ディア・プランビー
8.炎上ジャパンオープンの大会後、リョーマはパリマスターズのためにフランスへ飛んだ。あっという間の二週間だった。一人になって妙に広く感じる部屋を、誰の見送りもなく出掛ける。スーツの下でリョーマからもらったネックレスが揺れる。リョーマを支えたい、そう思っていたけれど、元気をもらったのは私の方だ。
あっという間に11月になり、リョーマは今年のツアーを終えた。ATP50位に躍り出る大健闘だった。
テニスの世界ランキング、ATP50位。
世界のトップ50は、20代後半から30代のベテランがほとんどだ。一方リョーマは今年で18歳になる若手選手。10代で50位なんて稀なことで、過去10年でも5人程度らしい。特異、早熟、天才。それだけでは片付けられない、これは彼自身の努力による実績だ。数字の重さに、越前リョーマというプロテニスプレイヤーの存在の特別さを思い知る。
今年のツアーを終えたリョーマは、練習拠点にしているアメリカの家を片付け、それから東京の越前家に寄るとのことだ。なので、私のマンションに来るのは少し後の予定だ。
今日は跡部財閥にていつも通り午前勤務。秘書課のデスクで書類の整理と、役員会議の会場セットを終え、定時に退勤した。
鞄を肩にかけロビーに降りると景吾さんと鉢合わせた。景吾さんは私の指導役である秘書課の上司と立ち話をしていた。
「お先に失礼します。」
会釈をし通り過ぎようとしたとき、景吾さんから呼び止められた。
「名字。ちょうどいい。お前の話をしていたところだ。ランチ付き合えるか?」
「景吾さん、名字さんの調子を気にかけていらして。よくやってくれていますとお話ししていたところなんですよ。」
「そうでしたか、私がご一緒してよろしければ、ぜひ。」
一瞬頭をよぎる、三月の週刊誌の記事。景吾さんと二人で会食をしていたところをカメラに撮られたのだ。でも今日は秘書課の上司が一緒だ。あれからずいぶん時間も経っている、大丈夫。私は二人の背中を追いかけた。
社屋の近くにあるカフェに入ると昼時の喧騒で賑わっていた。窓際の席に座り、料理を注文した。
「調子はどうだ。俺が推薦したからには上手くやってもらわないとな。」
「おや景吾さん。先程とお話が違いますよ?ご自身が無理に引き入れた側面もあるからよく見てあげて、とおっしゃいましたよね。」
「揚げ足をとるな。」
景吾さんは咳払いで誤魔化し、顔を背けた。財閥の役員である景吾さん。そのサポート役である秘書課の上司。この二人の会話を聞くに、いい関係なのだと容易く想像できる。
「名字さんは英語も使えるから色々とお任せができて頼もしいんですよ。先日は海外から来社された方のご案内もされていましたし。ね?」
「いえ、かなり拙い伝え方になってしまいましたのですがお相手の方がゆっくりと聞いてくださって。かえってこちらが親切にしていただけたんです。」
「語学はとにかく場数を踏むしかねえからな。これからもびびらず使ってけよ。」
「はい、頑張ります。」
和やかな雰囲気で簡単な現状報告と食事を済ませ、店を出た。
その日の晩、突然杏ちゃんから電話がかかってきた。
「名前大丈夫?!」
「えっ…何が?」
「見てないのね。落ち着いて聞いてほしいんだけど、SNSにあなたの顔が出てるの。…跡部さんと一緒にね。」
杏ちゃんは深刻そうにそう言った。
写真。例の記事が頭を過ぎる。血の気が引くのを感じながら、電話を繋いだまま私は検索をかけた。問題の投稿は、景吾さんの名前を使えばすぐに見つかった。
『カフェでお茶してたら跡部様と遭遇!!だけど向かいの席に誰かいる!!その女誰よ?!』
週刊誌はまだ良心があったのだと思うほどに。
その投稿には四枚の写真が添付されていて、自身が頼んだらしいドリンクの写真、跡部さんの後ろ姿、跡部さんと私が向き合い会話する横顔、それから私単体の、写真。モザイクなど一切ない。私の顔が晒されていた。
食事には上司も同席していた。それなのにあたかも二人きりでいるかのように切り抜かれ、ものすごい早さで世間に拡散されていく。
「なに、これ、」
「ごめん。言わない方が、とも思ったんだけど、知らないで後から何かあってもいけないと思って…」
コメントを見れば「これ前に週刊誌に載ってた女性と同一人物かな」「まだ続いてたんだ」「あれは前に財閥側が否定してたじゃん。これも仕事の打ち合わせとかでしょ」「盗撮はだめだよ」「跡部様こんなの撮られるなんて危機感なさすぎ」「この女の子一般人でしょ、やめてあげなよ」などと賛否に大いに盛り上がっていた。
「ううん。杏ちゃんから聞けてよかった。教えてくれてありがとう。」
「…大丈夫?」
「……跡部さんにまた迷惑かけちゃったのが、きつい…。それに…」
スクロールすれども下が見えない。遠慮のない言葉の刃が胸に刺さる。
「……こうもあからさまな悪意を向けられると、流石に、悲しい、かな。」
「そうだよね…でも、それでも跡部さん、それに越前くんが名前と関わっていくことを選んでいるのは、名前のこの先を背負ってくれるって意味だと思うよ。そりゃあ本当はこんな目に遭わないのが一番いいに決まっているんだろうけどさ。」
「…。」
