「えっと、特別講師の方ですか?」
私は体育の時間に足をくじいてしまい、保健室に行っていて湿布を貰ってから音楽の授業に遅れて向かっているところだった。
そうすると、誰もいない廊下でポツンとお爺さんが立っていて、キョロキョロと辺りを見回していた。そのお爺さんは作務衣を着ていて、近々陶芸の特別授業があるから、その関係者だと思っていた。
「職員室はあちらですよ」
案内します。と手を差し伸べると、そのお爺さんはにんまりと下衆な笑顔を浮かべる。私の差し出した手をやわやわと揉み、あ、これは声をかけてはいけない人だ、と瞬時に悟った。
仮にも財閥令嬢。誘拐の危機は今までに何度かあった。
「天内理子ちゃんって、お友達かな?」
でもどうやら私を狙っているわけではないらしい、天内理子は私の同じクラスの友だちで、とりわけ仲良くしている子だった。
「案内してもらおうかな」
「!?」
思いっきり手を掴まれて、そのまま引かれ背後から押さえつけられる。首にはナイフがあてがわれていて、少しでも動くと柔らかい皮膚などすぐに裂けてしまいそうだ。
「…理子に、なにか御用ですか」
彼女の家柄のことはよく知らないが、両親は他界したと聞いている。資産家の家元ではないようだが、この学校に通うくらいなので多少の金銭的余裕のある家だろうけど。
でもなぜ、理子の名前が?
恐怖に震える体を必死で堪え、その老齢の不審者に投げかける。老いぼれの癖に妙に力が強く、両手も動かない。
「3000万。彼女を殺したら賞金が貰えるんだよ」
私もついでに殺すつもりなのか、老人は簡単に答えてくれた。
彼女に懸賞金が賭けられている。あの平凡そうな彼女に、一体何の為に?
このような連中の考えなど分からない。
「3000万ですか?」
「ああそうさ、中学生の女の子を殺して3000万。中々ウマい話だろう?」
「安いですね」
「…なに?」
「安いです。私を攫うならその3倍の値はつきますよ」
ーー財閥ってご存知ではないんですか?
恐怖を抑え込み、あくまで堂々と。父の開催するパーティーで国のトップもいるのに英語でスピーチさせられたあの時よりも、生易しい緊張だ。私は財閥令嬢。このような下衆に臆する必要はない。
「私を攫った方が賢いと思いますけどね。人を殺して3000万。わりに合いません」
「へえ、そうかい」
嬉しそうな声。こう言えば理子は助かると思ったのは、愚かな私の勘違いだった。
「たかだか小娘二人で1億2000万!これは楽しくなってきた」
このような狂った人間に、話が通用すると思った私が馬鹿だったのだ。
護身術は多少心得ている。最低限自分の身を守るためだ。だけどとてもじゃないけどこの老いぼれの手を振り解けない。でも私に9000万の価値があると分かっているのなら早々に殺したりはしないだろうと、暴れると思いっきり殴られて、私はそのまま壁に叩きつけられた。
「悪いな、ちょっと寝ててもらおう」
手を振りかぶって、もう一度殴られると、そう思って目をぎゅ、と瞑ると想像してた衝撃は訪れない。
「おお、その制服は」
恐る恐る目を開けると、老人の視線は私には向いていない。その視線を追うとそこに立っていたのは、すらりと背が高く、髪をお団子頭に結っていて、黒い、学ランのような服に身を包んだ男の人。
わけも分からなかったけれどあっという間にお爺さんを倒して、壁際で座り込んでいる私に手を差し出した。
怖かった。
この人も理子を殺しに来たのだろうか。
その手を取ることができなくて震えていると、その男の人は微笑んで、大丈夫だよ、と優しく声をかける。
信用できるだろうか、その人の手を取り、立ち上がろうとするけれど、腰が抜けていて力が入らない。
その男の人は笑って、私を引き上げてくれた。いとも簡単に私を抱きかかえて、「保健室はどこかな?」と微笑みかける。自分でもチョロいと思ったが、その、私よりも随分と大人びたその人に見蕩れてしまって、答えるのが遅くなってしまった。
「頬、腫れてきてるね。でもすまない、私はすぐに行かなくちゃいけないんだ」
保健室について、扉を開ける前に私は降ろされる。もう恐怖は和らいで、自立することができた。
