ディア・プランビー
9.遠距離恋愛


「閉」のボタンを連打する。床でうずくまる女と、駆けつけた警備員の姿が扉の間から見えて、閉まった。エレベーターは上昇し、ふっと静寂が訪れる。だくだくと耳の中で血管が跳ねている。 自室のある階に到着し、誰もいないことを確認して降りた。膝が笑っている。なんとか部屋の前まで辿り着き、震える手で玄関の扉を開けて瞬時に施錠した。するとドッと力が抜けて私は土間に座り込む。


引っ掻かれた胸元が、打ち付けられた肩や肘が、ジンジンと痛む。だけどそんな体の痛みより、何より心を締めつけるのは、握りしめたネックレスの感触だった。

リョーマからもらったシルバーの、ダイヤのついたネックレス。

手をそっと開き視線を落とした。ダイヤのつくペンダント部分は無事に見えるが、チェーンは無残に切れていた。

引き千切られたあの瞬間、まるで心も切り裂かれたかのようだった。卒業式の日に渡してくれた、似合っていると言って、指先で撫でて愛おしそうに笑ってくれた、リョーマとの記憶が酷く胸を刺す。大切な人からもらった大切なものだった。世界に一つしかない私の宝物だった。

「リョーマ、ごめん…壊しちゃった…。」

涙が頬を伝い、嗚咽が部屋に響いた。








あとから聞いた。あの女性は跡部さんのファンであること。会社で待ち伏せをし、退勤した私の後をつけてきたこと。SNSの投稿を間に受けて、衝動的に行動を起こしたこと。
マンションの警備員は、女性の身柄を警察に引き渡したそうだ。

こちらとしては怪我を負い、器物破損の被害を受けた。しかしながら大ごとにはしたくなかった。早くこの話題を終わらせて、忘れてしまいたかった。



「───なので、被害届などは出さずにどうにか…。あの、弁護士さんを紹介していただけますか。………景吾さん?」
「お前…っ、ちょっとこっち来い。」

翌日出社した際に景吾さんを訪ねるとその涼しそうな顔に汗が滲んだ。
会議室に連れられて椅子に座るよう促された。空気が重い。

「お前自分がどれだけ危ない目にあったか分かってんのか。こんなときにノコノコ出社してきてんじゃねえよ。その部屋からはすぐに引っ越せ。こちらで新しい物件を探す。いいな。今日のところはホテルを取る。…他に何か要望はあるか。」
「今日泊まるホテルは既におさえています。」
「チッ そうかよ。…いや、違うな。そうじゃねえ。悪かった。名字。悪かったな。」

景吾さんが、私に頭を下げた。

その異様な光景。景吾さんは事ごとの頂点に立った人だ。そんな人が私に頭を下げている。
やめてほしい。
あなたは何も悪くない。

「顔を上げてください。私は平気です。」
「こんなときにも落ち着いているなお前は。俺の方が取り乱してみっともねえ。」

落ち着いているのではない。なんだか現実味がないのだ。きっと冷静なのではなく、ただ気持ちに蓋をしているだけ。

「景吾さん。私本当に大丈夫なので…。」

景吾さんの眉間に皺が寄っている。全然納得していない。私の要望。週刊誌や世間に圧力をかけて欲しい?出回っている写真を、全てのネットのコメントを消してほしい?悪質な気持ちを向ける全ての人間を消してほしい?そうじゃない。私が望んでいるのはそういうことではなくて。

「…。」



長い沈黙の後、景吾さんは立ち上がり「そこで待ってろ」と言って部屋を出た。
静かな会議室に、私は椅子に深く座る。私は何を望んでいるのだろう。違う。違うんだ。人に何かして欲しいんじゃなくて、変わって欲しいんじゃなくて、変わらなきゃいけないのはきっと私なんだ。変わっていく関係、変わっていく環境。いつまでも昔のままではいられない。そうと頭では分かっているけれど。


