ディア・プランビー
3.マスコットリョーマはただテニスをしている。変わらず、今日も明日もテニスをする。変わらず。でも環境は目まぐるしく変わっていく。テニスをすればするほどに、勝てば勝つほどに「越前リョーマ」という名前は大きくなっていく。ただテニスをしているだけなのに、リョーマの内側に人は気安く触れたがる。
リョーマがプロになって少し経った頃、週刊誌でゴシップ記事が組まれた。
『今話題のテニスの王子様、越前リョーマ選手は公私共に順調。恋人とは長年の付き合い。お相手は中学時代のマネージャー?!』などという書き出しだった。
それまでネット記事やSNS上でリョーマの活躍とその容姿に注目が集まることはあったけれど、一般人の私がこのような形で世間の目を浴びることになるとは思わなかった。
『当時から越前選手がテニス部の女子マネージャーと付き合っているというのは有名な話でした。お似合いでしたので周りは微笑ましく見守っていましたよ(関係者談)』
顔や実名は出ていないとはいえ私はそれなりにショックだった。えも言われぬ感覚。他人から土足で踏み込まれているというのに何故かこちらが肩身の狭さを感じてしまうような。
私たちの関係がエンタメとなり大人たちの金儲けの餌になっている。それがいわゆる有名税、表舞台にいることの副産物ではあるけれど、少なくとも私は開き直れるほどの器量は持っていない。でも、彼の足は引っ張りたくない。正直かなり抵抗はある。でもリョーマの心配事は増やしたくない。
「何これ最悪!」
当時私は、リョーマの前でその記事を笑い飛ばしてみせた。「この関係者談って誰かなあ。ソワソワするね。」と顔を覗けばリョーマも涼しい顔を作って「桃先輩だったら一発蹴るかも」と冗談めかして言った。
今までメディアからのプライベートの質問にはのらりくらりとかわしていたリョーマは、この記事が出回って以降、この手の質問は固くシャットアウトするようになった。
4月。今日は大学の入学式とガイダンスの日だった。登校するのは今日と、あと年間で指定された日数のみで、あとはリモートでの授業聴講と課題提出が主である。
慣れない環境、慣れないことだらけ。一日の課程を終え、ため息をついてマンションに帰った。
でもため息などついている場合ではない。部屋を隅々まで整えて、掃除と買い出しと忙しく過ごした。今日は久しぶりにリョーマとゆっくり会えるのである。スポンサー関係の撮影のための、二日間だけの帰国。会うのは卒業式の日以来で、でもあれは本当に一瞬の再会であったので、厳密にいえば年末以来である。
さらに言えば、今日リョーマはこのマンションに一泊する予定であるが、二人で同じ夜を過ごすのは実は中学の時に越前家でお世話になったあの日々以来なのである。私は浮き足立っていた。いつかまた一緒に暮らそう。そう言ってくれたリョーマの声が新鮮に思い出される。一緒に暮らせるのはいつになるのかはまだ分からない。でもようやくこうして、二人で朝を迎えるような生活が少しずつであるが実現しつつある。
リョーマから連絡が届いた。今から電車に乗ると言うので、タクシーにしなよと返信をするもそれから連絡が途絶えている。
テレビをつければ夕方のニュースが賑やかに流れてスポーツコーナーでよく知った顔がうつる。ずっと前から変わらない好戦的な目がやはり好きだった。コートに立つべくして立っている人だと思う。
『ごめん遅くなる』リョーマからのメッセージの通知。案の定何かに足止めを食らっている様子で、彼の存在の特別さを思い知らされる。日本ではもう街を歩くことさえ難しいんだ。
「遅くなってごめん…。」
しばらくした頃インターホンが鳴って、ぐったりと疲れ切った顔をしたリョーマがそこにいた。
「大変だったね。」
部屋に招き入れ、玄関で抱擁をした。私の肩に頭を埋めてリョーマは重い重いため息をつく。頭を撫でると頬にキスをされ、目が合って、唇を重ねる。そこでやっとリョーマは笑って、「会いたかった」と小さく言ってまた私を抱きしめた。
「うん…私も。」
「つけてくれたんだ。似合ってる。」
リョーマは私の髪をすいて、首元のシルバーのネックレスを見て優しく笑った。リョーマが卒業式の日にくれたもので今日初めてつけてみたのだ。ひとつの宝石が控えめに輝くシンプルなネックレス。背伸びをしたような気持ちになって少しくすぐったかったのだが、リョーマが嬉しそうな顔をしたので安心した。
靴を脱いだリョーマは私の首元と、それから唇を見つめ、再びキスをした、今度は一層深く。こんなのも久しぶりだ。玄関ホールの壁に追いやられ、背中がついた。リョーマの手が私の服の下に滑り込み、性急に体に触れた。お互い半端に服を着たまま息ばかりが上がり、リョーマは私の片足を持ち上げた。その強い瞳に目を奪われながら、私は彼を受け入れた。
