セイラルの唄
検証


彼女が美しかったのは、私が彼女を好きだったのは、私があなたの歌声を美しいと言ったのは、そういう意味じゃなかったのに。



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あの日降った雪は、城の庭に浅く積もった。
一日の授業を終えた頃、名前はグリムソン教授に呼び止められた。彼は研究室から出てきたところで名前を見つけ、目を細めて笑顔を作った。

「やあ。」
「…。」

視線もくれず通り過ぎようとしたとき、グリムソンは名前の肩を掴んだ。

「良いところに来た。また助手を頼めるかな?」

名前は肩を払って睨みつけ、ローブの襟を正した。あからさまに不機嫌な態度をとってやっても、この男は不気味なくらい動じない。

「あの程度の雑事なら次は違う人に頼んでよ。暇じゃないんだ。」
「いや、今日の課題は君にしか頼めない。」

グリムソンは声を落とし続けた。
「勝手ながら、君のルーツを調べさせてもらったよ。君に混じるその力はマーピープルのものだったんだね。」

名前は息を呑み、言葉を失った。
横目に見れば校舎にはまだ人通りがある。生徒たちの足音と話し声がすぐそこに聞こえた。鋭い目に見下ろされ、名前は眉をひそめた。この話を人に聞かれたくない。

「…本当に勝手だね。」

偏屈なその目が笑う。名前は重い足で彼の研究室に踏み入れた。



「その様子だと本当のようだね。さあ、見せてごらん。」
「待って。何をする気なの。」
「君は気にしなくていい。私が知りたいだけだ。」

研究室の扉が閉まるなりグリムソンは名前の肩を掴み、顔をぐいと寄せた。息がかかりそうなほどの距離に名前は顔を歪めた。

「目だね。君の魅了が出力されるのは、その目だ。強く感じるよ。とても素晴らしい。近くで見てみたかったんだ。」
「もういいだろう。離してくれ。」
「目、だけなのかい。」
「は?」

グリムソンの手は次には名前の髪に触れた。母譲りのシルバーブロンド。血の気が引いた。髪をかき分けてグリムソンは名前の首筋を覗き込んだ。その渇いた手の温度に悪寒が走った。

「さ、触るな、」
「エラはないのだね。それから水かきは?手を見せてみなさい。」
「ちょっと!度が過ぎているよ!」
「ふむ。人間の指そのものだね。それに足も見ての通り人間のものだ。では鱗は?どこかに隠し持ってはいないのかい?よく見せてくれ。」

グリムソンは名前の手を取ると、ローブの袖を肘まで捲り上げ、無遠慮に触れてきた。その目は過集中のようにこの身体しか見ていないようで、抵抗の声は届いていなかった。

「やめろ…っ」
「暴れると危ないじゃないか。うっかり貴重なマーピープルハーフの鱗が剥がれて落ちてしまった、なんてことは避けたい。」
「鱗なんてない。無駄だ、もう帰してくれ。」
「なるほど、感情の波にその魅了は大きく影響されるのか。まるで酒に溺れているような感覚だ。悪くない。…さて。君は選ぶことができる。この今にも乱暴を働きそうな私に無理やりその制服を剥がされるか、君自身で私に提示するか。」

何。何を言われているのか分からない。名前は立ち尽くした。耳の奥で心臓がものすごい速さで鳴っている。怖い。

「足を見せなさい。私に、見せなさい。」

今にも齧り付きそうなほどの近さで教授は名前の靴下を下ろし始めた。それから無遠慮にスカートに触れようとしたその枯れた手を、名前は慌てて振り払った。

「わかった、わかったからとにかく私に近づくな!」

瞳孔の開いた目の前の男。触られたところが気持ち悪くて仕方がない。半端に脱がされた靴を履き直したくて、でも体に力が入らない。名前は息を吐いた。こんなの大したことじゃない。もう耳がよく聞こえない。逃げ出してしまいたい。名前はローブの裾を握った。

