05

「しゃけ」
「…。」
「ツナマヨ」
「……。」

ここまで苦手だと思う人間は、きっとこの人が初めてだ。
呪言師だから軽はずみに言葉を喋れないとは言え、この人の言葉のレパートリーはすべて

「明太子」

くそ汚物の単語なのだ。
この同級生、狗巻棘は、多分唯一私の苦手な人間だ。

「うっぷ」

その単語を聞く度に味を想像して吐きそうになる。でもそんなわけにはいかないから、私は棘には極力近づかない。
パンダが言うには嫌われていると傷ついているらしいので、それは大変に申し訳がない。
ごめん、ちょっとトイレ。とそそくさ棘から逃げる。その度に棘は、悲しそうな声でおにぎりの具を呟くのだ。
蚊になりたい。
人間の血をちょっと吸うだけでおなかいっぱいになる、蚊になりたい。

「うげええええ!!!」

輸血パックしか飲んでないからトイレに吐き出してるのは全部血だ。はたから見たらなんかやばい病気にかかってるやつだ。
いやむしろ私のこれは病気なのだろうか。人の肉しか食べられない、クロの呪い。

「おい寧々子大丈夫か?」
「ぱ、ん……っうぷ、」
「単語聞いただけでそんななるか?」
「…う、うげえ、」

もちろん全部の単語でそうなるわけではないが、食べたことのある食べ物を言われるとその味を思い出して気持ち悪くなる。
明太子
明太子が、無理なんだーーーー。
うげうげとひとしきり胃の中のものを出した後、今度襲ってくるのは我慢ならないあの感覚。

「パンダ…、硝子呼んで…」
「呼んでったって、どこにいるかわかんねーよ」
「悟でもいい、ごめん、呼んで…、呼んで……!!!」

パンダをトイレの個室から押しのけて、ガチャンと鍵をかける。
こんな鍵、パンダにとってはあってないようなものだろうが、無理に開けるようなことは、彼は絶対にしない。
空腹だ。
腹が完全に空っぽになった時に感じる、超ド級の空腹。
腹がぐるぐる鳴って、涎がとまらなくなる。だってこの世界には人間の匂いなんてあたりそこらじゅうから漂ってくる。
がぶり、自分の腕に噛み付いて、痛みと自分の血でどうにか気を紛らわす。これ、悟と出会った時もやっちゃってた自分にとってのブレーキなのだ。
ホントに自分の肉を噛みちぎるから、すんごく痛いから、なんとか私は正気を保つ。

「寧々子」

トイレに立てこもり、どれくらい時間がたったか検討もつかない。腕の肉はすっかり抉れて、骨が丸見えになっていた。

「よく頑張ったな」

私はまるで獣になったみたいに、フーフーと荒い息を繰り返す。自分の腕から、口が離れない。

「ほら、もうやめろ」

優しく私の顎をつかんで、口を開いてゆく。ゆっくり、ゆっくり。力いっぱい噛み付いていたから、筋肉が硬直して、思うように動かない。

「あお…う…」

涙がたくさん出ていた。おなかすいてなのか、腕が痛いからなのか、自分でもよく分からない。

「あ…おう…」
「飲んで」

輸血パックを手で渡されて、管に口をつけて吸う力すら残ってなかったから、パックを手で押して喉へ流し込む。

「飲んだら、傷、治せよ」
「…ん、はあ……はひ、…」

悟の血だ。間違いなく、悟の血だ。飲んでたらとろんと気持ちよくなって、脳みそが蕩ける。
悟の姿もぼやけて、今、私、トんでるなって、すぐわかった。
ビクビク痙攣して、視界がチカチカして。薬物中毒者みたいに、すーって気持ちよくなって。
こんな姿、今まで悟には幾度となく見られてきたが、その度に自分が気持ち悪くて恥ずかしくて嫌になる。
血を飲みきる頃には空腹もやわらいで、力尽きるように、私は空になった輸血パックを地面に落とした。
疲れて頭がぼんやりするが、目の前にいる悟の姿ははっきりとわかる。
よかった、目を隠してくれていて。
恐ろしい程に美しいあの瞳に、今の汚い私なんかが映ってみろ。すぐにでも串刺しにして焼いて食べてやる。こんな汚い物が映った瞳に、価値なんてないだろ。
でも、目隠ししててもわかるよ、悟が今どんな顔をしてるか。
困った顔をしてるんだ。すこし眉毛が歪んで、最近いつも上がってる口角が怒ったみたいに下がってて。
やだな、その顔。
とまった涙の名残がポタリと頬をつたう。悟が手を伸ばしてきたと思ったら、その雫を指で掬った。
もう大丈夫だから、仕事に戻ってもいいのに。
傷も治さないまま、私はトイレで眠ってしまった。酒の飲みすぎで酔っ払った人間のように、唐突に、意識がなくなった。