ディア・プランビー
4.背筋4月中旬。気候がすっかり春らしくなった頃、大学のオンライン授業が始まり、同時期に跡部財閥でのインターンが始まった。時間は待ってくれない。やると決めたので進むしかない。着慣れないスーツに袖を通し、鏡の前に立ってみる。つい先月まで制服を着ていたのに不思議な気分だ。それでもリョーマがくれたネックレスを首にかけワイシャツの襟の中に忍ばせれば、自然と背筋が伸びた。
大きな社屋に唾を飲む。跡部財閥は世界的に影響力のある企業で、一般的な新卒入社ではまず私のような者は書類選考すらも通らないだろう。これを飛躍していると捉えるか、チャンスととるか。身の丈に合わないからと恐れて初めから諦めるのか。世界を回るリョーマの姿を見ていると挑戦も一つの道であると思わされる。
跡部さんは忙しい人だ。秘書課へと引き入れてくれたのは跡部さんであるが、いつも社内にいるとは限らない。当然指導は部署の方にしていただく。
「景吾さんからのリファラル採用と聞きました。期待しています。」
上司にあたる方が私に言った。そうか。跡部さんのご家族も関わる会社なのだから下の名前で呼ぶんだ。私も今後はそうするべきなのだろう。
今日は簡単な業務の説明と勤怠システムの使い方の講習だった。秘書課では重役のスケジュール管理をはじめ、出張手配や同行、社内会議や、総会、接待などの準備も業務に含まれる。
「まずは5月に総会がありますから、それに向けて補助的な業務をしていただきます。例えば出欠の入力などですね。本日はここまでです。また明日からよろしくお願いします。」
難しい用語を一度に浴びて頭がパンクをしそうであったが、上司がパソコンの画面に示した総会の招待リストの中にリョーマのスポンサー企業の社名を見つけ、気を引き締めた。リョーマのスポンサー企業の一つは財閥の傘下にあるのだ。
しばらくは財閥の仕事と、その合間に大学の課題、車校の教習に通う生活が続いた。忙しくはあったが程よい充実感があった。
5月に入り、マンションに帰宅してスマホでネットニュースを眺めていると「越前リョーマ選手(17)全仏オープン初戦突破」との見出しが目に飛び込んできた。
『前年度ATP100位圏内に浮上した越前選手。彼の飛躍に注目です。』
リョーマも頑張ってる。彼はあまり自分から大会の日程などを言ってこないので今彼がパリにいるということもこうやって記事になって初めて知るのも珍しくない。
初戦突破おめでとう、とメッセージを送ると、珍しくすぐに既読がついて次には電話がかかってきた。
「久しぶり。元気?」
優しい声が耳元で響く。ああ、リョーマの声だ。
「どうしたの、電話なんて珍しい。」
「別に。声聞きたくなっただけ。」
「そっか…。あ、ニュース見たよ。勝ったんだね。おめでとう。」
「まあね。」
「結構大変だった?」
「相手がクレー専門だったからどうかと思ってたけどなんとかなったかな。」
「リョーマはハードコートが好きだもんね。クレーコート久しぶりだったの?」
「いや、先月のモンテカルロもクレーだったから感覚は掴めてたかな。」
そうなんだ。だめだ全然リョーマの試合を追えていない。リョーマの話を聞きながら、自分のことで手一杯であったことに気付かされ胸が痛んだ。
「…モンテカルロってモナコだっけ。移動多いよね。体平気?」
「まあ、ビジネスでチケット取ってるからそこは平気だよ。…あのさ、名前。」
「ん?」
「今年の冬なんだけど、…ああごめん、呼ばれた。そろそろ行かないと。」
「?うん、今日も試合?」
「いや今日は調整だね。試合は明日。話せてよかった。じゃあね。」
「私も声聞けて嬉しかった。頑張ってね。」
電話を切って、ため息が出た。申し訳ない。私全然リョーマのこと知らない。全仏オープンが始まっていたことも、モナコの大会にエントリーしていたことも知らなかった。確かフランスとの時差は6時間ほどで、今こちらが夕方なのでリョーマのいるパリは今お昼時くらいだろうか。人に呼ばれていると言っていた。これから昼食を食べに行くのかな、誰と一緒にいるのかな、なんて。考えたって仕方のないことを頭の隅に追いやる。ただただ、遠いなあとぼんやり考える。
5月下旬。今日都内のホテルで跡部財閥主催の総会が開催される。受付業務の補助をするべく秘書課の先輩方に同行した。初めての社外での仕事だった。
会場に訪れた出席者を受付名簿で確認し、蛍光ペンでチェックをした。取引先である数々の有名企業が名を連ねていてペンを握る手に緊張が走る。先輩方は笑顔で出席者の対応をし、流れるように案内をしている。私もいつかこんなふうになれるだろうか。
定刻となり総会が始まった。受付の波も去ったので次にデジカメを持つように言われた。毎年開催する行事であるため、来年用の記録のために会場の雰囲気を撮影するよう指示を受けた。音を殺してそっと総会会場に入り、四方を写真に収めた。財閥側の役員席には跡部さん、もとい、景吾さんが座っていて、難しい話に涼しい顔で耳を傾けていた。
総会が終わると小休憩を挟み、次は懇親会に移る。隣の部屋に移動しての立食パーティーだ。広い会場が多数の出席者ですぐにいっぱいになる。華やかなパーティールームは和やかな雰囲気で賑わっていた。
人混みを縫って、煌びやかな装飾や豪華なビュッフェ、テーブル配置を撮影して回った。これを毎年行うのだから財閥の規模には驚かされる。来年また関わるかもしれない。しっかり記録しておかないと。撮れたデータを確認していると、不意に背の高い男性に肩がぶつかった。
「あ…っ、申し訳ございません!」
