セイラルの唄
闇の魔術に対する防衛術満月の夜だった。名前の元にまたグリムソンからの指示が届いた。手紙は短く「消灯後、闇の魔術に対する防衛術の教室にて」と書かれていた。今日はキャビネットの奥に詰め込まれるわけではなさそうだ。少しの安堵と、それでも拭えない不信感が名前の胸で渦を巻く。教室に向かえばグリムソンが待ち構えていた。
「定員オーバーでね。今日はこちらで頼むよ。」
そう妖しげに笑うと彼は名前を教室に招き入れた。
グリフィンドール塔に消灯の鐘が鳴り響く頃、リョーマは寮のベッドに横たわり天井の暗闇をじっと見つめていた。寝付きは悪い方ではない。しかし何故か今夜は目が冴えて眠れなかった。カーテンの隙間から差し込む月の光が、床に淡い影を落としていた。
リョーマは寝返りを打ち、腕を頭の下に敷いた。四人一部屋の寝室では、同級生たちの寝息が小さく響く。心が落ち着かない。今もこうしている間に、名前は一人でいるのかもしれない──そんな胸騒ぎが離れなかった。
寝付けないまま、リョーマは静かにベッドを抜け出した。冷えた床を踏み、階段を下って談話室に降りた。そこは暗く静けさに包まれ、壁に掛かった肖像画が眠そうに目を閉じている。リョーマはソファに腰を下ろし、火のない暖炉をじっと見つめた。
「…はあ。」
リョーマは膝に肘をつき、両手で顔を覆った。脳裏には何も浮かばない。無力な自分に苛立ちが募る。
直感、否、この血筋。後ろめたく感じていたこともあった。かつてはそれを隠し、冷めた仮面をかぶって生きていたこともあった。だがその力を封じられ、皮肉にも今それを渇望し、救いの糸のように胸を焦がしている。
リョーマは瞼を閉じ、自身の胸に問いかけた。
「…力を貸してほしい。」
その小さな声は、暗闇に吸い込まれるように消えていった。深く息を吐きリョーマは薄く目を開けた。その瞬間、赤がゆらりと揺れ、頬に熱を感じた。灰を被った暖炉がひとりでに炎を灯したのだ。リョーマは寮を飛び出した。
消灯後の校舎は静まり返り、石畳に足音が響く。リョーマは廊下を走った。影が壁に伸び、月明かりが追いかける。階段を駆け下り、闇の魔術に対する防衛術の教室へと向かった。
名前はグリムソンに引き入れられ教室に入った。そこにいたのは見知らぬ男たちだった。グリムソンと世代的にはそう変わらない。彼らは揃いの制服を纏い、厳格な表情で名前を見下ろしていた。グリムソンが彼らを紹介した。
「魔法省の監査官だ。私の研究を視察するために来てくれた。みなさん、こちらが例の、魅了に特化したマーピープルと魔法使いの間に生まれた、貴重な血の魔女です。」
複数のじとりとした眼差しが突き刺さり、名前は慌てて視線を切った。お構いなしにグリムソンは続けた。
「さて、揃ったね。」
グリムソンは杖を振った。空気が軋み、青白い光の膜が教室の内側を覆い、外界を閉ざした。結界だ。名前は背筋に冷たいものを感じた。
「これで邪魔は入らない。さあ、お披露目だ。彼らに君の『魅了』を見せてみなさい。」
「……」
魔法省の役人の中にはカメラを構える者もいれば何やら見慣れぬ魔法道具を手に持つ者もいた。名前はこの状況に頭がついていけなかった。晒し者にするつもりか。彼らにとってはまるでモルモットのように実験対象でしかないのだ。
下を向く。こんなの平気。そう言い聞かせたが、身体が動かない。見かねたグリムソンは名前の耳元に口を寄せ、低く囁いた。
「君が自らみせないと言うならば禁忌の術でも食らってみるかね?君の血が沸騰し、瞳が焼け落ちるまで苦しむ姿を、この目で楽しむのも悪くない。」