その瞬間。バン、と大きな音を立てて扉が開いた。そこにはリョーマがいた。リョーマは額に汗を滲ませ、肩で息をしていた。

「…っ!」
「…君はそんなことも分かるのか。たいしたものだ。」

教授は驚いたような、それでいてどこか嬉しさも滲ませてリョーマを見た。

「あんたと話すことはない。」

冷たく言い放ちリョーマは名前の腕を引いて部屋を出た。
名前は慌てて脱げかけていたローファーにつま先を引っ掛けてその背中を追いかけた。

「おやすみ。人魚姫のお嬢さん。」

グリムソンは満足そうにこちらを見ていた。




研究室を出てしばらく進んだところでやはり片方の靴が脱げたので、名前はリョーマの手を振り解いた。

「ちょっと待ってくれ。靴が脱げた。」
「…」
「よくここが分かったね。君が来てくれて助かった。」

名前はずり落ちていた靴下を上げ、踵が潰れたローファーの形を整えて履き直した。リョーマは黙っていた。
廊下を歩く。外を見ればまた雪が降っていた。もうすぐ日が暮れるというのに元気な生徒がはしゃいで雪に足跡をつけて回っていた。リョーマは変わらず難しい顔をして黙っていた。

「君が思うようなことは何もなかったよ。ただマーピープルの名残を尋ねられただけさ。」
「それは何もなかったとは言わない。」
「本当に平気だよ。君は心配性だな。」

いつまでも暗い顔のリョーマに笑って見せれば、ぐんと手を引かれた。…あたたかい?気付けば引き寄せられリョーマの腕の中にいた。

「…何?」
「あんたはさ、なんでそんなに諦めてるの。」
「こんなことをしていると目立つ。離して。」

顔は見えなかった。リョーマはまるで泣いているみたいにこちらの肩口に額を埋めて、背中に回された腕が痛いくらいだった。

「…。」
「君が悪く言われるのは嫌なんだ。」

後頭部を軽く叩いて顔を上げさせようとしたが、リョーマは被りを振ってそれを拒否した。猫っ毛の黒髪が柔らかい。教授に触られたのは身の毛もよだつほど不快だったのに、リョーマは全然違う。しかし困った。窓の外で雪遊びをしていた生徒たちが指をさしてこちらを見た。ほら、もう寮に戻ろう。

「…悪いことじゃないよ。」
「…?」
「あんたと居るのは全然悪いことじゃないよ。」

蚊の鳴くような声でリョーマは言った。
どうしても離してくれそうにないので、名前は降参して体を預けた。




しばらくした頃にリョーマは渋々といった様子で腕を解いた。その黒い前髪が跳ねていたので撫でて直してやればリョーマは目を見開いた。

並んで歩く。雪の舞う庭を横目に見た。明日にはまたもう少し積もるかもしれない。
地下のスリザリン寮の前まで名前を送ったリョーマの表情は、いつものクールなそれに戻っていた。

「俺、もう隠さないから。」

出し抜けにそう言われ名前は顔を上げた。廊下の蝋燭の灯りがその瞳に映って紅く燃えた。

「あんたのそれをどうにかしたい。」
「…」
「明日から覚悟してね。」





リョーマはそう宣言した通りその次の日から名前の行く先どこにだって現れた。朝、寮の扉を開けたとき。食事を終えて授業に向かうとき。自習のため図書館で過ごすとき。エラヴィスを連れて庭に出るとき。いつだってリョーマが待ち受けていて着いて回った。

「よく私の居場所が分かるね」と言えば「隠さないって言ったよね」とリョーマはあっけらかんと言う。

「今までは一応遠慮してたからね。」





クリスマス休暇が近付いていた。校内は浮き足だった雰囲気に包まれていた。大広間では家族の話や故郷の話で賑わっていた。スリザリンの長テーブルにリョーマと名前は並んで座り、魔法薬学のレポートをまとめていた。

「あんた、休暇はどうするの。」
「一旦家に帰るよ。ここにいるよりマシだ。」

そうしなければリョーマもきっとホグワーツに残ると言うだろう。グリムソンの一件以来、張り付くようにそばにいてくれている。助かるのは事実だが名前はやはり申し訳ないと感じていた。

そのとき、リョーマが不意に上を見上げた。見れば一羽のフクロウが飛んできて、手紙を二通落とした。二人は顔を見合わせる。同じ筆跡で書かれた封筒が長机の上を滑った。




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