少し経った頃、書類の束を抱えて景吾さんが部屋に戻ってきた。

「名字。悪いがしばらく自宅待機だ。」

そう告げて溜め息をつきながら席に着く。おそらく上からの指示だろう、景吾さんよりもっと上の。景吾さんは複雑そうに一瞬固く目を瞑り、そして前髪を上げて表情を引き締めた。

「自宅待機…」
「騒動が落ち着くまでな。念の為だ。特別有給扱いにするから給与の心配はしなくていい。」

景吾さんは書類を机に並べ始めた。

「急ぎで悪いがこの中から物件を決められるか。ずっとホテルってわけにいかねえだろ。仮住まいでもいいから部屋を決めろ。引越しは業者に全て投げればいい。費用もうちで持つ。」

写真がいくつか添付されている資料が数枚。今年の冬はリョーマとあの部屋で暮らせると思っていた。それなのに全然知らない物件の写真を見せられたって何も心が動かない。
しかしあの景吾さんが焦っている様子を見ると事の大きさをじわじわと実感させられる。

「…越前は、今年のシーズンオフはお前のところで過ごすのか?」

景吾さんは声を落として私に尋ねた。そのはずだった、楽しみだった、でもこんな状況ではきっと彼も落ち着いて過ごせないだろうから、…今年はだめかもしれない。
返す言葉をなくしていると景吾さんは書類の中から一枚引き抜き、私に差し出した。

「日本で冬を過ごすプロ選手たちに、うちから練習設備…屋内コートやジムの無償提供を提案してるんだが、越前にも先日連絡を入れたところだ。気に入ればあいつはうちのコートをトレーニングの拠点にするんじゃないか?───そのコートから一番近い物件が、これだ。」
「…。」
「ここで進める。いいな?」
「……はい。よろしくお願いします。」



定時を待たず今日は早退することになったので、デスクの片付けを済ませて退勤した。自宅待機。しばらく来れないんだ。気分が深く沈む。

リョーマに何と伝えよう。
引っ越すことになった、私はしばらく仕事を休む、新しいマンションで一緒にいてほしい、それから、ネックレスのこと…


「名前!」


「…!」
建屋を出たそのとき、聞き慣れた声に呼び止められた。
「なんで、いるの。」

リョーマ。

ああ、泣きそう。
こんな寒空に汗をかいている。ラケットを背負っている。スーツケースを引いている。

「…、今着いたところ…?おかえりなさ、」
「そうだけど、俺のことじゃなくてさ。…跡部さんから聞いたよ。」

空港から直接来てくれたのだろうか。会いにきてくれたことが嬉しいのではない。来させてしまった。知られてしまった。心配をかけてしまった。リョーマは跡部さんからの連絡を受けて、予定を変えて真っ直ぐ会いに来てくれたんだ。

「行こ。」

それだけ言うとリョーマは歩き出した。私のマンションに向かう道を行こうとするので、手を引いて止めた。リョーマは一瞬不思議な顔をしたが、すぐに思い当たったようで優しい顔を作って言った。

「今日はどこに帰るの?」
「ホテルとってる。だからこっちの道じゃなくて、駅の方。」
「そっか。お腹空いてる?」
「今は…。あとでルームサービスとろうかなって。」
「じゃあ俺のも頼んで。」
「リョーマも泊まるの?」
「うん。名前がいいなら。」


ツインの部屋をとっていてよかった。昨日急いでホテルの空室を確認したらシングルが満室で、割高だけど仕方ないかと予約を入れたのだった。
フロントで人数追加の手続きをしてリョーマと部屋に入った。

私はなんだか頭がぼんやりとしていて、リョーマも特に何も言わず、言葉少なく時間を過ごした。外が暗くなる頃に食事をとり、風呂に入り、ベッドに潜る。続いてシャワーを済ませたリョーマがこちらへ来て私に覆い被さった。こんなときに。そう頭を過ぎるが、きっとリョーマからすればこんなときこそ、なのだ。優しく肌に触れ、リョーマは順々に唇を落とす、次は胸元に。そこでリョーマの手が止まった。