その人は私の殴られた顔の頬を優しく撫でて、申し訳なさそうな顔をする。あなたがやったんじゃないんだから、気にしなくてもいいのに。あなたがいなかったら、私はどうなっていたか分からなかったのに。
「あ、の、」
「ん?」
「あ、ありがとうございます…」
「どういたしまして」
優しい表情、優しい声、優しい仕草。殺人鬼から私を助けてくれた救世主。
多感な中学生が恋に落ちるのには十分すぎて、けれどもあまりの出来事に夢を見ているみたいだった。
しばらく顔の傷は残っていたけれど、今ではすっかり消えている。あの出来事を証明するのは、恐らく殴られた時に外れてしまったのだろう片耳だけ残ったピアスと、私の朧気な記憶だけ。
会うことはもう二度とないと分かっていながらも、中学生の私の心を簡単に攫っていった名前も分からないその人のことを、未だに私は好きでいる。夢のような記憶の中の、その人を。
そんな遠い記憶を思い出しながら、お互い体を抱きしめ合うように私と繋がった夏油のハーフアップのお団子頭を、喘ぐことも忘れてボーッと眺めていた。反応のなさに不満だったのか私の首を吸っていた顔が起き上がり、私の背中に回っていた手が私の頬を撫でた。撫でるのはいつもあの日殴られた左頬。あの日のヒーローと同じように、優しく優しく、撫でていく。
「あッ、んんッ!」
「ここ、好きだよね」
反応がないのがよっぽど嫌だったのか私が弱いところばかり責めてきて、だらしない声がとまらない。
こんな、人殺しと何度も体を重ねているなんて、人殺しから助けてくれた思い出のヒーローには知られたくなくて、見られたくなくて、美化された思い出に自然と涙が流れていく。
その涙を飲むように夏油は舌で掬いとって、満足そうに笑った。
「お願い、もっと乱暴にして…」
懇願する。
あなたが微笑むと、あの顔を思い出すから。
あなたに囁かれると、あの声を思い出すから。
あなたに頬を撫でられると、あの熱を思い出すから。
あなたに優しくされると、あのヒーローは、あなたの事だなんて、そんな都合のいい妄想をしてしまうから。
夏油は私の乱れた髪を引っ張って、繋がったものを一度引き抜くと私のことを壁に押し付けて、背後からソレをあてがう。手網のように私の髪は強く引かれて、痛みとともに、ブチ、と嫌な音がなった。
「これでいいかい」
背筋が凍るくらい、冷たい声。
私は必死でうんうんと頷いて、優しくもなんともないソレを受け入れた。
それでいい。これでいい。
やっとあのヒーローと夏油がかけ離れた。
彼に特別な感情などあるわけがない。そこにあるのはただひたすらに純粋な、殺意だけなのだから。
けれど、乱暴を履き違えたのか、突然壁についていた左手を腕ごと引かれ上半身を無理やり後ろへ向けられる。怖い表情をした夏油と目が合って、どうしたんだと考えている間に、唇が、重なった。
唇を噛み、舌を噛み、唾液を搾り取るような中々に痛い口付けだったけど、私のソコがきゅうと収縮しているのが分かった。
甘い声が夏油の口の中へ漏れてゆき、同じように夏油の熱い吐息が私の口内へ解けてゆく。
そのまま、上も下も繋がったまま、私たちはほとんど同時に果てた。
「んッ、はあ…、…っん」
荒い呼吸を繰り返して、息が整うのを待つ前にもう一度夏油にキスをされる。今度は舌も入れないような可愛いキス。少しだけ唾液で湿った唇を吸われて、すぐに離れていく。
何事か。今まで幾度となく体は重ねてきたものの、キスだけはお互いに避けていた。私もする気にはならなかったし、夏油も恐らく猿の唾液なんて摂取したくないのだろうとそんな風に思っていた。
言葉は交わさず、ただじっと見つめ合って、どうしても引き寄せられてしまって、また唇を重ね合う。
もうこの人の事をどう思えばいいのかも分からない。
殺したい気持ちだってもちろんある。
でも夏油を思うと切ない気持ちになる自分もいる。
あまりにもちぐはぐで、気持ちが悪くて、落ち着かない。
「…変な前髪」
ようやく出た言葉がこれだった。
夏油は細いツリ目を丸くさせて、少し不服そうに顔を歪めたが、私はまるで愛おしいものを触るかのように、その少し乱れた前髪を撫でた。
夏油は一体私のことをどうしたいんだろう。
前髪に触れた手は呆気なく夏油にとられて、またキスをして、嬉しいも悲しいもなかったけれど、また涙が一粒、頬をつたった。