長い時間を過ごし、リョーマが落ち着いた頃に二人で風呂に入った。少し満たされた顔をして優しい目に戻ったリョーマは、腹が減ったと文句を言うので笑ってしまった。
風呂を出てあとは温めるだけだった食事を用意していると部屋着姿のリョーマがやってきて「いい匂い」と言って後ろから私を抱きしめた。
「ちゃんとした和食久しぶりなんだよね。嬉しい。」
「重たい、ちょっと離れて。」
「あー幸せ。」
「向こうでもちゃんと食べてる?」
「大会中は栄養士付きのケータリングがあるからね。でもやっぱこういうのが家のご飯って感じしてホッとする。」
「栄養士かあ。プロって感じだね。」
こんなやりとりも、まるで一緒に住んでいるかのような気持ちになって胸が温かくなる。リョーマも柔らかい顔をしていて、試合のハイライトなどで観るコートに立つ姿とは全然違う。でも私の知ってるリョーマと全然変わらない。
食事を済ませ二人で食器を片付けて、リビングのソファに並んで座った。
「にしても部屋広すぎ。そこらのホテルよりずっといいよ。」
「ね。私も初めて入ったときびっくりしちゃった。」
「ベッドはその部屋?」
「そこは勉強部屋にしてる。寝室はこっち。」
「ふーん。」
「何。またするの?」
「当たり前じゃん。どんだけ我慢したと思ってんの。全然足りないから。」
そのとき、ローテーブルに放っていたリョーマのスマホの画面がついた。『週刊誌にやられてるぞ』───通知の文字が見えてしまった。見えてしまったからには変な空気になってもいけないと私は笑ってみせた。
「今度は何書かれちゃったの。」
「さあ。なんでもいいけどね。」
なんでもいい、とは私もそう言ってみたいものだ。いちいち間に受ける必要はないと思いつつ私は未だに心が揺れそうになる。リョーマは昔からしたたかだ。
ところが何気なく通知をタップしたリョーマが、次には表情を固くしてサッと私から画面を遠ざけたではないか。
私が覗き込む隙も与えず、すぐに画面の電源を切った。リョーマはそのままポイとそれを投げ捨てて私をきつく抱きしめた。なにかあったんだろうな。リョーマは困った時、動揺した時、悩んでいる時、無言になる。まずはそこから離れて一旦目を背けて何かに没頭する。テニスとか、これとか。それがリョーマなりの自分の守り方なのだろうと思う。
「…ベッド行こ。」
「うん…。」
私は何も聞かず身を委ねた。
リョーマは翌朝帰っていった。今度こそタクシーに乗って。
次会えるのはいつだろう。体に残る熱を噛み締めながらそんなことを考えた。リョーマを見送って、私は出掛ける準備をした。リョーマが気にしていた週刊誌の件は一旦蓋をする。今はまだリョーマとの再会の余韻に浸っていたい。
今日やってきたのは車の教習所だ。運転免許取得のためである。ここで私は見覚えがある人と出会った。白石さんの後を引き継いで四天宝寺の部長をつとめていた人。名前は確か財前光くん。受付のベンチで足を組んでスマホを眺めているところだった。
私の視線に気付いたのかその退屈そうな目がこちらに向けられた。
「ああ、越前リョーマの。」
随分な挨拶に苦笑いが溢れそうになったが堪えた。財前くんはスマホから視線を上げてはすぐに画面の中へと戻っていく。
「偶然だね。大学がこっちなの?」
「まあ。」
「財前くんもマニュアル?」
「そう。」
素っ気ない。まあ話すこともないのだろうし。
手持ち無沙汰で受付カードを見つめていると、「これほんまなん?」とちらりとスマホの画面を向けられた。
「なに?」
───あれ、
私だ。
跡部さん?それから隣にいるのは、やっぱり私だ。モザイク処理をされているけれど、私だ、すぐに分かった。
昨日のリョーマの様子を思い出す。
これか。
背中に汗が伝った。
『跡部景吾に新恋人?!夜の高級フレンチで謎の美女と密会!』
そんなテンションの高い見出しに始まり、各方面で名が知れている跡部さんの顔は遠慮なく晒されていた。
『二人は親密な雰囲気で高級料理店の個室へ。数時間後出てきた彼らは隠れるように跡部財閥の黒塗りの車に乗って走り去った。行く先は果たして……』これはひどい。
「なんかごめん。」
「…いや、大丈夫!ごめん、こんな記事出てたなんて今初めて知ったからびっくりしちゃった。」
「気にするタイプなんやね。もっとこう図太いんか思ってた。」
