セイラルの唄
バレンタインデー


今日は休講日だった。朝、スリザリン寮に手紙が届いた。名前は便箋を裏返した。グリムソンからだった。「制御薬が切れる頃だろう。研究室に来なさい。」分かりきった嘘だ。薬など飲んでいないのだから。破り捨ててしまいたい衝動を、リョーマを元に戻す約束を思い起こして手を止めた。






「随分と回復が早かったね。私の期待を上回った。次は少々、強度を上げたい。君の耐性を調べさせてもらう。」

研究室に向かうとグリムソンはやはり薬など出さず例のキャビネットを開けた。その先の闇に足を踏み出せないでいると、背中に杖を突き立てられ、耳元に息がかかった。

「時に疑問があってね。何故越前くんはそれほどの距離で君の目を見て正気を保っていられるのか。」
「…っ、」

振り返れば頬がつくほどの距離で彼は続けた。

「私の中で仮説がある。彼、越前リョーマは魅了にかからないのではなく、もうすでにかかっていて、深くまでかかっていて、だから半端に酔うのではなく心乱れることもなく君のそばにいる。彼を調教することに君は成功してしまったんだ。」
「…なにを、言って…、」

グリムソンは口角を上げると呪文を唱えた。





喉の奥が焼けるような、頭骨が砕けそうな、眼球が歪んでしまいそうな長い時間を過ごし、今にも薄れそうな意識をなんとか繋ぎ止めて研究室を出た。指にも足にも力が入らない。

前回はこの廊下でリョーマが待ってくれていた。今日はいない。黙って来たのだから、直感を鈍らされている今のリョーマは名前が単身ここに来たことには気付かない。

震える足を奮い立たせ壁伝いに歩けば、中庭を挟んだ向こうの校舎でリョーマが早足で歩いているのが見えた。すれ違う人に声をかけては闇雲に歩いている。探しているんだ。名前は見つからぬよう窓枠の下に身を隠そうと膝を曲げた。するとバランスを崩して不恰好に床に転がってしまった。こんなところ見られたくない。名前は浅い息を整え、重い体を引きずるように寮に戻った。





リョーマは日が登った頃に目を覚ました。今日は休講日だ。休暇明けの名前はやや神経質になっていていつも疲れた顔をしていた。きっと今日は寮から出ない。そう思いつつもスリザリン寮まで足が向かう。すっかり顔馴染みになった壁画の伯爵は、リョーマの姿を見つけ言った。

「彼女ならもう出掛けたが?」
「…そう。」

校内を探した。壁画、生徒、幽霊に声をかけたが見つけられなかった。一番信じたくない場所を睨む。リョーマは考えた。グリムソンのところへ行ったとして、無謀に飛び込むことで起こりうる良いことと、悪いこと。名前は言わない。彼女自身が判断して彼女は一人で動いている。「分からない」がこんなに歯痒いものとは忘れていた。

ひたすら校内を歩き続けた。すると特別目の引く髪色が視界の隅にちらつき、咄嗟に振り返った。そこには探していた姿があった。胸を撫で下ろしたのも束の間、直感が鈍らされていながらもリョーマは違和感を感じ取った。
「リョーマ!」と、その口元が弧を描いた。




今日はバレンタインデーである。
エミリー・クラーク。このレイブンクローの三年生は休暇前にリョーマを追いかけ回していた例の女子だ。
彼女から見てリョーマは年下であったがいつだってクールで素敵だった。時々見かける、嫌に整った、人の目を奪う容姿の女の子。その隣でだけそのクールな目が綻んでいるのをエミリーは度々目撃していた。ずるい。ずるい。魔女としては大したことのないくせに。たまたま美しく生まれたからってリョーマの視線を独占できるなんてずるい。

