ディア・プランビー
7.ジャパンオープン


しばらくは財閥のインターン、大学の課題、空き時間にリョーマの試合のチェックと栄養学の勉強という生活が続いた。自分なりの基盤ができて、忙しくはあるが落ち着いていた。数ヶ月そうして過ごし、夏を超えて10月。ジャパンオープンの季節がやってきた。

ジャパンオープンとは名前に日本とあるが、世界のトップが集まる国際大会である。リョーマは今年より出場資格が揃い、予選から参戦する。


去年までリョーマは日本に帰る際には実家に帰省していた。しかし今年は違う。突然飛んできた「ジャパンオープン、名前のマンションから通っていい?」という短いメッセージに私は胸が飛び跳ねた。


大会の始まる一週間前、リョーマは帰国し私のマンションを訪れた。着いたのは昼前で、着くなりリビングのソファに私を下敷きに倒れ込んだ。
「ちょっと、いきなり、」
「久しぶり。元気?名前。」

リョーマは私を見下ろし、首元のネックレスのダイヤに触れて顔を綻ばせた。

「待って、せめてベッドに」
「充分待った。」
「わ、」

そのまま二人で沈み込み、部屋が静まり返った頃、リョーマはそのまま夕方まで眠った。電池切れのように寝息を立てるリョーマの腕の中から抜け出し、私はキッチンに立った。リョーマは昨日まで中国で試合をしており、その前はアメリカでかなり過密に大会が組まれていたので相当疲労は溜まっているのだと思う。リョーマの好きだった入浴剤も用意した。ジャパンオープンまで時間はある。少しでも力になりたい。




「あのさ、今年の冬なんだけど」

夜、目を覚ましたリョーマは私の作った料理を嬉しそうに食べながら、そう切り出した。

「冬?」

そういえば、いつかの電話のときだったか、リョーマはそう言いかけたまま話は終わってしまっていた気がする。

「うん。11月に入ったらオフになるからさ、名前がよければここにいてもいい?」
「え、本当?ぜひ!うちでよければ!」
「じゃ、そういうことで。」

リョーマは優しい顔をして頷いた。大きな声が出てしまって恥ずかしい。でもだって、嬉しい、嬉しい。冬のシーズンオフは2ヶ月ほどある。1月からまた大会が入るはず。それまでの間リョーマと一緒に暮らせるんだ。

「箸、止まってるよ?」
「だって、…嬉しくて。」
「そっか。でも名前、それが本題じゃなくてさ。」
「え、まだ何かあるの?」

リョーマはもくもくと食事を進めている。さすがアスリート、よく食べる。作りすぎたかなと思っていたがすごい速さで皿の上のものがなくなっていく。

「俺の誕生日、時間くれる?一緒に温泉旅館行こう。」
「温泉、」
「うん。行きたいとこあるんだよね。付き合ってよ。」
「旅館?二人で?」
「うん。だめ?」
「だめじゃない、です。」
「はい決まり。」

そうか、リョーマも18歳になるから、こういうこともできるのか。
高校時代に思いつきで一度調べたことがある。リョーマは温泉が好きだから泊まりで行けたらいいなと。でも未成年同士の宿泊は条例の関係で厳しく、親の承諾が必要とかなんとか。
リョーマのご両親(というかお父様)はその辺りに寛容な印象はあるが、私は私の両親に「恋人と旅館に一泊したいのでここにサインしてください」などと赤裸々に言う勇気は無く、誤魔化して強行する度胸もまた無く、いつかまたと計画を温めていた。

そっか、でも先を越されちゃったな。舞い上がりそうな心のうちで折衷案を探す。

「リョーマ、その旅行私に手配させてよ。」
「ん?」
「誕生日プレゼントってことで、私が出したい。」
「気持ちは嬉しいけど、いいよ。俺が行きたいんだし。」
「うーん…。」
「お金のことだけどさ、俺別に“俺の金“って思ってなくて。最終的に二人のものになるんだからどっちが出すとかそういうのは何でもよくない?」
「え、」
「俺はそのつもりでいるし、毎回揉めたり譲り合ったりするのも面倒くさいから統一しようよ。支払い関係は俺ってことで。」
「待って。今すごいこと言ってるって分かってる…?」
「何を今更。」