「…なに、これ。」
「あ、」

そうだった。
リョーマは体を起こし、私の服を捲って目を凝らした。

「傷…?」
「えっと、仕事中に転んで机の角にぶつけちゃったんだよね。」
「こんなところを?」
「…」
「名前…ちょっとごめん。」

リョーマの手が、躊躇いながら私の服をそっと剥がし、重い沈黙が流れる。
胸元は、あの人の爪が掠めてできた傷。そして今リョーマが顔を顰めて撫でる肩や肘は、よく覚えていないけれど多分壁とか床とかに打ってできた痣。
でも私はこんなものどうでもよくて、こんな傷、本当にどうでもよくて、怪我はいつか治るし、でも。
…言うなら今しかない。

私は服を手繰って肌を隠し、ベッドを抜けた。鞄の底に入れていた箱を取り出す。切れてしまったネックレス。私はこれをリョーマからもらったときに入っていたケースに戻してしまっていた。中身をリョーマに見せないといけないのに、手が震える。

「リョーマ、ごめん、あのね、」
「…」
「本当に、ごめんなさい…これ、」

蓋も開けられず、差し出せもせず、ただ箱を握る。顔が見れない。涙が次々に溢れてくる。大切なものなのに、守れなくて本当にごめんなさい。

リョーマは私の手から箱をとってそっと開き、すぐにまた閉じてベッドサイドのテーブルに置いた。

「…毎日つけてくれてたってことでしょ。俺はそれが嬉しいよ。」

優しく抱きしめられ、その優しさがつらくて余計に涙が出た。リョーマがどんな思いでこれを用意して、忙しい中私に届けてくれたのか想像しただけで胸が締め付けられるんだ。

「名前言ってよ。怖かった、痛かった、って俺に言って。」
「………。」
「言えないのは、俺がそばにいないから?」
「そうじゃない、でも、」
「うん、ごめん。分かってる。でも言ってほしかった。」

真剣なリョーマの目が私を見る。私だって、リョーマの気持ち分かってる。上辺じゃなくて本心で私を心配してくれているのも分かってる。でもリョーマにはリョーマの好きなテニスに真っ直ぐに向き合って、自由に世界を駆けてほしい。

重々しい空気が漂う。頭がパンクしそうで、私はマットレスに沈み込む。リョーマも私に倣って横になり、布団を手繰り寄せ私の肩にかけた。二人で天井を見上げる。

「…あのマンションどうするの。違うところに引っ越すの?」
「うん。景吾さん…跡部さんが新しい物件斡旋してくれたから…でも引っ越したところで…」
どうせイタチごっこ。いつかまた私の家が特定されて同じようなことが起こるのではないか。そんなしたくもない想像をしてしまう。どこにいたって怖いことには変わりない。

「………一緒に住む?」
「それって…日本にいる間だけだよね。もちろん十分嬉しいけど、…リョーマはまたツアーが始まったら海外に行っちゃうんでしょ。」
「じゃあ…引退、する。」

今、なんて。
私は身を起こしリョーマを見た。しかしリョーマは私に背中を向けた。その手がシーツを握り込んだのが見えた。

「リョーマ、今、引退…って言った?」
「うん。」
「ねえ、冗談でもそんなこと言わないで。」
「本気だよ。」
「じゃあ別れる。私のせいでリョーマがテニスを手放すくらいなら。私は別れたい。」

言葉の応酬がパタリと止んだ。別れたい。私は衝動的にそうぶつけた。その言葉は言い返されることなく、静寂が流れて、あれ、と思って顔を覗いた。

「…え、」
初めて見た。
リョーマがひどく傷付いた顔をして、そしてその目から一筋涙が流れシーツに染みた。

「………………やだ。」

リョーマの声が揺れた。
顔を背けたまま、リョーマはゆっくりと体を起こし膝を立てて座った。その肩が微かに震えていた。

「…リョーマ、」
「別れない。絶対に別れないから。」
「…っ、私だって、嫌だよ!でも私のせいで、引退なんて、」
「そうでもしないと、名前はずっと一人のままじゃん!」
「リョーマ聞いて。私、リョーマがどれだけテニスが大事か知ってるよ。ずっと見てきたよ。だから、」
「分かってよ。」
「分からないよ。」
「分かって。好きだよ。名前が好き。一緒にいたいって思うのはそんなにおかしいことなの?」
「違う、そうじゃないよリョーマ…でもこんなのおかしい…!」