取り乱してしまって情けない。それにしてもこんな角度からゴシップが組まれるとは思っていなかった。百歩譲ってリョーマとのことなら例え世間から多少的外れなことを言われたとしても仕方がないと思えた。でも他の人とこんな風に書かれてしまうとは、これまで想像も覚悟もしていなかった。
「ま、一旦外の空気でも吸いや。」
「…うん。」
言われるがまま外の休憩所に出てベンチに座ると、財前くんは何故かついてきて、そして自販機の前で私を呼び止めた。
「何飲む。」
「え、」
「ええから。何。」
「じゃあ、お水…」
「んー。」
財前くんはぶっきらぼうに隣に座り、ペットボトルを差し出してきた。それを受け取るとまたスマホの世界に入っていく。
「ありがとう。優しいんだね。」
「…まあ、流石に責任感じるわ。知ってるんか思ってたし。一応聞くけど王様とは何もないやんな?」
「食事に行ったのは本当。でもそれだけだよ。」
「じゃあ週刊誌が勝手に膨らましたんやね。御曹司様とゴシップ組まれるなんてついてないな。夜道気いつけや。」
冗談にもならない。跡部さんには根強い女性ファンがたくさんいる。私一人が否定したとして彼女たちは私を信じないだろう。
受付のアナウンスが流れる。私の番号が呼ばれた。頭の中がぐちゃぐちゃだ。リョーマが何も言わないのは私を信じてくれているからだよね。講師の話を半分に聞きながら、リョーマはこの記事を見て何を思ったのだろうと考えては胸が酷くざわついた。
関係各位
この度、一部週刊誌およびSNSにおいて跡部景吾と一般女性との写真が掲載され、事実と異なる憶測が拡散されております。これにより関係者の皆様にご心配をおかけしておりますこと深くお詫び申し上げます。
当該写真は、跡部財閥の業務の一環として行われた会合におけるものであり、両者の間に個人的な関係は一切ございません。記事の内容は事実無根であり、不適切な報道がなされたことは誠に遺憾であります。
つきましては、女性の個人情報に対する詮索や根拠のない中傷、攻撃的行為等は固くお断りいたします。これらの行為が確認された場合、顧問弁護士を通じ名誉毀損やプライバシー侵害に対する法的措置を講じる可能性がございます。
関係者の皆様におかれましては、引き続き変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。なお、本件に関するご質問は、跡部財閥広報部までお問い合わせください。
以上
「十分すぎる理由じゃない?」
橘杏がストローの先を曲げながら言う。
週末、家に一人でいると跡部さんとの記事が頭を過ぎるので、私から友人である杏ちゃんに連絡を取って街のカフェで待ち合わせをした。
杏ちゃんとは中学の大会で度々会っていてお互いを認識していたけれど、こうして一緒にお茶ができるくらいの仲になったのは高校生になってからだった。高校に上がってテニス部から退いた私は、そうは言っても見にきて欲しいと先輩たちに言われて応援に行った。そこに杏ちゃんも居て、「あれ、マネージャーやめちゃったの?」と気持ちの良い率直な言葉をかけてくれたのでそこからたくさん話すようになった。
「あんな書かれ方して、跡部さんにもリョーマにも申し訳なくてさ…」
「いやそれってさ、巻き込まれてるのは名前の方なんじゃないの?名前が責任感じることじゃなくない?」
「…」
「だからこそ財閥からの声明も出たわけじゃん。名前は何も悪くないよ。」
週刊誌に抜かれて以来胸にあったモヤモヤを杏ちゃんに聞いてもらうと相も変わらずサッパリとした調子でこんな提案をされた。
「そんなに辛いならいっそ別れちゃえば。」
「別れる…。」
「私、結構前だけど“越前くんの初恋は中学時代の女子マネ”って記事出た時の名前の顔、未だに忘れられないの。気付いてた?すごい顔してたよ。」
「そうだっけ…」
「今回の跡部さんとのことは事故みたいなもんだけどさ、次また越前くんと何書かれるか分かんないわけじゃん。」
別れる。考えたことがないわけではない。でも最終手段、それは最後のカードだと思うのだ。頭を捻ると杏ちゃんは「十分すぎる理由だと思うけどね。」と断ち切った。
「やめろなんて言ってやめてくれる相手じゃないでしょ、あの手の業界って。必死に火を消しながらマスコミから逃げてコソコソ生活するの?普通のデートもできないなんて楽しくないじゃない。」
杏ちゃんは続けた。
「私だったら嫌だな。自分の人生なのにどうして自分が縛られなきゃいけないのって思っちゃう。…それかいっそ公表して堂々と生活するのもありかもね。ま、他人事だから言えるんだけどさ。」
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