リョーマは私の顔を見ておかしそうに笑った。そのつもり。そのつもり?リョーマは簡単に言う。私が不安に思っているこの先の見えない未来も、リョーマには見えているのだろうか。そういうところが羨ましいし私は自分が情けない。

「…。」
「温泉、楽しみだね。」

どんな顔をしたらいいのか分からない。リョーマは私の気持ちを知ってかまた面白そうにするので、本当にもう、どんな顔をしたらいいのか。






次の日からリョーマは練習を再開した。リョーマは規則正しく早朝に目覚め、リビングでストレッチをしていた。私も起きて寝室を出ればリョーマは私の寝癖を楽しそうに指に絡めた。

「跳ねてる。可愛い。」
「うるさい…直してくる…。」
「名前今日は仕事?」
「うん、月曜日だし………え、リョーマ朝ご飯作ってくれたの?」

食卓を見れば美味しそうな料理が並べられていた。リョーマが?

「うん。簡単だけどね。」
「えー…嬉しい、でも早くから大変だったでしょ。ありがとね。」
「別に、いつもやってることだよ。」
「そうなの?」
「名前だって自分のことあるんだから、そのときできる方が作ろ。」
「大人になったね…」
「たまに年下扱いするよね。一個しか変わらないでしょ。」

長く付き合っているしリョーマのことはだいたい知っていると思っていた。でもやはり離れている時間は多くて、知らなかったことがたくさんあったのだと思い知らされる。私も頑張らなきゃ。そしてリョーマをたくさん驚かせたい。



ゆっくり食べていたらもうすぐ出掛ける時間になっていた。リョーマがいると時間感覚がいつもと違う。急いで化粧をし、ネックレスをシャツの中に押し込んでスーツのジャケットを羽織った。

「リョーマ、これスペアキーね。自由に使って。」

玄関の鍵を渡そうと振り返ればリョーマは私の姿に上から下まで視線を滑らせ、次には悪戯っぽく笑った。

「スーツもいいね。」
「メイク崩れるからやめて。帰ってからね?」
「はーい。」

キスをされそうだったので鍵だけ押しつけて玄関まで逃げた。リョーマは楽しそうな顔で腕を組み、肩で壁にもたれてこちらを見ている。

「名前、いってらっしゃい。」
「…行ってきます。」

胸が、チリチリとする。ああ、幸せとはきっとこれだ。






正午、財閥の仕事を終え、家に帰るとリョーマは練習に出ているらしく静かな玄関が迎える。大学の課題を少しだけ進めて、夕方になったら食事の準備をしよう。ノートパソコンと睨み合って数時間、目が疲れたので息抜きにコーヒーを入れた。キッチンから顔を上げると窓の外は気持ちのいい秋晴れで、カップを片手に思いつきでバルコニーに出た。