感情的に言葉をぶつけ合う。嫌だ。こんな守られ方は嫌だ。リョーマは見たことない必死な顔をして私の肩を掴んだ。痛い、リョーマの指が痣に当たり私はうっかり顔に出してしまって、リョーマは小さく「ごめん」と言って私を再びベッドに倒した。


「…別れるなんて、言わないで。」


背中がマットレスに沈み、キスが降ってくる。
リョーマの濡れた睫毛が私の瞼に触れ、二人の涙が混じる。私の言葉を塞ぐように堪えず舌を絡めて、私を黙らせるように体をあばく。息が上がる頃にはリョーマの涙は止まっていて、この現実から目を背けるように激しく、激しく。リョーマ、テニス辞めないで。絶え絶えに伝えた私の言葉は届いているだろうか。







翌朝。目を覚ますとここは馴染みのない部屋、隣にリョーマ。そっか、ホテルに泊まったのだった。あのあと私たちは遅くまでそうやって過ごし、泣き疲れて服も着ぬまま眠ってしまった。頭が痛い。時計を見ようと首を捻れば、サイドテーブルに置かれたひとつの箱と目が合う。これをどうしよう。

このネックレスを付けると、私はいつもリョーマのことを思い出した。でも今は。あの女の顔がどうしたって頭をよぎる。

直す?修理に出せば、見た目上は元通りになるかもしれない。それとも見えないように引き出しの奥にでも隠してしまう?それか、いっそ手放してしまおうか、いやそんなことできるはずがない。
どうしよう。どの道も選べない。

ゴシップ、週刊誌の見出し、SNSの悪意、女の憎しみ籠った目――それらがこの小さなネックレスに絡みついている。

どうするべきなのだろう。そして私たちはこれからどうなってしまうのだろう。

「……………。」

仕事はしばらく休みなので時間にとらわれることはない。リョーマもしばらくオフのはず。ベッドの端に転がっていたスマホを持ち上げればメッセージが一件。『本日午前より業者による荷物の搬出入を開始予定です。明日13時より入居できるよう手配します。』秘書課の上司からだった。

承知したことを簡単に返信して、布団に潜る。何にも考えたくない。そのとき後ろからリョーマが寝返りを打つ気配がして、その腕が私の体に絡む。お互いの肌の温度を直に感じ、そのまま事に雪崩れ込む。現実逃避だと思う。昨日あんなに言い合いをして泣きあったことにも目を瞑って、ただ目の前の熱さに依存する。どうしようもない。私たちは会話が上手じゃないからこうするのかもしれない、なんて都合よく考えながら。





シャワーを浴びたリョーマは、ラケットを背負って「夕方には戻る」と出掛けて行った。その姿に心底ホッとする。よかった。これで手ぶらで出掛けたらと思うとゾッとする。公式戦がないというだけで、今はオフであってオフではない。次に向けての準備期間だ。昨夜はあんなことを言っていたけれどやっぱりテニスはリョーマの一部で決して切り離せないものなのだ。体に染み付いているものなのだ。



大学の課題に手をつける気にもなれず無駄に時間を浪費し、日が暮れる頃にリョーマは部屋に戻った。朝より随分すっきりとした顔をしている。リョーマにテニスがあってよかったと思う。やめないでほしい。ずっとリョーマにはコートに立っていてほしい。


「あのさ、名前。」
ラケットバックを床に立てかけ、リョーマはベッドに座る私の隣に腰掛けた。大きな手が、私の手に重なる。

「来年、一緒にツアー回らない?」



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