前を知っているし無理やり着せられたこのジャージの色が青であることも知っている。何をそんなに必死でいるのだろう。まるで怒られているかのような居心地の悪さを感じた。

「テニスを知らない、だと…?」
「わかんねえのか?」
「俺たちのことも?名前のことも?」

名前?

頭のどこかで小さな電灯がついたような感覚がして、

「知らないって、忘れたって、名前の前で言えんのかよ!冗談ならそろそろやめてくれよ!」

名前、と呼ばれた女の子が渋々こちらにやってきた。僕を見て、何か言おうとして、目を伏せた。分からない。分からないけれど。知らない、と言いたくなかった。言ってはいけない気がした。知っている気がする。覚えている気がする。昔どこかで会った?ねえどうしてそんなに泣きそうな顔をしているの。

「リョーマ。」
「…。」
「痛いところはない?怪我はしてない?」
「して、ない。」
「そう。滝に落ちたって聞いたよ。無事で良かった。」
「…うん。ねえ、なんで泣いてるの。」

とめどなく涙が溢れるから、泣いてほしくなくてその頬に手を伸ばそうとすれば後ろから男の人に制止された。

「触るな。」
「だって泣いてるのに…、」
「お前が泣かせたんだ!!」
「…?」
「俺が!!どんな思いでこいつのこと諦めたと思ってんだ!!」

掴み掛かられて、揺さぶられた。何を言っているのかわからない。乱暴だ。でも痛くなかった。ただ何か大事な話をしているということだけはなんとなく分かった。

「泣かせてんじゃねえよ!傷付けてんじゃねえよ!何人の奴が名前を諦めて俺だって、ずっと、」
「桃、もうやめなよ。」
「お前といると、名前が、ちゃんと笑うから、俺たちには無理して空元気でいるくせに、お前の前では普通に、ちゃんと普通にしてるから、だからお前ならって思ってた。思ってたのになんだよお前、」
「桃…。」
「くそ…なんで、お前は…」

肩を掴んだ手が震えている。ああ。この人も泣いている。僕のせい?名前はわかる。言葉もわかる。でも分からない。霞。なんだろう。視線を巡らせる。女の子が涙を飲み込んだのが分かった。そして、そんな顔で、真っ赤な目で、僕を見て笑った。

「桃。頼めるかな。」
「名前お前…」
「私のことはいいから。とにかく今は試合が始まっちゃってる。シングル1に間に合わせて。」
「お前何を、こんな状態のこいつに、」
「リョーマ。あなたは越前リョーマだよね。」
「…うん、」
「何を忘れちゃっても大丈夫だよ。きっと大事なことはあなたの心が覚えているから。私が全部覚えてるから。」


ふわ


立ち上がった女の子の立てた風から
あ、これって

この香り、知っている。俺、知っているんだ。

「行くぞ越前。」
「待って、ねえ、君どこかで、」
「行くんだ。お前はやるんだ、テニスを。」
「テニス…、」

人混みの中から連れ出され、あの女の子はもうこちらを見ていなかった。桃先輩というらしい、この人は容赦なく目一杯ボールを打ち込んでくる。そうかと思えば次から次に人を呼んで誰も彼もが本気で向かってくる。汗をかく。体が熱くなる。きっと大事なことは俺の心が覚えているから。ああ、そうだ。そうだった。知ってる、知ってる、これも、これも知ってる。ラケットを振る、ひとつ、ひとつとボールを返す。知ってる、俺だ。全部俺のものだ。俺のテニスだ。
忘れちゃだめだった。
あの人だけは忘れちゃダメだったのに。


ごめん、名前。

















「お待たせ。」

コートに向かうと青学のみんながこちらを振り返り笑ってくれた。お待たせ。ごめん。ありがとう。名前がこちらを見ている。涙のあとだ。赤い目を覆う指をとって、擦ったら腫れるよと言って、そしたら誰のせい?と君は笑う。

「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」

目を見て微笑む。同じ目をして前を向く。今日も俺たちは一緒に闘っている。






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