ディア・プランビー
2.この先


越前リョーマはプロのテニスプレイヤーだ。

中学一年生の夏に全国制覇を決めた後、突然アメリカに飛び、そうかと思えばU17に合流して、気付けば15歳にてプロに転向していた。

リョーマは一年のほとんどを海外で過ごしている。アメリカを練習拠点として、世界中のトーナメントを渡り歩き、日本に帰ってくるのは日本で大会があるときと、スポンサーやメディア絡みの仕事、それから冬のオフシーズンの二ヶ月ほどだ。

時々帰国したリョーマと家の裏の寺で待ち合わせて少し話をしたり、時間を作って街に出かけたり、両親の不在の隙をついてどちらかの部屋で過ごすなどした。私たちは二人で会える時間は一年の中で数えるほどしかなく、でもそれでいいと思っている。それぞれに大切なものがあって、お互いがいなくてもそれなりにやれて、寂しいと思う暇もなく、遠く離れたどこかできっと頑張っているのだと思うとそれだけでよかった。いつかまた一緒に暮らそう。昔に交わした言葉を胸に私たちはそれぞれの時間を生きている。



私には一つ、夢がある。
世界で戦うリョーマを、この目で見ること。そしていつだって私を驚かせてくれるリョーマを、今度は私が驚かせたい。内緒で駆けつけて、リョーマをうんと驚かせるんだ。








卒業式から数日経ったある日、夕暮れ時に家を出た。跡部さんとの定期ミーティング、という名の食事会に行くためだ。

玄関を出ると黒塗りの車が停まっていた。運転手の男性が降りて来て私を後部座席へエスコートした。この瞬間はいつまで経っても慣れない。車に乗り込むと跡部さんが既に奥のシートに座っていて、運転手に行き先の指示を出した。



あの夏、跡部さんから秘書の誘いがあった。一度保留にしたものの、以来こうして跡部さんとは定期的に顔を合わせている。繋ぎ止めというかやはり今このときも試されているのだと思う。

跡部財閥とは4月からまずはインターンとして関わることになっている。

「ものは試し、だな。」

車窓に目をやりながら跡部さんは口を開いた。

「はい。長期インターンのお話をいただけて助かりました。」
「越前の試合を見に行く為、か。本人に言えばあいつはすぐにでも動くだろうに、自分で金を作りたいとはお前らしい。」

跡部さんは勝気な表情で私を見た。

「俺はお前をうちの秘書課で働かせたい。お前は旅費を稼ぎたい。Win-Winじゃねーの。大学卒業まで四年ある。お互い良い試用期間になるだろ。」

試用期間。跡部さんは私を買い被っていると思うし、私は正直財閥に関わることを畏れ多く思っている。しかし先の見えない道の中に、四年後の「具体的な未来」が見えているというのは私にとって心が惹かれるものだった。

リョーマはテニスをしている。ではテニスをした、その先は?私は今、そしてこれから、どうやって生きていく?見えない先のことを考えるのは胸がザワザワとする。だから跡部さんがくれる約束ともとれる提案には、いつも心が満たされる、それが策略と分かった上で。

「しかしお前は青学大に進学すると思っていたが、まあ通信制の学科がある大学を選ぶのは合理的判断だ。身動きが取りやすく、それでいて堅実だ。」
「はい。色々と考えたのですが、旅費を用意することと大学卒業を両立して、尚且つ最短で、と考えたらこうなりました。」
「そうだな。スポーツ選手の命は刹那的だ。…あいつから“ついてこい”と言われたら行くつもりか?」
「どうでしょう…ただ、今の彼がそれを言うのは想像つかないんですよね。自由な方が性に合ってそうですし。」

リョーマは今楽しいのだと思う。プロとしてテニスに全身で向き合っている。私がついていったから何になるのだと正直思うし、だから弾丸で応援に行くくらいがきっと丁度良いのだ。
跡部さんは鼻で笑った。

「確かに一見自由奔放に見えるが、あいつなりに考えてるんじゃねえの。」
「そうですかね。」
「お前ら、先の話はしないのか。将来のビジョンを語り合うことも時には大切だ。」
「しないわけではないのですが…」
「よく分からねえな。長く付き合ってんだろ?プランは共有しといた方がいい。」

そうは言われても、と口に出そうか迷ってやめた。リョーマと会える時間は限られている。だからどうしても目先の幸せにばかり囚われて、踏み込んだ話は正直避けてしまっている。跡部さんは大人だな、と、一つしか年の変わらないこの人を随分と離れた存在に思いながら車に揺られた。




到着したのは高級そうなフレンチの店だった。卒業祝いだと言って仰々しい部屋を貸し切り、美しい食事がテーブルに並んだ。

「いいか。高校卒業を期に環境が変わるわけだが、法律は遵守しろ。浮かれることもあるだろうが飲酒、喫煙には二十歳になるまで手を出すな。」

食事のさなか、跡部さんは鋭く切り出した。仕事の顔というのはこういうことを言うのかもしれない。車でしたプライベートの雑談とは打って変わって跡部さんの表情は氷のようだ。

法律を守ること。財閥に関わる人間としてもそうだが、きっと理由はそれだけではない。
更に跡部さんは続けた。

「それから運転免許を取れ。早めにな。」

車の免許。個人的にもいずれ取るつもりだったので私は「はい」と頷いた。が、間髪入れず、というか私が頷くのを前提にしていたような調子で跡部さんは流れるように私に伝える。

「経費で落とすから通う教習所が決まれば教えろ。こちらから直接送金するからお前は手ぶらで行けばいい。」

いや。それは。…
まだ社員でもない私にそこまでしてもらわなくても…そう言いたいのをぐっと堪えて深呼吸をひとつ。

「はい、ありがとうございます。」

そう頭を下げた。見透かすように跡部さんは言う。「インターンだろうが大切な人財だ」と器用に肉を切り分けながら。そうだ跡部さんはそういう人だ。




食事を終え店を出ると跡部さんは遠くを見て舌打ちをし、私を車に押し込んだ。




今日から帰る場所は寺の見える生家ではない。
当然中学のとき数ヶ月お世話になった、その隣の越前家でもない。

車が停まる。跡部さんに一礼し、私はマンションのエントランスをくぐった。学生が住むにはいささか(どころではない、随分と)贅沢に感じる、管理人付きのマンション。例の如く、だってただのインターンであるし、でも、例の如く。この家賃も財閥からの手当てにより賄われている。

自分の家と呼ぶにはまだ馴染まない新品の家具たちに囲まれ、私はソファに沈み込んだ。白い壁を眺めながらぼんやり考える。飲酒、喫煙?とんでもない。どこで誰が見ているかわからないのだから。
これから跡部財閥に関わっていく。そして私は越前リョーマの恋人である。無責任なことなどどうしてできようか。




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