セイラルの唄
湖畔人間は長く生きることはできないけれど、死んでもその魂は在り続ける。人魚は三百年生きることができるが、死ねば水の泡になるだけ。
母は泡になって消えた。彼女の血を引く私はどちらだろうと時々考える。どうだっていい。童話の中での人魚姫は人間の王子に叶わぬ恋をし、人間にもなれず、最後には人魚として死んだ。
母は人間になりたかったのだろうか。それを確かめる方法はない。母はもういない。
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ホグワーツの秋が終わりを迎え、冬の気配が校内に忍び寄っていた。スリザリンの寮は地下にある。目が覚めても暗いので、朝が来たのかいまいち分からない。名前は時間を確認しようと体を起こした。そのとき頬に髪が張り付いて、自分が泣いているのだと気付いた。何の夢を見たのだったか。寒い。考えるのをやめて再びベッドに潜った。
とある授業中、紙飛行機が音も立てずにやってきた。それは名前の広げていた教科書の上に落ちて、見れば折り目からインクが滲んでいる。開くとそこには、見慣れた字が書かれていた。
『この後、湖。』
名前は鼻で笑った。
「なんだよ。」
教室を見渡せば遠くに座っていたリョーマは知らん顔をしている。放っておくのも可哀想かな。隣に座っていたレイブンクローの女子が「ねえそれ恋文?」と目を輝かせたので「そうだよ」と適当に答えた。授業が終わったその足で名前は指定された湖畔に向かった。少し前にリョーマに連れられて行った湖のほとりだった。
リョーマはすでに待っていた。その瞳がこちらを捉え、彼は小さく笑った。
「来ないかと思った。」
「無視しても良かったんだけど、君あとから文句を言ってくるだろう。」
「そんなに陰湿じゃないよ。」
今にも雪が降りそうな灰色の空だった。水辺は静かに波打っていた。
「デートの誘いくらい直接言いなよ。」
「そんなんじゃないから。」
「私より隣の席の子の方が喜んでいたよ。」
「来たのがあんたでよかった。」
二人は軽く笑って湖の縁に座った。風が冷たく、名前はさりげなく腕をさすった。するとリョーマは膝に置いていた金と赤のマフラーを差し出してきた。
「どうぞ。」
「平気だよ。」
「こんなことでムキにならなくても。」
くすくすと笑いながら「意外と子供っぽいよね」とリョーマは言って、勝手に名前の肩にマフラーをかけた。暖かい。グリフィンドールのカラーのそれに首を埋めながら、名前はリョーマを睨んだ。案の定「似合わないね」と笑ってくるので名前は黙って下を向いた。
泣きそうになる。馬鹿にされたからじゃない。リョーマの笑う顔が時々どうしようもなく胸に突き刺さるのだ。
今日見た夢のことを思い出す。そう。母の夢だった。どんな内容だったのかは忘れてしまったけれど。
母は魅了を遺した。周りは誘惑の力だと言うけれど、名前にとってのそれは母の美しい歌声だった。好きだった。綺麗だった。彼女の魔法に魅せられていた。人がどう言おうと私は彼女が遺したものを否定したくない。
だからか。隣に座るリョーマを見た。彼は一度だって私を否定しなかった。だから私はどうしようもなく君の前では心がいつも痛いんだ。
深い意味はない。思いつきだ。母に比べて随分と不格好で不完全な「魅了」。少しだけ発動させてみた。まだ飼い慣らせていない力だけど、ほんの少し、意識してリョーマに向けた。
ただ冷たい風が湖畔を吹き抜けた。案の定、彼には何も起きなかった。リョーマは顔色一つ変えず湖の波紋を見つめている。名前は安心したようながっかりとしたような気持ちになって息をついた。やはり効かないか。それとも極度の鈍感なのか。
その時、リョーマが突然笑い出した。名前は驚いて顔を上げると彼はいたずらっぽい顔でこちらを見た。
「今、使ったでしょ。」
彼はどこか嬉しそうに笑って続けた。
「無駄だよ。諦めなよ。」
「…何のことかな。」
努めて冷たく返すと、彼は肩を震わせて笑った。
「あんたの魅了、俺には効かない。何度やっても同じだよ。」
湖の向こうからまた冷たい風が吹いた。マフラーを借りていてよかった。髪をかき上げると目が合った。琥珀色の瞳がゆらりと膜を張って、ほら君だって寒いんだろう。名前は深くため息をついた。それは白く色付き、顔を上げれば雪が降ってきた。
「…退屈しないね君は。」
もうすぐ冬が始まる。初雪の空に、リョーマが湖に石を投げ入れる音だけが響いた。
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