セイラルの唄
風呂


林の奥の小屋で暮らすようになってすぐの頃、辺りの森を歩いていて帰り道が分からなくなったことがある。心細く歩いていたらマグルの青年に遭遇した。人がいたことが嬉しくて、道を教えて欲しいと声をかけたとき、彼は白目を剥いて倒れた。父が駆けつけて彼を手当したが私はずっと気がかりだった。私は花を育てて見舞いに届けよう思った。見様見真似で世話をし時間をかけて花を咲かせ、エラヴィスにそれを託した。しかし数日後戻ってきたエラヴィスは羽根をむしられ酷い有様だった。ショックだった。私の浅ましさがショックだった。私は私が許されたかっただけなんだ。謝って楽になりたかっただけなんだ。




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今日の薬草学はマンドレイクの植替え実習だった。生徒たちの目の前にたくさんの鉢植えが並んでおり、大小様々のマンドレイクが植えられていた。この植物は根が赤子のような容姿をしていて土から引き抜かれるとつんざくような声で鳴くそうだ。鼓膜を守るために耳当てが配られた。

名前は並ぶ鉢の中から適当なひとつを引き抜こうと手を伸ばした。するといつの間に隣に来たのかリョーマがいて、右側の耳当てを外された。くすぐったいな、なんだよ。眉を寄せて見返せば「手袋くらいしなよ」と言ってリョーマは笑った。

「これくらい平気だよ。」

ずらされた耳当てを付け直せば近くの生徒がマンドレイクを勢いよく引き抜き、途端に赤子の顔をした根が大口を開け、金切り声を上げた。生徒は慌ててそれを振り回し、根についた土がこちらまで飛んできた。

「ほらね。」

リョーマは得意げな顔をしてそう口を動かしたので、つまらなくて肘で押し返した。



実習を終えて温室を出た。土を浴びてしまったためか髪が軋んでいる気がする。今日の授業はこれで終わりなので名前はシャワールームに直行することにした。リョーマは涼しい顔で大広間に向かっていく。食事をとりに向かったのだろう。その制服に汚れはない。君は本当にスマートだよな。

共用のシャワールームに着くとまだ時間が早いためか誰もいなくて貸切状態だった。運がいい。
名前は気を抜いていた。ネクタイを首から引き抜きワイシャツのボタンを外しながら個室のドアに手をかけた。

そのときキイと部屋の入り口のドアが開いた。誰かが入ってきたらしい。早く個室に入ってしまおう。気に留めず、ローブをワイシャツもろとも腕から引き抜こうとしたとき、個室の扉が何者かによって抑えられた。足。大きなローファー、スラックス。男だ。

名前は思考を回した。間違えた?いや絶対にない。確かに女子用に入った。ドアが軋んだ音をたてる。慌てて抑えるも、やはり押し合いで勝てるはずもなく男子生徒の侵入を許してしまった。

「やっぱりそうだ、お前俺のことを待ってたんだろう!!そんな格好をして!!」

狭い個室で肩を掴まれた。名前はほとんど脱げていた服を力の限り引き寄せた。ああ厄介なことになった。これでは杖も取れない。

「やっと一人になったな。最近ずっとグリフィンドールの男といただろ。なあサキュバス。知ってるぞ。お前が本当に好きなのは俺だ。夜な夜な夢に現れやがって!!」

言っていることはめちゃくちゃだ。とにかく最悪の事態だけは起こしたくない。最悪な事態とは、この身から魅了が漏れ出て誘惑の事実が成立することだった。感情が揺れないよう、名前はただ自身の制服を強く掴み目を閉じて耐えた。

幸い、その後すぐに女子の集団がシャワールームに入ってきたことで騒ぎが発覚し事態は未遂に終わった。管理人に引きずられながら男子生徒は「あいつがそそのかしたんだ!」と最後まで抗議をしていた。
その日のうちに噂は広まった。彼は組み分けの儀式の前に最初に騒いだ男子だった。あの時も名前はずっと下を向いていたので顔まで覚えていなかった。寮に戻ると談話室に溜まっていた寮生たちが一斉にこちらを見たが名前は歩幅を緩めず寝室へ向かった。




翌朝、食事のため大広間へ向かうと、中から慌てた様子のリョーマが出てきた。眉間に皺を寄せその剣幕のまま名前の手を引き歩き出した。

「なんだよ。朝食をとりにきたんだ。戻ってくれ。」

リョーマは何も言わず早足に進んでいく。指が食い込む腕が少しだけ痛かった。しばらく進んで長い渡り廊下まで来た。遠くの山から抜ける朝日が眩しかった。

「…止まってよ。」

腕を引いて声をかければ、リョーマは大人しく足を止めた。そして力なく手を離し下を向いてしまった。

「昨日のことなら私は気にしてない。事故みたいなものだ。」
「…何、されたの。」
「別に何も。本当だよ。」

崖と谷の上に架けられた渡り廊下は見晴らしが良かった。遠くでフクロウが飛んでいる。手紙を運んでいるのかもしれない。リョーマは相変わらず難しい顔をして押し黙っていたが搾り出すように呟いた。

「…怒りなよ。」
「君が代わりに怒ってくれているみたいだから私はそれでいい。」

リョーマは何か言いたげな顔をしてまた黙ってしまった。名前は笑って見せた。

「行こう。朝食の時間が終わってしまう。」

頑固に俯いている背中を押してやればリョーマは「自分で歩ける」とため息をついた。男性の中では小柄に見えるリョーマの背中は触れてみると硬くて広かった。




シャワールームでの騒動は校内で問題になり、暴行に及ぼうとしたことは例え相手が魅了を持っていようと許されないとの意見がほとんどであったが、中には彼に同調し擁護する声もあった。