どんなプレゼントも、彼は受け取ってくれない。あの子からの贈り物なら受け取るのだろうか。そう思ったらすぐだった。ポリジュース薬。飲むと他人に変身することができる魔法薬だ。作り方を調べ、すれ違い様に偶然を装って彼女と肩をぶつけ、髪を一本引き抜いた。触れた腕の細さに、ああだからリョーマは守りたいのかなどと少し思った。エミリークラークは、名字名前の姿に化け、自身に堕ちる惚れ薬を仕込んだケーキを抱えた。



エミリーは冷やかに髪をかき上げ、名前の仕草を真似て言った。
「ねえ、リョーマ。少し話がしたい。」

リョーマは振り向き、その瞳を一瞥し、眉を顰めた。

「馬鹿にしないでくれる?」

低く吐き捨て、リョーマは背を向けた。予想外に突き放されエミリーは取り乱し、声を震わせた。

「え、待って!なんで?!」

リョーマは目も合わさず抑えた声で言った。

「目が全然違う。…それから、その姿で下手なこと言わないで。」

ポリジュースの効果が揺らぎ、名前を模倣した姿が崩れ始めた。顔を隠すようにしゃがみ込んだエミリーをリョーマは振り返った。

「ねえ。今日、名字名前見た?」
「…。あの子ならさっき寮に戻ってそれからずっと寝込んでるってスリザリンの友人が言ってたわ。だから私は出て来たのよ。鉢合わせするわけにはいかなかったもの。」
「…そ。サンキュ。」

リョーマは息を吐き出し踵を返した。その姿が見えなくなったのと同時にエミリーは声を上げて泣いた。





寮に戻ったことを確認するためにリョーマはスリザリン寮の近くの肖像画に声をかけた。帰ったのは本当らしい。「君は無力だな。」絵画の伯爵は蓄えた髭を撫ぜた。

「…そうだね。」

寮にいるというなら安心だ。リョーマは肩を下ろして大広間へ向かった。空腹を思い出したように腹が鳴った。朝食を食べるのを忘れていた。

エミリーが接触してきた理由が分かった。大広間はバレンタインの浮かれた雰囲気に包まれていた。長テーブルの上でハートの形に切り抜かれたピンクと赤の紙が踊り、大皿にはファンシーなビスケットやチョコレートが並ぶ。生徒たちは手作りのカードを交換し、ゴーストたちが愛の歌で冷やかしていた。リョーマはそんな雰囲気に身を置くのもはばかられ、手短に食事を済ませて早々に退出した。




静かな場所を求め、リョーマは図書館に籠もった。分からないというとはとても歯痒い。六歳のころから一心同体だった「直感」はクリスマス以来静かだった。
休暇明けにグリムソンに呼び出され、憔悴しきった名前の、枯れたように燻っていた瞳を思い出す。名字名前は出会ったときから美しかった。声が、髪が、目が、表情が美しい人だった。彼女はいつもぶっきらぼうな言い方ばかりするが、笑うと普通の女の子に見えた。その容姿は母親に似たのだと言っていた。彼女は母を大切に想っていた。「魅了」が尽きたとき、彼女はどんな気持ちだったのだろう。

グリムソンはこの直感をどのように取り除いたのだろう。封印か、没収か。何をされたのか分からない。分からないから解きようがない。得体の知れない現象に闇雲な解除魔法をかけるのは危険だ。でも、もうそんなことは言っていられないのだ思う。埃っぽい本棚を漁り、古い文献を次々と開いた。どれもピンと来ない。本当に不便だ。

本棚の背表紙を目で追い、リョーマの視線がある本で止まった。名前がゴブリンの反乱の課題をまとめていた時、偶然開いた本だ。あのとき名前はおとぎ話とばかりにその内容を間に受けていなかった。休暇中に魔法で雪を舞い上がらせたとき「まるで妖精みたいだね」と名前は言った。いない。いる。在る。妖精の語源。それがどうした。