「遅かれ早かれ、あの人たちみたいなド表舞台にいる人たちと一緒にいるってのは、こういう問題がついて回るんだと思う。でも名前がどうしたいかが一番大事だし、名前がどんな結論を出そうと越前くんも跡部さんも受け入れてくれると思うよ。名前はどうしたい?」
「迷惑、かけたくない…」
「そうだけど、もっと自分のこと心配しなよ。顔が流出してるんだよ?スクショとか撮られてたら終わりだけどまずは根元を断たなきゃ。跡部さんにすぐ相談しな。あの人ならなんとかしてくれる。」
「リョーマには、言ったほうがいいのかな…」
「うーん…それこそ悪意のある伝わり方してもあれだから先にこっちから言ってあげるのが無難かも…でも名前きついでしょ。もしよければ私から桃城くんに言ってフォロー頼んでおくわよ。」
リョーマ。今夜アメリカをたつと先程連絡があった。もう飛行機の中だろうか。どんな顔をするんだろう。なんて言われるだろう。
怖い。
だめだ。私からは言えない。
翌日出社し、景吾さんのスケジュールを確認した。今日は出張に行っているようで、出先で一泊、戻りは明日となっている。どうしよう。水を差してしまうかもしれない。でも今このときにもあの写真は拡散されて続けている。
デスクに座るといつもより視線を感じるような気がする。きっと私の気にし過ぎだ。でもなんだか肩身が狭い。居心地が悪く顔を上げられずにいると、電話がかかってきた。景吾さんからだった。
「今、一通メールを転送した。確認できるか。」
「メールですか?お待ちください…」
受信フォルダを開くと広報部から景吾さん、景吾さんから私に転送されたメールが一通届いていた。添付を開くと今回のSNS投稿に関する声明文だった。三月に景吾さんとの写真が週刊誌に載ったときのように、事実無根を強調する内容だった。
「問題なければ朝のうちにリリースする。目を通したら広報部に連絡しろ。いいな?」
「…承知しました。」
あの投稿が世に出たのは昨日の夜だった。それから跡部財閥の中はすぐに動き出していて、方針検討から文書作成、そして各所根回し等をその晩のうちに全て終わらせ、私に配慮し朝になって連絡をくれたのである。
「ご迷惑をおかけしました…。」
「あ?何言ってんだ。これも俺の仕事だ。」
「いえ、あの、景吾さんのイメージに関わりますよね、本当にすみません。」
「だからそれも含めて、だ。俺がどう思われようと、その後の俺が俺をどう魅せようと、俺が背負う問題だ。それに今回については完全に捏造だろ。お前に落ち度はない。分かったらメールの件早く回せよ。」
素直に尊敬する。随分と立場が上であるし違う世界の人に思えてしまうけれど、彼は私と一つしか歳が違わないのだ。
早急に広報部へ確認した旨連絡を入れ、自分の仕事に向き合った。
始まりは景吾さんからのスカウトだった。自分から跡部財閥に関わろうと決めた動機はあくまで遠征の資金づくりのためだ。でも今は深く思う。この人に仕事で返したいと。
定時を迎え、帰宅した。日は高いが風が冷たい。ストールを深く巻き歩き出す。
マンションのエントランスに着き、開錠しようとキーを探す。ひとつ、後ろから足音が近付く。エントランスのガラスに反射して見えたのは若い女性だった。その人は歩幅を緩め私から少し離れたところで立ち止まった。同じマンションの住民だろうか。
私はキーをタッチし中へ進んだ。するとその人も後ろをついてきた。扉が静かに閉じる音、女性のヒールの音を背中で感じながら、その足音がビタリと不自然に止まったのでなんとなく気になって振り返った。
「あんたなんか…!」
突然、女性が叫んだ。
そうかと思えばこちらへ駆け寄ってきて、私は咄嗟に身を引いたが廊下の壁に肩がぶつかった。女性の手が伸びる。
「痛…っ!」
女性が突然、力任せに私の髪を引っ張った。
「やめ、て…っ!!」
腕を振りほどこうとするも想像以上に力が強く引き剥がせない。何。何が起きているの。揺れる視界、強烈な痛み。息を荒げる女性は金切り声を上げた。
「跡部様に近付かないで!!」
女は腕を振り下ろす。
そのとき、胸元に鋭い痛みが走った。
───プツン。
視界を掠める銀色の線
きらりと華奢な輝きが宙を舞う
女性の爪が私の胸元をかすめ、ネックレスに引っかかり、そして、切れた。
それは反動で軽く飛び、床に落ちて滑っていく。
「…………!!」
だめ、
喉が締め付けられるように息が止まった。
私は必死に目の前の女を突き飛ばし、ネックレスの行方を追いかけた。女の拳が私の背中を捕まえる。気付いた頃には私の体は床に叩きつけられていて、それでも必死に手を伸ばした。
───リョーマ。
大好きな人の顔が脳裏に過ぎる。
絶対、絶対に失えない。
「やめなさい!!」
そのときだった。後ろから男性の声。警備員が二人。騒ぎを聞いて駆けつけてきたのだった。ハッと顔を上げた女は、バランスを崩しよろめいた。そのとき彼女のヒールが外れ、靴が床を滑って転倒した。
その隙に私は床のネックレスを掴み走り出す。警備員の静止を振り切ってエレベーターに飛び込んだ。
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