慌てて謝ると、男性も「いえ、こちらこそすみません」と笑顔で応えた。40代くらいだろうか。ネイビーのスーツに身を包んだ彼は、名刺を差し出した。
「───の、…と申します。」
「…!頂戴します。」
名刺を受け取り、目が飛び出るかと思った。リョーマのスポンサー企業だ。
「私研修中でして名刺がなく、すみません。名字名前と申します。」
対応はこれであっているだろうか。緊張で声が震えそうであったが男性は気さくに話し始めてくれた。
「そうでしたか、研修中なのにこんな大役、すごいですね。」
「いえ…、正直ドキドキしています。」
「跡部さんのイベントっていつも豪華で、私も何度が参加させてもらっているけど毎回緊張しますよ。」
「そうなのですか?緊張されているようには見えませんよ。」
一生懸命笑顔を作って話を合わせると会話が続き、彼の会社のスポーツマーケティングの話題に移った。
「うちはテニスの越前リョーマ選手を応援してるんです。彼、知ってます?」
「…はい、素晴らしい活躍ですよね!ニュース番組でもよく取り上げられてますし。」
心臓が飛び跳ねた。顔に出さないように平然を装った。実は私その人と付き合っているんです、なんて言えるはずもないのだから。
「おっ、越前選手ですか。私も個人的に注目してまして!」
そのとき近くにいた別の男性が振り向いて会話に入ってきた。彼は食事テーブルから一つグラスをとり、私に差し出した。
「よければどうぞ。カクテルでいいですか?」
彼は私を出席者と勘違いしたようだった。先ほど名刺を受け取る際にカメラをポケットに入れてしまったので、一見手ぶらに見えたのだ。差し出されたこれは、酒だ。
頭の中がぐるぐると回った。ここで断ったら、変な空気になる?未成年だし業務中だ。飲酒は絶対にありえない。いやこの場合はどうなのだろう。
私は今、研修の身とはいえ財閥の看板を背負っている。そして目の前にはリョーマのスポンサーの方がいる。受け取れないなんて言えば、印象を悪くしてしまうだろうか。一瞬のうちに様々な考えがよぎるが上手い言葉が見つからない。
「すみません、彼女、未成年なんです。」
落ち着いた声だった。振り返ると景吾さんが立っていた。穏やかな表情で、彼は続けた。
「インターンでうちに来ていてこういう場は初めてなもので、ご容赦ください。」
男性はハッと顔を上げて「いやそうでしたか!失礼しました!若いのにしっかりしてるね。」と笑った。スポンサーの方も「すみません気がつかなくて」と頬を掻いた。
景吾さんは自然に会話を引き取り、「越前選手の活躍にはうちも盛り上がってますよ。御社のサポートのおかげです。」と続けた。景吾さんのスマートなフォローに助けられ、空気は和やかに流れた。景吾さんが今の地位を築き多くの人に慕われている理由がなんとなくわかった気がした。
会話の切れ目で景吾さんから目配せを受け、会場の外に出た。ロビーに続く静かな廊下で、景吾さんは口を開いた。
「ああいうときは、堂々と断っていい。未成年であることを誰も責めやしねえよ。そうじゃなくても飲めないやつは飲めないと言うのは普通のことだ。そこで迷わなくていい。」
「すみません…。助けていただきありがとうございました。」
「話してる相手見て察したぜ。お前のことだから断ったらやばいとか思ったんだろ。」
「…はい。」
「気持ちは分かる。あいつ…越前のことや、うちのことも考えた上での躊躇だろ。その誠意には感謝するが、超えちゃいけねえ一線はある。」
景吾さんはスーツの袖から覗く腕時計に目をやると、パーティー会場へと足を向けた。
「次は助けられるか分からねえからな。プロとして、ちゃんとてめえで立て。いいな?」
「はい、…ありがとうございました。」
厳しくも温かみのある口調でそう言った景吾さんは、こちらを一瞥すると踏み出していた足を止めた。
「…お前、ネックレスつけてるか?」
「はい、不適切でしたか。」
よく見ている。ワイシャツの下に滑り込ませていたが不意にチェーンが見えてしまったのかもしれない。
「いや。構わねえよ。俺が気になっただけだ。…あいつからか?」
「そうです。先日渡されて。」
服の下から引っ張り出してペンダント部分を見せると景吾さんは宝石の輝きを見て眉を寄せた。
「ダイヤじゃねーの。越前のやつ大胆なことをしやがる。」
「え、これダイヤなんですか?」
「あーん?なんだと思ってつけてたんだ。」
「だって彼何も言わないから…」
「…そういうところなんだよなお前らは……」
景吾さんはため息をつき髪をかきあげると今度こそ懇親会へと戻っていった。
「まあ、服装は自由。アクセサリー問題なし。そいつはこれからも大事につけてろ。そのためにお前に持たせてるんだろうからな。」
パーティールームの扉が閉まり、受付の撤収を終えた先輩が迎えに来てくれた。ドッと疲れた。“そのために持たせている”その日の業務を終え家に帰って考えた。そうなんだ、これダイヤなんだ。
風呂に入るために首から外し、ジュエリーケースにそっと置いた。ダイヤモンドといえば婚約指輪のイメージが強い。結婚。できたらいいなと思うけれどまだ想像がつかない。リョーマは各国の大会を点々とする生活だし、私もまだ人として半端で未熟だ。特別焦ってもいないけれど、どうすればこの先の未来が作れるのかとは時々考える。でもとりあえずは今じゃない。リョーマには自由に羽を伸ばして好きなテニスに専念してもらいたい。私は今私にできることを頑張るだけだ。
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