呪文学の授業後、スリザリンの寮監でもあるチャンブリス教授に呼び止められた。チャンブリスは渋い顔で言った。

「今回のことはあなたのせいではありません。特別に監督生の風呂の使用を許可します。あそこなら施錠がしっかりしていますから。監督生たちと時間をずらして使いなさい。」

名前は頷く他なかった。教授は同情するような目で見ていた。きっと教師の中でも意見が割れているのだろう。その視線から背を向け教室を出た。




その夜、監督生の風呂に向かった。石造りの部屋は当然人もいなく静かだった。中央には広い浴槽があり、色とりどりの湯水が煌びやかな配管から注がれていて、その先の壁を見た、名前は息を止めた。そこには人魚の絵画が飾られていたのだ。
長い髪を揺らし、岩に腰掛け歌うような姿。

「そこにいたんだ。」

自然と出てきたその言葉に自分で苦笑いをして名前は服を脱いだ。絵画の彼女は馴染みのない髪色をしていたけれどその特徴的なシルエットがどうしたって母を彷彿させた。名前は湯船に浸かって足を伸ばした。どこからどう見ても名前のそれは人間そのものだ。

ぼうっと水を掻いていると浴槽の中からぬるりと嘆きのマートルが現れた。彼女は半透明の姿で名前を睨み甲高い声で言った。

「何よあんた!監督生でもないのにこんなとこで優雅に風呂だなんて! 憎たらしいくらい整った顔ね!」

よく喋る幽霊だ。名前はつんざく声に片耳を塞ぎ顔を顰めた。

「うるさいな。許可は得ているよ。」

彼女はホグワーツの制服を着ている。在校中に亡くなって校内に棲み憑いているのだろう。

「ねえ。あなたさっきからそれを熱心に見ているけど、残念ながらホグワーツの周りの湖に住んでるマーピープルはその絵画とは違ってもっとこわぁい顔した野蛮な連中よ。あまり幻想を抱かない方がいいわ。」
「…ああそうだろうね。」
「ねえ私退屈なの。恋バナとか聞かせてくれない?」

マートルはくるっと宙を回り名前の顔をじろじろと見た。鬱陶しいが気は紛れるかもしれない。名前は適当に相槌を打った。

「恋バナねえ…。」
「その綺麗な顔なら男には困らないでしょう?意中の相手はいるのかしら。」
「残念ながら。」
「嘘つき!じゃあいつも一緒にいるグリフィンドールの彼は何?!」

彼女は鼻を鳴らして見下ろしてきた。名前は少し考えた。ああ。越前リョーマか。彼とはそういう関係ではない。きっとリョーマもこう答えるだろうなと、名前は皮肉を込めて笑った。

「さあね。」

マートルは「つまんないったら! あんたなんか嫌いよ!」と喚き、排水溝に消えていった。ああうるさかった。肩までお湯に浸かって息を吐く。ね。笑っちゃうよね。壁画の人魚は髪を解かし遠くを見ていた。




支度を整え廊下に出るとリョーマが扉の前で待っていた。壁に寄りかかって座っていた彼は名前を見つけて立ち上がった。リョーマの意図を汲んで名前はあえて口に出した。

「門番かな?」

リョーマはローブの皺を手で叩いて伸ばしながら言う。

「たまたま通りかかっただけだよ。」
「そう。たまたまね。」

肩をすくめて見せて歩き出すとリョーマは口を尖らせながらついてきた。監督生の風呂は上階にあって人は滅多に立ち寄らない。たまたま通りかかるような場所でもない。静かな廊下に二人の靴の音が響いた。

「監督生の風呂、どうだった?」
「プールみたいに広かったよ。マートルがちょっと賑やか過ぎたけどね。」
「あの人ここにも出るんだ。でも広い湯船に入れるのは羨ましいな。」
「確かクィディッチのキャプテンも入れるはずだよ。君スカウトされていただろう。目指してみたら。」
「風呂のために?大層な動機だね。」

いつもの調子で言葉を交わしてやはり名前は心が満たされていくのを感じた。リョーマの存在で傷を舐めているのだと名前は自覚をしていた。だから少しずつ話せることが増えたとて、頼りにしていいのだと教えられたとて、これは恋とは決して呼べない。そんな美しい感情ではないと知っている。わかっている。

静かな廊下を抜け、動く階段を降りた。階段がゴウと音を立てて首を振るたびリョーマは名前に手を差し伸べた。

「平気。」
「見てられないよ。そんなにふらつかれたら。」
「意外と心配性だね。」
「あんたが危なっかしいんだ。」

スリザリンの地下に続く最後の階段を降り切ってリョーマは歩幅を緩めた。

「…ほんと危なっかしい。」
「そんな顔しないでくれ。私は平気だよ。」
「何も言ってないよ。」
「本当に平気。それに今私は少し舞い上がっている。」
「…」
「風呂に人魚の壁画があってね。久しぶりに母に会えたみたいで嬉しかったんだ。」
「…そう。」

名前は寮の入り口で合言葉を唱えた。開いた扉に足を踏み入れ、最後にリョーマを振り返った。

「だから私は大丈夫だよ。送ってくれてありがとう。おやすみ門番さん。」
「…うん。おやすみ。」

リョーマは呆れたような困ったような顔をしていた。




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