恐ろしい言葉が耳に絡んで、次には胸元に杖が突き付けられた。恐怖が体を支配し、意思に反して瞳が揺れた。防衛反応として現れたそれは求めぬ人をも惹き寄せ、奇しくも名前を追い詰めた。ねえ母さん。どうして私にこの力を残したの。サファイアグレーが暴れる。現れた魅了に役人たちは目を奪われ、口元が歪み、名前に迫った。背筋が凍った。
グリムソンは静観し、笑みを浮かべた。
「程々にね。まだ彼女は不安定なんだ。」
彼は口を出すだけだ。
一人の男が名前に近付いた。
「君には優秀なナイトがいると聞いたが買い被っていたようだ。結界一つで勘づきもしないじゃないか。それとも、こんな、このような君に呆れているんじゃないかね。」
「…っ、黙れ、あなたたちが、彼を語るな…!」
「おや図星をついてしまったかな。さて、彼とはこういうことは、したのかな?」
その指が制服の下に滑り込もうと伸びる。咄嗟にその手を振り解こうとするも力で敵うはずもない。足が今にも逃げ出したくて震えている。でもそれをしないのは、その暁にリョーマを元に戻すとグリムソンが約束したからだ。嘘つき。早く返して。凛と前を向いていた、不敵に笑っていた、あの頃のリョーマを返してよ。リョーマは自身の直感を時に皮肉を込めて呼ぶ。そして自身の正体は軽々しく明かさない。私は、こんな私だからわかる。人にどう言われようと、どう思われようと、それでもこれが全部私たちなんだ。
言葉をぶつけようと開いた口から高い悲鳴が漏れてしまって役人たちは品のない顔でそれはもう嬉しそうに声を上げて笑った。名前は唇を噛んだ。涙が勝手に流れ出る。もう自分が何が悔しくて何に怒りを覚えているのかもよく分からない。ああ。もう、何もかもどうでもいい。名前は抵抗を諦めた。
その時、ふっ、と風が吹いた。
教室の灯りが一斉に消え、闇に包まれた。男たちの笑い声が途切れ、真っ暗な教室に重い静寂が落ちた。すると突然外で雷鳴が轟き、窓の外に稲妻が走った。閃光が一瞬教室を照らし、次の瞬間、教室の扉が轟音と共に蹴破られた。
「──何者だ!」
扉が砕ける音が響き、木の破片が床に散らばる。役人たちは杖を構えた。暗闇の中、稲妻を逆光に一つの姿が見えた。琥珀色の焔が燃えるように輝く。リョーマだった。
「おやおや。随分と手荒な登場だね。」
グリムソンは歩み出て杖を向けた。
「消灯時間は過ぎているよ越前くん。目が覚めてしまったかな?」
リョーマは杖も抜かずそこにいた。瞳を光らせ、その指で結界の淵をなぞった。
「ああ。目が、覚めたよ。」
雷鳴が再び轟く。リョーマの手のひらが結界に触れた瞬間、青白い膜がガラスのように砕け散った。結界の破片が降り注ぎ、風が咆哮し空間を切り裂いた。グリムソンが杖を振る間も無く、その風は魔法省の男たちを瞬時に飲み込み断末魔が響いた。リョーマはグリムソンの前に躍り出た。
グリムソンはその目を見て確信した。杖を持たない野生的かつ超自然的な力。それはまるで始まりの妖精、精霊の王。
「覚醒したな──フェイ。」
グリムソンは口角を吊り上げた。リョーマの瞳は一際強く燃え上がり、見えぬ力でグリムソンを床に叩きつけた。石畳が砕け、呻き声が響き、教室は一瞬で静まり返った。
残響が漂う中、名前はリョーマを見た。灯りが飛ばされた暗い教室に、リョーマの瞳が松明のように光っていた。本当に君なのか。名前はその姿に目を疑った。リョーマは放心状態で、浅く息をしていた。瞳が虚ろに揺れ、初めて見せたフェイの力に彼自身が戸惑っているように見えた。ゆらりと眼光が走る。リョーマと名前の視線が交わった。リョーマは何も言わず、名前を見据えたまま動かない。風が止んで教室に静寂が落ち、二人の吐く息だけが白く舞った。
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