風邪をひく
風邪を引いたらしい。
その一言で駆り出され船に乗ってタクシーに乗って電車に乗ってとまるで長い旅をするかのごとく乗り継ぎに乗り継ぎを繰り返してようやく辿り着いたマンションの下から上を眺めては思わず間抜けに口を開いてしまう。
そんな表情を相手に見られてしまえば「相変わらず間抜け面してますね」といわれることは想像しやすく(なんなら頭の中で表情まで浮かぶほど鮮明で)思わず頭をブンブンと濡れた犬が水を弾くように頭を振っては手に持ったコンビニ袋を片手に自動ドアをくぐり抜けるのだった。
うるさい…うるさくてたまらない…なんだって人がこんなにもしんどい時にと鳴り響く呼び出し音に苛立ちと疲れを混ぜながらどうにか身体を起こして番号を入力しては「入れ」と一言を告げてもう一度ベッドに潜り込む、全く風邪ってやつはこんなにも強いのか…
自動ドアは簡単にくぐれたもののその後のエレベーターが関門であった、なんとキーカードが必要であり、来客の場合はチャイムを鳴らして相手に鍵を解除して貰わなければならないのだという。
非常階段はあるものの使う事は禁じられており、慌てふためく女を見た入口の警備員の不信感のある表情に思わず萎縮しつつも呼び出し音を鳴らしてみるが相手を知れば絶対に開けないだろうにと半分泣きそうになっていたものの低い声で聞こえた一言と同時に開いたエレベーターに相当だと内心焦りを覚えつつ開いたエレベーターに飛び乗るのだった。
「お邪魔しま〜す」
エレベーターから降りてすぐに目当ての部屋にいけばエレベーターと連動しているのかドアのロックは解除されており、ゆっくりと静かに入室する時、彼女はまるで自分がスパイのような気分であった。
数回来たことのある部屋は相変わらず整理整頓されたモデルルームのようで、少し悪い物言いをするも面白みはないがこの組織の人間らしいとも感じられた。
1LDKのホテルのような部屋のリビングを眺めるとオープンタイプのキッチンには乱雑にされた食べさしやゴミが散らかっており、雰囲気だけだと思っていた部屋はよくみると衣類も散らかり、今まで来た中では一番汚く彼女はゆっくりと隣の寝室を覗けばカーテンが閉まり薄暗くこんもりと山のような寝姿であろうものがみえてはこっそりと足音を決して動き出すのだった。
「…ン?」
ふと気付いたのは心地よい出汁の香りだった。
自分一人の部屋では有り得ない香りで倦怠感が強く残る身体で起き上がった彼は聞こえる足音や生活音にベッドから抜け出してリビングを覗けばそこには見知った人物がいた。
「なんで、ここに?」
「起きましたか?フロントマンさんから貴方の様子を見てこいって言われたんです」
「…だからって」
彼は自身が体調不良により数日休みを貰う旨を伝えた際に、誰か適当に人を寄越すとはいわれたもののそれがこの女であるなど思いもよらなかった…否、少し考えればわかった事だがそこまで頭が動かないほど重症であった。
持参したらしい花柄のエプロンを身にまとった女は「うどん炊いてるので食べますか?」と声を掛けるため、朝から何も食べていなかった彼はそれを無下にする気は起きずに小さく頷いてはリビングのソファに腰掛ければ小さな音でテレビをつけられ優しくブランケットを掛けられ額に手を当てられ思わず抵抗しようとするもその冷たい心地好い手はすぐに離れた。
「まだ熱が高そうですね、お医者さん行きました?」
「えぇ薬ももらってます」
そうでなければ休みなど貰えるわけもないのだとは思いつつも口には出てこずに飲み込まれる、触れることも家にいることにも何かを言う訳でもない彼のように相当だと思いつつ味見をしては大丈夫だと判断する彼女は備え付けの食器棚を開けては器がないどころか、その他食器類が何も無いことに絶句しつつ鍋敷きもない状況に天を仰ぎつつ手折るを敷いて彼の前にうどんを鍋ごと出してやった。
「鍋ごとって」
「自分に文句言ってくださいよ、材料もなかったし鍋があるだけ助かりました」
「…花形人参」
「かわいいでしょう?」
呆れる…といいたげな視線を投げられた彼女だが看護にきてやったのだからと今日は強気な態度に彼も幾分かの反省を感じては普段とは違い静かに鍋に箸をつけていく。
その間にも彼女は忙しなく働いて洗濯物にアイロン掛けをしてベッドシーツを交換し整え直して、窓を開けて換気しており手馴れた姿を横目に空になった鍋をシンクに持っていこうとするもその手の中のものは奪われてしまう。
「これはしておきます、汗だくでしょうから熱計って着替えてください」
「なっ、押さなくてもっ、ったく病人ですよ」
「だから労わっているんです」
全くもうと呆れたような彼女に反論が出来ない彼は渡された体温計で熱を計っては相変わらずの8度7分という数値を眺めていれば横に来た彼女に覗き込まれると同時に着替えと共に寝室に投げ込まれてしまう。
熱なんていつぶりだかと彼は思いつつも渡されたパジャマに着替えつつ、こうして大人になって誰かに何かをされるというのも不思議だと感じた。
