セイラルの唄
黒い湖


本日の薬草学はいつもの温室ではなく校舎南側の崖の上で行なわれた。これが今日最後の授業で日が傾き始めていた。岩肌のような険しい環境に根差す薬草「ルナリア」の採取がミッションだった。崖の下には黒い湖が広がり、暗い水面が不気味に揺れている。薬草学のハートウィード教授が岩の間を指しながら言った。

「ルナリアは月光の下で輝く薬草です。崖の縁に生えてますが、落ちると危険ですから気をつけるんですよ。」

リョーマと名前は他の一年たちと共に教授の指示通り岩の間に生える小さな白い花を丁寧に採取した。



授業が終わり、ハートウィード教授が生徒たちに「校舎に戻りますよ」と声を掛けた。名前は最後のルナリアを提出し、汚れた手を払いながら顔を上げた。リョーマが崖の向こうに広がる湖を眺めていたので名前はなんとなくその隣に立った。西からの日差しが眩しく二人は目を細めた。

すると、ハッフルパフの上級生が何人か校舎から出てきてこちらに近付いてきた。リーダーの背の高い男が顎を突き出し言った。

「これはこれはスリザリンのサキュバスじゃないか。──いや、マーピープルだっけか。」
「聞いたぜお前マーピープルのハーフなんだって?冗談だろう?」

名前は男たちに一瞥をくれ視線を切った。
どこでその話を聞いたのか、なんて。大方予想はつく。
リョーマは一歩前に出て名前を背に隠した。

「で、何の用?どうせ誰かの差し金でしょ。誰かなんて分かってるけど。」

リョーマは口調を強めて睨みつけた。彼らは一瞬たじろいだが、その中の一人が杖を抜いた。

「レビコーパス!」

その呪文は名前に向けられた。途端に名前の体が宙に浮く。リョーマが「やめろ!」と叫んだ瞬間、もう一人が「エクスペリアームス!」と唱えリョーマの杖を弾き飛ばした。その隙をついて上級生があろうことか名前を崖の縁へ突き飛ばし、嘲るように叫んだ。

「本当にマーピープルだっていうんなら、泳いで上がってこいよ!」

名前は淡々と言った。
「くだらないね。」

名前の身体は後方に飛んだ。崖の下は湖だ。
リョーマは咄嗟に岩肌を跳び、名前の腕をつかむと庇うようにして抱えた。二人は丸腰で落ちていく。黒い水面が迫る中、名前はリョーマの腕の中で一つの煌めきを捉えた。金色、いや。光って見えたのはリョーマの瞳だった。こんな色をしていたっけ。西日に透ける琥珀色のそれに目を奪われている間に無情にも二人は水に叩きつけられた。上級生たちの嘲笑が上方で響いた。




遠く、校舎の窓からグリムソン教授がその光景を見ていた。二人が水に落ちる瞬間、つむじ風のように目に見えない何かが吹き上がり、衝突の勢いが微かに弱まったことに彼だけが気付いていた。口元に薄い笑みを浮かべ、グリムソンは呟いた。
「…面白い。」





冷たい水が体を包み、二人は咄嗟に息を止めた。名前は暗い水の中で、底からこちらを伺う野生的な容姿のマーピープルの群れを見た。鱗に覆われた体、鋭い爪、ギザギザの歯──母とは全く違う。名前は彼らの敵意の眼差しに胸が締め付けられた。

リョーマが名前の腕を引き、二人は水面に浮上した。凍てつく寒さだ。咳き込み、息を整え、お互いの手を取った。名前は濡れた髪をかき上げた。

「ごめん、君を道連れにした。」
「あんたのせいじゃないよ。」

水面にリョーマの杖が浮かんでいるのが見えた。名前は手を伸ばしてそれを掴んだ。

「君の杖。落とすなんてらしくないね。」
「さすがに焦ったね。運が良かったよ、死ななくて。」

リョーマは少しだけ目を綻ばせそれを受け取った。
水に落ちたとき、高さの割に覚悟した程の衝撃ではなかった。きっとリョーマが抱えてくれたからだ。

二人は浅瀬まで泳ぎ、湖畔に上がった。濡れた服が体に張り付く。このまま校舎に入るのは気が引けた。
リョーマは杖を軽く振った。

「インセンディオ。」

湖畔のほとりに落ちていた流木に小さな火が灯り、暖かい光が二人を照らした。並んで座り、服が乾くのを待った。焚き火越しに暗い水面を見た。鋭い目つきの湖底のマーピープルの姿が脳裏に焼き付いていた。彼らは領域に踏み込まれたことでこちらを警戒していた。知らない世界というのは危うく、身がすくむ。

いくら自分にとり美しく大切な思い出であっても、客観的に見れば母だって、私だって、そう見えるのかもしれない。

「見た?」

そう思われたって構わないと思ってた。名前はリョーマの目を見れず、下を向いたまま尋ねた。自分の大切にしているものを強要したいわけではない。母の姿と歌声は自分にとっては何より美しい記憶だ。でも別に人から美しいと思われたいわけでもない。ただ、どうかリョーマだけは呆れないでほしかった。

リョーマは頬杖をついて言った。

「何となくわかるよ。あんたの母さんはこの湖の奴らはとは別種でしょ。」

そうとだけ言って、リョーマは焚き火に新しい枝を放り込んだ。火の温もりに服が少しずつ乾いていく。そのある意味無関心な態度にこれまで何度も救われてきたことを思い出した。名前はかぶりを振り、笑顔を作って顔を上げた。

「それにしても、どうせ湖に落ちるならいっそのこと城の外まで泳げばよかったかな。」
「…うん。」

リョーマは眉を下げて見透かすように優しく笑った。何を取り繕う。君の前で。新しい話題を探すのをやめて、名前は口を閉じた。二人でただ火を眺めた。


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