サンダルウッドの情念
6.柔軟剤と粉末飲料




先程胸ぐらを掴んできた荒井という2年は何かにつけて突っかかってくる人で、次の日にはついにラケットを隠されたのでさすがに頭にきた。ボロボロのラケットを投げ渡されてそれで相手しろと言われる。

「いーよ。やろうか。」

頭に血が登っていたので迷わずコートに立つ。盗まれたラケットの代わりに渡された古いラケットはガットは緩み切っておりフレームも歪んでいた。しかし何度か打っていくとコツを掴んだので遠慮なくポイントを重ねる。最初こそ威勢のよかった先輩はみるみる小さくなっていった。

「はい、そこまでです。」

綺麗な声がコートに響く。顔を上げると名前が静かにコートに入ってきた。手をひとつ叩くと辺りを見渡し微笑んだ。

「げ、名字!」
「部長からの伝言。規律を乱す者、すなわち全員…グラウンド10周、です。」
「おいおいそりゃないぜ。」
「ちなみにレギュラーの皆さんもですからね。」
「えー!まじ!」

花が咲くように笑う彼女に部員たちは口々に悪魔だと嘆いた。


「越前くん。そのラケット預かるね。」
「…どうも。名字先輩。」

何その呼び方。カチンときたのでこちらも名字で呼び返してみたが名前は表情ひとつ変えず。部室にボロラケット片付けに行ってしまった。




外周から戻ってくるといつの間にかまたコートに出てきていた名前にタオルを渡された。どうやらみんなに配っているらしい。今度はみんな天使だなんて言ってる。チョロすぎ…

「名前ちゃん、ドリンクちょーだい。」
「はーい。」

横から話しかけてきたレギュラーの先輩に名前はニッコリと笑って紙コップを差し出していた。

「…ちゃんとマネージャーしてんじゃん。」
「そうかな。あ、そうだ…リョーマ。」

名前は声を落として、名前を呼んできた。なにそれ。さっきは越前くんなんて他人行儀だったくせに…。なんだか振り回されているような気がするが、手招きされたので素直に耳を近付ける。

「あのね、ラケット、あったよ。」
「え?」
「着替えの棚の前に戻しておいたから。」
「探してくれてたの?」

じゃあさっき部室に入って行ったのは。ボロラケットをしまいに行ったのではなくて…

「ごめんね、うちの2年生が酷いことして…。」
「いや、名前が謝ることじゃ…」
「でもね、喧嘩は買う人がいるから始まるんだよ。」

しおらしくなったかと思えば今度はいたずらっぽく笑う。やっぱりあんた悪魔だよ。





「おー?名前、お前もルーキーに興味津々か?」
「桃、」

茶化すように桃先輩が横から入ってきて、名前は振り返って笑顔を向けた。揺れる束ねた後ろ髪につい目がいく。当たり前だけれどここでは名前は誰にでも親切で笑顔で、自分もその中の一人でしかないらしい。

「いつの間にお前ら仲良くなってんだよ。」
「親父みたいなこと言わないでくれる…」
「は?親父ィ?」
「桃、タオルもうよければ預かるよ。」
「おーサンキュー。」
「越前くんも、タオルもらっていい?」
「…っス。」

また戻った。やっぱりここでは自分は「越前くん」か。別にいいけどなんか気に食わない。
タオルを差し出すと名前の指に一瞬手が触れて目が合ったが、名前からは営業スマイルが返ってきたのでつまらなくて踵を返した。



帰宅すると父親に勝負を挑まれたので裏の寺へ向かう。
父親はプレー中いつもおちょくってくるしムカつくことも多いし真面目にやらないし。でも父親はとにかく強くて一度も勝てたことがない。そして今日も…

「俺は先に帰るから玉拾ってから来いよ〜。」
「…ん。」
「まだまだだな青少年。」

確かラリー中に茂みに入ったボールがいくつかあったはず。渋々探していると本堂からチャリンと賽銭の音がした。珍しい。いつもこの寺には人はほとんど訪れないのだけれど。

「あ、」

そうっと様子を伺うと、目を閉じて手を合わせる名前の姿があった。名前は本堂に丁寧にお辞儀をして、それから顔を上げた。

「あ、リョーマ。来てたんだ。」

いつものように笑ってくれた彼女に、胸がドクンと鳴った。さっきと同じようでいて少し違う。部活の時の名前も確かに笑っていたのだけれど、うまく言えないが何かが違ったのだ。

「そっちのがいいね。」
「なんのこと?」
「呼び方も。」
「リョーマだって私のこと苗字で呼んだ。」
「おあいこでしょ。」
「そうかも。」

くすくすと笑う顔に安心して、ボールをポケットに詰めラケット片手に近づくとまた笑われた。

「部活の後なのに。またテニスしてたの?」
「まあね。そういえば名前は何してんの。」
「これから校内ランキング戦があるでしょ。だからみんな怪我しませんようにってお参りに。」
「ランキング戦?」
「うん。毎月レギュラーの座をかけて部内でシングルスの試合をするの。あれ、リョーマ聞いてない?」
「知らない。」
「基本2、3年しか出られないんだけど今回はね、…あー、でも聞いてないのに私から言うのもあれだね。なんでもない、聞かなかったことにして。」
「…その言い方なんとなく察するんだけど。」

口を滑らせた、と顔に書いてある。いつものゆったりとした口調が少し早口になって、やっぱり見ていて飽きないと思った。

「うちの部って色々急なの。試合のオーダーも当日に発表するし、組んだことない二人が突然ダブルスなんてこともあってね。だから今回のももしかしたらわざと伝えていなかったのかもしれないね…?」
「言いながら不安になってんじゃん。ま、例えいきなり試合しろなんて言われたって俺は負けないけどね。」
「くれぐれも怪我はしないように。」
「ん。…そういえば今帰り?遅くない?」

俺が帰宅してから随分経って日はほとんど沈んでいた。制服姿でいるところを見ると直接ここに来たのだろう。部活中にしかポニーテールはしないのか、先ほどまでひとつに結い上げられた髪は下ろされていて少し癖がついていた。

「ランキング戦の組み合わせ表を清書していたの。」
「それで俺が出るって知ってたんだ。」
「私が言ったってことは秘密ね。」
「ん。でも遅くなるなら言ってくれれば良かったのに。」
「?」
「…。暗いと危ないじゃん。」
「…ありがとリョーマ。」
「別に…。」

柄じゃない、ああ柄じゃない。名前の照れたような笑顔が眩しくて帽子を深く被った。



≪前 | 次≫
←main