セイラルの唄
中庭母は美しい人で私の誇りだった。
一番古い記憶は、母と過ごした海の景色だ。青く澄んだ水が太陽に輝き、白い砂浜が果てしなく続く。母は海が好きだった。彼女の長い髪が波に揺れ、穏やかな笑顔で私を見ていた。彼女の歌声は水中で魔法のように響いた。私は人間の手足しか持たず、人並みにしか泳げない。それでも母の住む海に仰向けに浮かぶのが好きだった。
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ホグワーツの秋が始まり、校内には賑やかな足音が響いていた。
人は噂が好きだ。グリムソン教授は組み分けの際に名前の魅了に言及し、そして何かしらの魔法生物にルーツがあると仮説を立てた。
そこから彼らが導き出した答えは──
「お、あいつだろサキュバスって。」
ホグワーツの敷地はいやに広い。名前は長い廊下を歩いていた。窓枠に座り込む上級生のグループが指を刺し顔を寄せ合った。
「え?サキュバスだって?」
「ああ言えてる。あの目、見ているだけで変な気分になりそうだ。」
「早速一人、一年が骨抜きにされたらしいぜ。」
サキュバス。名前は耳を疑ったが、それは聞き間違いではなく彼らは確かにそう言っていた。
“魅了”、これについては事実だ。この特異な体質は母から継いだ。しかし誘惑の力で惹きつけ性的接触で人を陥れる悪魔のサキュバスとは。おそらく魅了の印象から逆算をし、そう結論づけたのだろう。なんてことはない。気にしない。好きに言えばいい。無表情を決め込み名前は前を向いて歩き続けた。
「名字名前のルーツはサキュバスらしい」という低俗な噂話が今日も校内を飛び交う。
次から次に人は代わって名前の目を盗み見た。手を口に当て息を呑む者もいれば、はじめから揶揄うつもりでやってきて大袈裟に倒れ込んでみせる者もいた。
一人になりたいのにどこから湧いて出るのか生徒が寄ってくる。昼休み、名前は静かな場所を探して中庭に出た。一人木陰で眠っている生徒はいたが校内よりマシだろう。噴水の淵に腰掛けて本を開いた。特別本が好きなわけではないが暇つぶしには適していた。数行目を通したところで屋内からスリザリンの集団がやってきた。おいお前がいけよ、などと肘を押し付けあっていた。嫌な予感がする。名前は眉に皺を寄せ、場所を変えようと本を閉じた。
「おっと待てよ。おい、こっちを見ろよサキュバス。魅了を使ってみろ。」
くだらない。余興のおもちゃになるつもりはない。立ち去ろうとしたが肩を掴まれ無理に顔を覗き込まれた。
「おお、すげえ…。」
その生徒は名前の目を見るなりため息を漏らし、次には仲間に向かって大きな声で拳を振り上げアピールしていた。名前は魅了を使っていない。しかし彼らは続いて俺も俺もと寄ってくる。鬱陶しいな。どうしたものかと口を引き結んでいると澄んだ声が響いた。
「うるさいんだけど。」
生徒たちは声の出どころを振り返り、そして吹き出し笑った。黒髪の少年だった。木陰に佇む彼は琥珀色の目を鋭く向けていた。赤と金のネクタイを巻いたグリフィンドール生だった。
「彼女は何もしてないよ。あんたたちが勝手にその気になってるだけ。」
「お前一年だな。英雄気取りか?」
「どうでもいいよそんなの。俺昼寝がしたいんだけど。」
どうでもいい。
どこかで聞いたそれに立ち去るつもりだった名前の足が止まった。上級生は少年を囲み、嘲笑うように肩を打った。彼は一歩後退したが、それでも冷ややかな目を変えない。しかし名前の身体の内側で怒りにも似た言いようのないザワザワとしたものが込み上げた。
「お前はそういう作戦でサキュバスに近付く気だな。ご苦労なことだ。」
「黙れ。」
空気が揺れた。黙れ。そう言ったのは名前だった。
しかしこれが誤りであったことにすぐに気付く。願ってしまったのだ。黙れと、つまりは、言うことを聞けと、腹の底で念じてしまったのだ。支配の力、服従の力。名前の魅了は不完全のものだった。意のままに扱えるものではなくとりわけ制御が苦手だった。海の魔物がその力で嵐に船を沈めるように名前の魅了が暴走した。
「……っ!!!」
騒がしかった上級生たちがびたりと黙り込んだ。
魅了は感情に強く結びつく力だ。ストレスとは心を乱す最も大きな要因である。慣れない環境、心無い野次。未熟な制御の枷を外すには十分な引き金だった。サファイアグレーの瞳は妖しく煌めき周囲に影響した。
まずい。名前は我に帰り、力を抑えようと必死に言い聞かせた。止まれ、止まれ、止まれ。しかし止めようとすればするほどに身体は強張って言うことを聞かない。
その目を目撃した人々は次々に脱力した。ただ一人を除いて。
「フィニート・インカンターテム!」
黒髪の少年が杖を掲げて唱えた。それは魔法の効果を終わらせるいわゆる反対呪文だった。名前の魅了の残響を打ち消したのだ。生徒たちは正気を取り戻し、騒ぎを聞きつけた先生たちがやってきた。
「お前たち何をしている!」
そのとき、名前の手を誰かが引いた。名前は発動の余韻が抜けず放心状態だった。待ちなさい!と背中で声が聞こえる。生徒指導に連れられているわけではなさそうだ。誰。手を引く人物を確かめれば先ほどの少年だった。彼はしばらく歩いてひと気のない廊下まで来るとこちらを見た。
「落ち着くまでここにいなよ。」
息が上がり、額には汗が滲んで、霧の晴れない頭の中で疑問ばかりが浮かぶ。
助けてくれた。なぜ?なぜ彼は助けた?いやそうではない。なぜ助けることができた?なぜこの目を見て君は普通でいられる?
「…オクルメンシーでも使ってるの?」
「さあね。」
そう言って少年は窓からひょいと外に出て歩いて行った。彼はその先にある大樹の木陰に座ると目を閉じた。昼寝がしたかったのはなるほど本当らしい。名前はその様子を廊下の窓から眺めて、ああ、と確信を深めた。
組み分けのときの声はやはり君だ。あのときも君はそうやって簡単に言ってのけたんだ。
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