「汗拭きましょうか?」
「それくらい自分で出来ます、シタければどうぞ」
「なっ!軽口叩けるなら知りませんからね」
心配そうに覗き込んだ彼女にからかうように告げれば普段通りの反応が見られて彼は楽しそうにするものの、それでもやはりいつもとははるかに違う反応に困惑さえ覚えてしまう。
普段の彼であれば家に来られることも、こうして世話を焼かれることも簡単にはさせず、反対にチクチクと針を刺すような態度をしてくるのが当たり前だった。
「着替えは洗濯しときますから横になっててくださいね」
とにかく寝て早く回復してもらわなければこちらも困るのだという彼女もいつの間にか立派な運営者の一人のようであり、彼はベッドに横になっては肩までしっかりと布団を被せられつつ着替えを持っていく彼女の背中を見つめた。
人に騙され債務者となったことからして人がいいタイプでそれを彼は馬鹿らしい女だと思っていたものの嫌いではなかった、会う度にからかうといい反応を示す彼女がおもちゃのようで面白いと感じていたが今日に限っては彼女の本来の人のいい性格や世話焼きな部分が彼の胸の奥底の柔らかい部分に触れた。
ふと目を覚ませばなにかに抱きしめられていると気付き彼は思わず目を丸くして驚くものの視線を向けた先には見覚えのある女がいて、彼女は間抜けな顔をして眠りについていた。
枕元にある時計を見れば時刻は夕方になっており、外は昼と夜の境目を混ぜた幻想的な色をしており通常であれば仕事時間であるというのにゆっくりとしており、寝る前よりもずっと体調が良くなっていたことに彼は隣の女を見つめては思わずその鼻をつまむと次第に眉間にシワがより気難しい表情の末に顔が赤くなり口が開き薄く目も開いた。
「ふぁひしてふんでふか」
「間抜けな顔を見てるんですよ、病人のベッドに入ってくるなんて中々ですね」
「ッなにいってるんですか、あなたが一緒に寝ろって言ったのに」
そういわれては思わず「は?」というものの彼女はふと時計を見ては慌てて起き上がり洗濯物が終わったことを確認しに行ってしまうが彼は何一つ覚えてないぞ?と思い返すものの、真剣に考えればその聡明な脳はきっちりと動き出して確かに熱でおかしくなった頭で彼女に告げていたような…と思い出す。
『…どうしました?』
部屋を出ていこうとする彼女の背中をみつめていればその視線に気付かれ問い掛けられてしまった時、少しだけ肌寂しく熱が出ているが身体は冷えていて堪らなかったのだ。
『一緒に寝てくれ』
まるで子供のようにそういったことを思い出す彼はベッドの上で起き上がり頭を抱えた、日頃の態度からでは考えられない行動であり恥でしかないと自分を攻めたてるが相手は気にした様子もなく慣れたように乾燥まで終えた洗濯物を片付けようとするため思わず起き上がり洗濯物を奪う。
「もう治りましたから帰って結構です、というか人の下着までとは相変わらずな人ですね」
「なッ!病人だからしてあげただけです、別に変なこと言わないでください!」
「図星のように慌てますね、案外本当なようで」
「ちっ違いますから!」
全くなんて人なんですかと怒る彼女にいつも通りの満足感を感じる彼は楽しそうに笑ったものの、彼女はふと思い立ったように彼に駆け寄ってはその額に手を当てて数時間前とは打って代わり平均体温になっていることに安堵しては小さく微笑むものの、そうした姿に彼は胸がチクリと刺されたように感じては思わず彼女の鼻先を摘んでしまう。
「用事が終わったら帰ってください」
「洗濯物はこのままにしておきますけど、お風呂場の掃除と夕飯だけ用意して帰ります、まだ横になってていいですよ」
「はぁ…結局居座り続けるのか、泊まっていくつもりで?」
「そんなことは…あぁでもフロントマンさんに明日までならゆっくり見てやってていいって言われてますから、よかったいましょうか」
その方が熱がぶり返して安心でしょうと笑う彼女に危機感というものを知らないのだろうかと若干呆れてしまう、人がいいのも困りものだと部屋の仲を駆け回る彼女の手首を掴めば彼を見上げ小首を傾げる時、唇を奪いあっという間に舌を絡めてその口付けを堪能した。
そのうちに彼女の手が彼の胸を叩き目頭に涙を溜めていることに気付いて話してやれば肩で大きく息をして、必死に呼吸を整えている姿を眺める彼は笑う。
「ええ朝までいてもらいましょうかね、まだ治ってないみたいですし」
本当は他人の名残が残った一人の部屋が嫌だと言う気持ちを彼は認めなかった、しかしながら薄らとそれを察する彼女は彼を見ては呆れた様に早く治して安心させてくれと呟いて彼の手から逃れて洗濯カゴを元の場所に戻しに行ってしまう頃、水で飲もうと冷蔵庫を開ければそこには丁寧にうさぎの様な形で切られたリンゴがラップをして置かれていた為、思わず彼は鼻で笑って、本当にこちら側に向いてない女だと感じたもののそれでも悪くないと思うのだった。