サンダルウッドの情念
8.白としずく
校舎に入ってしばらく進むと腕の中で名前が身動ぎしたので思わず足を止めた。
「……りょ、ま」
「動かなくていい。じっとしてて。」
「、だめ。戻って…」
どうしてだろう。どうして他人のことはこんなに心配するのに自分のことは蔑ろにするんだろう。
「戻らない。」
「…私、…自分で歩けるよ。」
「名前、怒るよ。」
心を鬼にして強く言えば、名前は何か言いかけたが口を閉じて下を向いた。
おばさん、もとい竜崎先生に保健室の鍵を開けてもらい、名前を抱えて中に入った。
「すまんな、私ももっと注意していれば良かった。まさか倒れるまで無理するなんて、馬鹿な子だね…。」
真っ白なベッドに下ろす。後ろ髪を束ねるゴムを抜き取ると名前は息を深く吐いて目を閉じた。おばさんは、貧血による立ちくらみだね、と言った。
「冷えすぎないように汗を拭いておやり。水分もこまめに取らせて。向こうも心配だから私は一回コートに戻るが…ここはあんたに任せていいね?」
「うん。」
「またあとで寄るけど、何かあったらすぐに呼ぶんだよ。」
「ん。」
おばさんは手際良く保健室の色んな扉や冷蔵庫を開けてタオルや補水液などを取り出すとこちらに渡した。
「じゃ、頼んだよ。」
扉が閉まる音が聞こえて、二人きりになった。白いカーテンが揺れて緩やかな風が吹き込んだ。
***
「名字が倒れたのも驚いだけど…正直越前にもかなり驚かされたよ。」
「大石まで真っ青になってんじゃん。それにしても普段あんなにクールなおチビちゃんが血相抱えちゃってさ〜。」
「…名前、最近痩せたよね。」
「不二もやっぱりそう思う?いつからだろう、部活復帰してからかな。」
「うんにゃ。最近いつもに増して元気だなとは思ってたんだけど…。」
「無理、してたのかな…。」
「おやあんた達。固まってないで試合に戻りな。」
「竜崎先生!」
「先生、名字は」
「心配ないさ。少し休めば動けるようになるだろう。まあ今日は動けるようになったら上がってもらうがね。手塚。フォローは頼んだよ。」
「はい分かりました。…海堂、もう足は平気か?」
「…。はい。」
「?どうした。」
「い、いいえ。大丈夫です!自分は問題ありません。」
「そうか。」
「…」
(…あいつ、あのとき。俺の聞き間違いでなければ…名字のこと……。)
***
仰向けに眠る名前の額に汗が滑り流れた。乾いたタオルを当てると、名前は薄く目を開けた。
「ごめん、起こした。」
「寝てなかったから…大丈夫。」
「寝たほうがいいんじゃない?」
「集計も放ってきちゃったの…」
「それはもういいってば。みんながなんとかするよ。」
「…」
「あとで家の人に迎え頼んでおくけどいいよね?」
「だ、だめ!」
弱々しく言葉を紡いでいた名前が突然声を張った。
「…なんで?あんた倒れたんだよ?」
「………」
「なに?」
「…………誰もいないから」
「え?」
「…誰も、いないの。家に。だから、ダメ。」
思いを巡らす。名前の父親は寺の元住職。今は不在だと言っていた。理由は知らないけれど。今の家に住み始めて1ヶ月は経つがそういえば母親の姿も見たことがない。この前家に行ったときも名前以外に人の気配はなかった。
「どういうこと?」
「…みんなには言わないで、絶対心配するから。」
「いいから。何?」
長い長い沈黙が流れる。名前は口を開けては閉じ、開いてはつむぐを何度か繰り返して視線を窓の外に投げた。4月らしからぬ底抜けに眩しい青空を見上げる瞳が暗くなっていく。
「…お父さん、病気で、遠くの病院にいるの。」
震える小さな声。
「お母さんもそばにいたいからってついて行ったの、だから誰もいない。」
「……名前は親父さんのところ行かなくてよかったの?」
「………」
「…ごめん、今の無し。」
「私、」
名前の目からポロポロと涙が溢れた。
「私、お母さんに嘘ついたの、お寺を守りたいから残るって。困ったときは新しくご住職になられる方に助けてもらうから大丈夫って、」
「…」
「本当はね、お父さんやお母さんよりも、お寺よりも。
私、部活が大事だったの。」
次から次に涙が零れ落ちる。窓から一層強い風が吹き抜けた。風に煽られた名前の横髪が濡れた頬に張り付いた。
「どうしてもみんなと全国行きたくて、だから……っ」
「…そっか。」
名前の目からは壊れた蛇口のように涙が止めどなく流れた。俺にはただそれを拭うことしかできなかった。
しばらくすると名前は落ち着いて今度こそ眠りについた。
自分なら名前の立場だったらどうするだろう。いやそんなの本人にしか知り得ないこと。
名前の決断が良いか悪いかは分からないが自身が体を壊してしまうのが一番よくない。これだけは確かだ。
「親父。俺だけど。」
名前の寝顔を見やって、電話をかけに廊下に出る。
「あ?なんだよこんな時間に。お前部活は。」
「…親父、お願いがあるんだけど」
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