ディア・プランビー
6.全部を君に


リョーマがとても穏やかな気質なので(なんて言うと大抵驚かれるが)大きな喧嘩は特別したことがない。ただ一度だけあった。喧嘩というかすれ違いというか。

リョーマが中学一年生の頃だった。夏の大会のあと彼はアメリカに旅立って、秋になり、U17合宿の招集で日本に帰ってきた、らしい。
というのもそれはメールの文面で知ったことで、久しぶりの帰国にも関わらず私たちは会えなかったのだ。リョーマはそのとき空港から合宿所に直行し、そのまま合宿に合流した。連絡は途切れ途切れで、でも私は全然気にしていなかった。頑張っているのだろうと、純粋にただ何の疑問もなく思っていた。だって先輩たちも一緒だし特別不安に思う要素もない。
なのに。

合宿が始まってしばらくした頃、リョーマを街で見かけた。制服姿だった。
時が止まったかのよう、とはこのことか。
どうして?
どうしてここに?
リョーマが居る、それはまあ、いい。しかしだ。そしてもう一つ、信じがたいことに、リョーマは女の子と一緒にいたのだ。同級生の女の子。長い黒髪、几帳面な三つ編み、竜崎桜乃だった。

偶然、たまたま、私はここには備品の買い出しで通りかかったのだった。思わず隠れた。二人で何をしているの。並んで歩いて、桜乃ちゃんはリョーマに何かを手渡して、リョーマはお礼を言って、二人は別々の方向に帰っていった。桜乃ちゃんの鞄から何かが落ちたと思って二人の姿が見えなくなった頃にその場を覗くと紙屑、いやこれは。大凶。ああ、ほんとうにね。

その足で道端の美容室に飛び込んで今切って欲しいのですがと無理を言った。部活中下ろしていると邪魔になるくらいには長かったそれを、もう縛る必要もないくらいに短くした。リョーマがいつか結んでくれた、そんな美しい思い出も、ああもうそんなこともこの先きっと無いのかもしれないなぁなんて考えながら。

後から知った。リョーマはこのとき規定違反で合宿を追放されていたらしい。
次に会ったときやはりというか私の短くなった髪を見て驚いた顔をして、それでも次には優しく笑って「そっちも似合ってる」なんて肩にもつかない髪を優しく撫でてくれてつらくてつらくて私は泣いてしまった。私は知っている。合宿でのこと。その足で他の女の子と会っていたこと。私じゃなくて、他の女の子と。私だって会いたかった。ずっとずっとそれでもリョーマは頑張ってるんだからって言い聞かせてた。
悲しかった。どうして私を頼ってくれないの。そうぶつけた私に、名前には言えなかった。とぽつりと下を向くので本当に意味が分からなくて悔しくて悔しくて余計に泣いてしまった。




今思えば若かったなと思う。些細な機微に心がぐちゃぐちゃになって世界の終わりのような気持ちになったものだ。あれから何年か経って私もリョーマも少しだけ成長して、お互いがどこで何をしていようと誰と何を話そうと随分動揺しなくなったというか、するだけ虚しいのでしないようになったというか。

そんな昔のことを思い出しながら今日は図書館に向かった。




今日は日曜日、財閥の出勤はない。大学のレポートのための調べ物でここに来ている。7月。外は日差しが強く、蒸し暑い。エアコンの効いた静かな図書館でノートを開いた。

少しした頃に、隣にカバンが置かれた。

「…名前さん………?」

細く、高い、柔和な声。
声の出どころを見上げれば、ああ。

「桜乃ちゃん!久しぶりだね。」

私は笑顔を作って手を振った。ついさっきあなたのことを思い出していたところだよなんて八つ当たりもいいところだ。

「元気だった?テニス頑張ってる?」
「こないだ最後の大会があって引退しました。たまに顔だけ出しますけどね。…ここ一緒にいいですか?」
「いいよ、座って!」
「ありがとうございます!名前さん元気そうで良かった。青学大に進まないって聞いていたんで今頃どうされているか気になってたんです。」
「うん、通信の学校行きたくてね。自由は効くけど課題たくさんあって大変。今日は探してる本があって来たんだ。」
「そうだったんですね。あの、リョーマくんは元気ですか…?」

遠慮がちに、それでいて真っ直ぐと彼女は言う。
その熱の隠しきれない声に、リョーマへの憧れが滲んでいる。

「元気だと思うよ。ウィンブルドンが終わったところだから、次の大会の準備でもしてるのかもね。」
「ウィンブルドンのリョーマくんの試合すごかったですよね!久しぶりの芝だけど関係ないって感じで。本当すごい。今年からグランドスラムやマスターズに本格参戦ですもん。去年まではチャレンジャーとかフューチャーズが中心でしたけど、ランキングが上がって出場できるトーナメントの幅がグッと広がりましたもんね!」

リョーマの話になって桜乃ちゃんのテンションが明らかにスイッチが入った。一息で言い切って、桜乃ちゃんは顔を赤くさせた。

「あ…っごめんなさい!喋り過ぎちゃいました…。」
「ううん。すごく詳しいね。びっくりしちゃった。」
「リョーマくんの試合、ATPのサイトとかSNSで全部追ってるんです。青学の時から、ずっと応援してて。」

本当、よく知っている。私なんかよりずっと。私は今リョーマがどこで何しているのか薄っすらとしか知らないのに、きっと桜乃ちゃんは私に聞かなくても彼が今何を目指しているのか知っているんだ。

「…あの、実は私も、青学の大学には上がらないんです。」
「そうなの?」

「ごめんなさい、突然こんな話して。でも一度名前さんとはこうしてちゃんと話しておきたかった。私、…スポーツライターになりたいんです。」

桜乃ちゃんはその大きな目を光らせて言った。

「大学は、スポーツ科学を学べてメディア関係に就職実績のある短大に行きたくて。」
「ライター…例えば、月刊プロテニスとか?」
「はい!初めてリョーマくんのテニスに出会った頃から、私毎日ドキドキしてるんです。…わかってます。リョーマくんには大切な人が…名前さんがいる。それでも私はリョーマくんのテニスが好き。世界中にリョーマくんのかっこいいところ伝えたいんです!」

眩しすぎるほどに彼女は未来を語る。まるでテニスだけを見て世界を駆けるリョーマのように、リョーマだけを見て桜乃ちゃんは自分の道を信じぬく。
私には、できなかった。全部をリョーマに、という考え方。

「名前さんが青学大に進まなかったのは、いつかリョーマくんについていくためですよね。将来試合会場でお会いできるように私頑張ります!」
「…うん!楽しみだね!」





帰り道、熱されたアスファルトの上を歩きながら桜乃ちゃんの言葉を思い出す。
はたからみればそう見えるか。世界で華々しく活躍するリョーマが主役で、私はリョーマに連れられてリョーマを支えて生きていく。その考えもなかったわけではないけれど、今の全てを放り出して愛だけ信じてついていくというのは私の中で成立しなかったのだ。

すごいな桜乃ちゃん。リョーマを追いかけると決めて、追いかけると宣言した。怖くないのかな。───私は何が怖いんだろう。

全部をリョーマに。
そしたら私には何が残るんだろう。
私は私に一体何を期待しているんだろう。







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