守りたかったのはまるで自分を見ているようだったからだ。
あんたがずっと寂しそうにしていたからだ。




一日を図書室で過ごした。次第に日が傾いてきたので図書室を後にすると、その先で散歩をしていたのらしいカルピンと鉢合わせた。カルピンはリョーマの姿を見るなり足元に擦り寄った。リョーマはカルピンを抱き上げその柔らかな毛並みに頬を埋めた。

「うん。帰ろう。」

寮に向かう中庭を抜けると風が吹き、寒さが染みた。こんな寒空に恋人気分を盛り上げた生徒たちが何組か寄り添って噴水の淵に座っていた。

庭の端には雪が薄く残る。その日陰の凍った雪に覆われた地面に、こんなに寒いというのに小さな花が咲いていた。淡い紫の花弁が冷たい風に揺れていた。何故か名前の顔が思い浮かんで、リョーマは膝を折りそれを眺めた。いくつか咲いているうちの一つを詰んで、しかしすぐに笑い飛ばした。

「こんなの、喜ばないか。」

リョーマは肩に乗っていたカルピンに目をやり、その花を渡した。

「お前にあげるよ。」

カルピンは花の匂いを嗅ぎ、咥えてどこかへ歩き出した。リョーマはそれを見送って眉を下げた。それでいい。そのままどこかに放っておいてよ。どうかこの気持ちも土に還りますように。








名前はグリムソンの研究室から戻って以来、寮で一日ベッドの中にいた。体は疲れ切っていているのに、眠りについては思い出したように瞼が開く。そんな浅い眠りを繰り返しながらリョーマのことを考えていた。

“越前リョーマは魅了にかからないのではなく、もうすでにかかっていて── ” 分かっている。グリムソンはこちらの心を乱すために言ったに過ぎない。しかし想像して怖くなってしまった。リョーマに本当に魅了をかけてしまったのだとすれば、これまで見てきた彼の全てが覆ってしまう。いやあり得ない。彼はずっと出会ったときから変わらなかった。しかし。彼がくれた言葉が、行動が、眼差しが、全て魅了が原因で彼の意志に反して行われたのだとしたら。
グリムソンの思う壺だ。それでも考えないようにと思うほどにどうしたって頭の中が渦巻いた。

何度目かのまどろみから覚め、目を開けて時計を見れば短い針が5を指している。それは夕なのか朝なのかどちらだろうと考えてすぐにやめた。どうでもいい。

重たい瞼をそのまま閉じて再び眠ろうとしたとき、物音がした。天蓋ベッドのカーテンが揺れてエラヴィスだろうと思った。目をやれば、見知った猫がそこにいた。カルピンだった。

「お前…どうやって入ってきたの。」

カルピンはベッドに飛び乗ると何かを落として、しっぽを巻き座った。体を起こして見れば、それは小さな花だった。淡い紫の花弁が少ししおれかけていた。名前はそれを手に取りじっと見つめた。

「これを私に?」

問いかけに答えずカルピンは欠伸をした。メッセージも付けられていない匿名の贈り物。贈り物と呼ぶには質素な小さな花。カルピンが届けたのなら、リョーマだろう。クリスマス休暇に書きかけの手紙をエラヴィスが勝手に運んだことを思い出した。あれも手紙と呼ぶには粗末な紙切れだった。名前は額に手を当て下を向いた。

「…ほあら?」

深く息を吐けばカルピンが膝に乗ってきた。柔らかくて温かい。リョーマの言っていた通りだ。君、本当にうちのエラヴィスより重たいんだね。

ふと枕元のカレンダーが視界に入った。ああ、そうか。名前は確信を強めた。リョーマは魅了にはかかっていない。だって、あんなにスマートで何でもクールにこなす彼が、バレンタインにこんなにも不器用なことをするのだから。

膝の上で喉を鳴らすその柔らかい背をひと撫でした。カルピンはするりと名前の手に擦り寄ると、小さく鳴いてベッドを降りて帰っていった。





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