ディア・プランビー
10.誠実その力強い目が私を捉え、優しく手を握ってリョーマは言う。
「来年、一緒にツアー回らない?」
突然言われたその言葉に私は頭が真っ白になった。
「ツアー、って、どういうこと?」
「1月から全豪オープンが始まって、そこから一年間色んな国に行って色んな大会に出る。それに、ついてきてほしい。」
リョーマはプロテニスプレイヤーとして世界を転戦する生活だ。ついていく?私が?あまりの突拍子のなさに言葉が出てこない。
「いや、あの…私インターンやってるし、」
「跡部さんには話したよ。そういうことになるならリモートも検討するってさ。」
リョーマについていく。もしかしたらいつかそんな日が来るのかもしれないと思っていた。でもそれはもっと先の話で、だって今の私は私のことに精一杯だから、
「待って…いきなりそんなこと言われても…」
「うん。今すぐ決めなくてもいいよ。考えておいて。…それとさ。」
リョーマは更に続ける。これ以上に何があるのだろう。身構えたそのとき、リョーマはサイドテーブルに置かれたままだった、ネックレスの箱に手を伸ばした。
「…これのことなんだけど。」
「…」
「ああ大丈夫。開けないよ。名前、今はこれ見るだけでもつらいんでしょ。」
箱の背を撫で、リョーマは言う。
「…これ、サンタモニカの店で買ったんだよね。サンタモニカってアメリカにある、サンセットが綺麗な街でさ。ビーチが見えて、観覧車もあって、道ではパフォーマーが楽器弾いてて…いいところなんだよ。」
「サンタモニカ…?」
「うん。だからさ、一旦このネックレスのことは忘れて、来年一緒にツアーを回ろう。それでサンタモニカに行ったらこれをどうするかもう一度名前に聞く。直してもいいし新しいのを買うのもいいと思う。何もしなくてもいいし、答えが出せないならそれでもいい。それまで俺が預かっておくよ。」
あまりにスケールの大きな話に、頭の整理がつかない。ただ、リョーマが私のことをすごく考えてくれているということだけは分かって、その優しさに心が揺れる。
「…少し、考えさせて。」
「うん。ゆっくりでいいよ。」
なんとか言葉を絞り出すと、リョーマはネックレスを脇に置いて私を優しく抱きしめた。温かい。腕を回せば背中の広さに途方に暮れそうになる。小柄だったあの日の少年が気付けばこんなに大きくなって、きっと私の知らないところで大人になっていく。でも、ツアーに同行するなら、その一年間はずっと一緒にいられるんだ。考える。生半可な気持ちでは頷けない。ゆっくりでいい、そう包んでくれた彼に私は確かに救われていた。
───リョーマ、テニス辞めないで。
ぐちゃぐちゃの顔で、名前は俺に言った。
俺の知る名字名前とは、真面目で、誠実で、誰にだって綺麗に笑って、優しくて、でもすごく頑固で。
出会った頃の名前はやっぱりしっかり者だったけれどどこか上の空で、心細そうな小さな背中を初めて見たときに俺は酷く胸が締め付けられた。とにかくこの人を一人にしたくないと思った。
今もそうだ。どんな手を使ってでも名前のそばにいたいと強く思う。知らないところで名前が傷付いて、それを名前は意地っ張りだから俺に隠してなんでもないよって笑ってみたりして。嫌だ。名前が傷付くのは、泣くのは、嫌だ。あのときのように胸が酷く締め付けられる。
名前がつらいとき、そばにいられなくてごめん。引退するなんて簡単に言ってごめん。
「悪いな。お前からすれば最近の噂話は気分悪いだろ。」
跡部さんはスーツ姿で、練習コートに俺を見つけてそう言った。
跡部財閥が出資する屋内コート。冬の間の練習場として提供すると先日跡部さんから連絡があった。名前とホテルで過ごしてその翌朝、ここを訪れた。様子見と、軽い調整。それから跡部さんと話をするため。
「別に気にしてないっすよ。どうせでっち上げでしょ。」
「ああ。事実無根だ。でもお前には悪いことをした。」
「跡部さんのせいでも、名前のせいでもないのに謝られても、…困る。」
跡部さんが話しているのはSNSに拡散された写真のことだ。電話口で桃先輩が知らせてくれたからなんとなくは知っている。名前が言わない以上深く知る必要はないと思って直接は見ていないが。
今俺が話したいのはこれではない。
「あいつは、名字は大丈夫か?」
「跡部さん。」
「ああん?」
「名前がしている仕事だけど、例えばリモートってできないの?」
率直に尋ねれば跡部さんは眉を寄せた。
「お前あいつを家に閉じ込めておく気か?」
「いや。ツアーに同行させたくて。」
「…本気で言ってんのか?」
跡部さんは深く息を吐き、コートに転がるボールを一つ取ってカゴに放り込んだ。
「ツアー回るのが体力的にも精神的にもどれだけキツイか、お前が一番知ってるはずだろ。」
「でも今の名前を一人にはできない。」
「…」
「だから、名前の仕事、どうにかなりませんか。」
名前が日本でどんな時間を過ごしてどんなことを考えているのか、俺は知らない。ただジャパンオープンの間一緒に過ごしたとき、名前はスーツに袖を通し、背筋を伸ばして出掛けて行ったのだ。言わないけど本人は仕事を続けたいんだと思う。
「…ったく。」
跡部さんは髪を掻く。
「できるかどうかでいえば、できる。リモートワークやフレキシブルタイムの実績もある。だがな、越前。」
「なんすか。」
「あいつをそうまでして連れていくのか。お前が俺にこうして根回しをしてまで。」
「そうだけど。」
「…わかった。だがな、それは本当にあいつのためになるのか、よく考えろ。一年やる。このシーズンが終わったらもう一度先のことしっかり考えて答え出せ。いいな。」
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