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「準備バッチリってわけだ。これで負けたら言い訳できないよ?」
「貴様こそ、初めての言い訳は考えてきたか?」

悟がいる。
離れたのはたった数週間。でも何年も会っていないような、そんな気さえした。
大勢の人に紛れて気配を消す。悟は目がいいから、そんなことしてもすぐに気がついてしまうだろうが、今はこの人間という壁があるし、特級二体、特級呪物の受肉体が一体いれば早々に見つかることは無いだろう。
だけど久しぶりに会ったその姿に心が動かされないわけではない。
きっとニセモノも真人も、私が使い物にならない又は悟の味方につく可能性なんて計算済み。
だから私はまさに"肉の壁"となるのだ。

「寧々子はどこだ?」
「答える義務はない」

花御の術式が出口を塞ぐ。こんなことをしても逃げないよ、逃げたらここの人間殺しちゃうでしょ?と悟は言うけれど

「逃げたらか。回答は、逃げずとも、だ」

ホームドアが開く。人がおしくらまんじゅう状態だったため、そのドアに寄りかかった人間が何人も線路に落ちた。
悲鳴がきこえる。私はまだ、息を殺して"壁"に隠れたまま。その壁のせい詳細までは分からない。でも耳を劈くような悲鳴と、噎せ返るほどの血の匂いが私の脳を攻撃した。
人が逃げ惑う。
虫のように死んでいく。
首に巻かれた縄のせいで呼吸がしにくい。いや、縄のせいじゃない。
興奮しているんだ、この状況に。
私の魂が。
呪いの魂が歓喜している。

「はあ…っ」

悦びの吐息。理性と本能の狭間。
足元に、肉片が転がった。
恐らく悟と脹相しか見えていない人間がほとんど。でも死の縁で、漏瑚と花御のことが見えだした人間もいるだろう。
わけもわからないまま人が死んでいく。テロだと叫ぶ人、死にたくないと泣きわめく人、自分は巻き込まれまいと出口もないこの地獄を走り回る人。
全部、全部全部、
私の、餌。

「五条悟!こっちを見ろ!!」
「…寧々子」

漏瑚に突然首根っこを掴まれて線路に降ろされたと思ったら、花御が悟の術式に潰され死んだ。
ああ、これを止めようと思ったのね、と納得して、大人しく漏瑚に捕まっている。

「動けば寧々子を殺す」
「…。」

私の口からはダバダバと尋常じゃないくらいの唾液が出ていて、大型犬のように地面へその滴を落としていく。漏瑚はそれを気にもとめず私をいつでも殺せるという風に、私の首に手を回している。
これが私の使い方。でも私は、もう我慢ができない。

「ッ!?」

ワニのような顎の力で、漏瑚の手を、食べた。まさか自分が食べられるとは思ってもいなかったのか、反射的に漏瑚は私を放す。
そして私はやにわに悟に飛びついて、いつかの時のように、その首筋に、噛み付いた。
この時、悟は殺そうと思えば簡単に私のことを殺せたはずなんだ。でも無下限術式で抵抗すらしなかった。なんでだろうね。
その肉を食む。濃厚な待ちわびた味。柔らかく、弾力があり、口の中で踊る。脳みそに電撃が走る感じ。全身がビリビリと悦んでいて、指先まで痺れている。

「ごめんね」

悟の血でぐちゃぐちゃになった唇でキスをした。最期にこのくらいの思い出はもらっておいてもいいだろう。
すぐに悟から離れて距離をとる。脹相の隣へ移動すると、脹相は呪力を抑えていた首の縄を取ってくれた。

「まーたヘラってんのか。ようやく分かったよ、お前の術式」
「んふっ、ひひ、次は目玉ちょーだいね」

…っと、手で口を押さえる。下品下品。脳みそがハイになって感情が抑えきれない。
俄然悟は余裕そうな顔。食い破った傷も反転術式で既に治っている。
肉。肉肉肉。悟の肉。恋焦がれたあなたの肉。
もっともっと食べたいと体中が欲している。他のゴミ肉なんて必要ない。

「脹相、術式見せて」
「…赤血操術」
「赤血操術」

『白斂』『穿血』
血の矢が人間を貫きながら悟へ向かっていく。もちろん無下限術式で攻撃は当たらない。
けれど私はもう既に赤血操術を使用することが出来る。
私の術式は、呪霊操術ではない。
自分の術式を認識するのが大体4〜6歳。私もなにも例外ではない。悟に拾われてしばらく経った頃には呪力のことも、自分の術式のことも理解していた。
ではなぜ誰にも教えていないのか。呪霊操術が自分の術式だと偽っていたのか。
対象の血肉を摂取し、術式を見たら使用ができる術式。コピーとはまた違う。正しくは会得をしているから。その者の血液、または肉を得ることによって、その肉体に刻み込まれた術式を事細かに理解し、自分のものにする。
最初に会得したのはもちろん無下限術式。でも私は六眼なんて持っちゃいないからクソほども役に立たない。そして次に硝子が得意な反転術式、そして呪霊操術。傑から実際に呪霊を貰って食べたその日から、私はこの術式を偽ることに決めた。
危険だと殺されちゃ堪らないからだ。
子どもながらに呪術界のヤバさは理解していた。自分の置かれた状況も理解をしていた。だから悟よりも、信用、信頼されている夏油の術式のみを使用し、傑から指導を受けていることによって上層部の信頼も得ようとした。結局傑が呪詛師になっちゃったけど。
なんて浅ましいのだろうって?
だって私は、呪いだもの。自分の利益だけを考える、化け物だから。
そして幼い私はほぼ無意識で自分に縛りをかける。少しでも私のことを危険と思われないように。
肉を食べないというデメリットを縛りとして、呪力を制限。今まで最大出力を50%ほどに抑えていた呪力を、肉を食べた場合には最大200%出せるように。七海の時間による縛りと一緒みたいなものだ。

「五条悟。これがあんたが育てた、呪いだよ」

もう寧々子はいない。
特級呪霊とでも呼んでくれ。
悟の肉を食べたことにより激増した呪力は私の思考すら蝕んでいく。

「呪い合おう、お互いのために」

私はいつになく魂が高揚して笑っていたが、悟は氷のように冷たい表情をしている。
私は悟に殺してもらえるのかと、安堵すらしていた。