風がほどよく冷たくて、気持ちが良かった。リョーマが帰ってきたらここから見えるだろうか?コーヒーを片手に柵にもたれて街を見下ろす。

少しした頃に玄関が開いた音がした。振り返るとスウェット姿でラケットバッグを背負ったリョーマがいて、バルコニーにいる私を見つけて笑った。

「おかえりリョーマ。」
「ただいま。そんなところで何してんの?」

バッグを床に下ろし、リョーマもバルコニーに出た。シャワーを浴びてから帰ってきたのか、シトラスの爽やかな香りがする。

「リョーマが帰ってくるの待ってたの。」
「ここから見てたの?」
「うん。全然見えなかったけどね。」

リョーマは柵に手をかけ私からコーヒーをとって一口啜った。

「苦…」
「あれ、リョーマ苦手だっけ?」
「外で出されたら飲むけど一人の時はそんなに飲まないかな。」

リョーマは私の顔を覗き込み、不意に唇を重ねた。

「こっちも苦い…。」
「ちょ、っと、一応ここ外!」

押し合い、コーヒーが溢れそうになり、二人で笑い合う。日の暮れてきたバルコニーに影が伸びる。

「ジャパンオープンもうすぐだね。調整は順調?」
「まあまあかな。」
「会場、有明コロシアムだよね。」
「うん。あ、そうだ。忘れないうちにこれ、チケット。」

リョーマはポケットから手のひら大の紙を取り出した。Japan Openと書かれたリョーマの名義のチケットだった。

「ありがとう。リョーマの試合生で見るの久しぶり。緊張するなあ。」
「絶対勝つから見ててよ。」
「うん、楽しみにしてる。」

腰に手を回され、またひとつキスをする。こんな高さなら誰も見ていないよね。涼しい風が二人の髪を絡めた。






程なくして予選の日はやってきた。有明のサブコート。スタンドを埋める観客がざわめき熱気に包まれる。私はチケットを提示しゲートを抜けた。ここへ来るのは中学の大会以来だ。プロの試合。学生テニスとはまるで雰囲気が違う。私は座席につきチケットに印字された『RYOMA ECHIZEN』の文字をなぞった。

定刻を過ぎコートにリョーマが現れた。キャップを被り、左手にラケットを握る。相手はATP150位のベテラン選手だ。審判のコールで試合が始まる。今まで液晶越しにばかり見ていたリョーマのテニス。鋭いプレーに観客がどよめく。あの頃から変わらない、目の輝き。勝負への純粋な光に胸が熱くなる。

結果、6-4、6-3でリョーマは初戦を突破した。コートを去るリョーマが一瞬こちらを見て口角を上げた。やはりと、想いが確信に変わる。ジャパンオープンはATP500というグランドスラムやマスターズに次ぐ規模の大会。いつか私は自分の足で、自分の目で、世界のトップの舞台で闘うリョーマを見るんだ。





リョーマはベスト16位入りという好成績で大会は幕を閉じた。
平日の午前中はインターンがあるため全試合の観戦は叶わなかったが、予選の初戦、そして本戦の一、二回戦をスタンドから応援した。
大会が終わった日の夜、リョーマは私の部屋に置いていた荷物をまとめ始めた。

「次はパリだっけ。」
「うん。パリマスターズ。でもそれが終われば今季はおしまい。オフになればもっと長く日本にいられるよ。」
「…試合、見れて嬉しかった。ありがとうリョーマ。」
「何いきなり。」

リョーマは困ったような顔で笑って手を止めて、私の腕を引いてソファに座った。

「有明、久しぶりに入って懐かしくなっちゃった。中学の全国大会もあそこだったから。」
「うん。そうだったね。」
「リョーマあのとき記憶なくしちゃって到着も遅れて、みんなリョーマのこと心配してたんだよ。」
「悪かったって。色々あったんだよ。」
「それで全国制覇したと思ったら突然アメリカに行くって言い出すし。」
「あー、若かったよね。」
「今もそういうところ変わってない。」

二人で軽く笑い、私はリョーマの肩にもたれてまとめられた荷物をぼんやり眺めた。

「…あのときリョーマがアメリカに行っちゃったの寂しかったけど、部活とか家のこととか…守れた時間も大切だった。寂しいなんて言ってられないくらい毎日忙しくてさ。」

先輩たちが引退して代替わりした青学テニス部。体を庇いながら寺の勤めに戻った両親。そこにリョーマがいなくても私は大切な時間を過ごしたと胸を張って言える。

「リョーマも頑張ってるって信じてたから私も頑張れた。それは今も変わらない。」
「…今も寂しい?」

リョーマは私の髪を撫で、優しく言った。
正直、寂しい。リョーマが遠いと思ってしまう。でも今の私は自分のことで必死で、そしてこの時間もきっと大切。

「…これがあるから平気。」

胸のネックレスに手をあてた。リョーマがくれた、私の宝物。これをつけるといつだって背筋が伸びた。

「これダイヤで出来てるんだね。人から言われて初めて知ったの。どうして教えてくれなかったの?」
「そうだっけ。まあ、これが一番似合うと思っただけだよ。」

はぐらかすようにリョーマはそう言って、私の顎を持ち上げキスをした。
ダイヤモンド。何より硬く、永遠を誓って輝く宝石。永遠ってなんだろう。未来ってなんだろう。でも、やっぱり、大切なのはこの今だ。

きっとまた会える。いつかまた一緒に暮らす。その約束がある『今』が、私に前を向く力をくれるんだ。






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