9.あいつは誰だ



それからも試合は好調だった
女子ボクシングの試合こそなかなか取りにくく、それに向けてのスパー相手なんてみつけるのは以ての外、毎回毎回ぶっつけ本番で戦うしかない
けれど鴨川ジムにいてわかる、自身がどれだけ苛酷なトレーニングをして、周りがどれだけレベルが高いのかということが、毎度スパーの相手として板垣を主に木村や青木に稽古してもらうが勝てるわけが無い、おまけに最初こそ遠慮していたがもう扱いは男と変わらず毎度リングに寝かされてしまうのだ
自分に自慢できるのはスタミナ程度だと思い知らされてしまう

「まぁでもボクサーはスタミナが基本だからな、その基本が出来てるのはえらいじゃねぇか」

鷹村さんってどうしてこう…優しいんだろうか、その優しさについつい甘えてしまい毎度擦り寄ってしまうのだ
尊敬だなんて綺麗事を言っていても本当は汚い下心が混ざっている、気付かれたいような気付かれたくないようなこの恋心はなんとも言えないでいた

6度目の試合はなかなかに手こずった、これに勝てばB級に昇格というのもあったが
何せ相手は元フェザー級だった、パンチの重さがやはり違う、2回もダウンを貰ってしまいおまけにアウトボクサーの為中々に追いかけるのも大変だった
足が使えるというのはやはり大事なことなのだと改めて実感してしまう、気付けば鴨川ジムに来て1年半が立とうとしていた、時間というのは早いがそれと同時にボクシングがここまで楽しいとも思わなかった
最後の最後に相手のカウンターとこちらのパンチが同時打ちになったが何とか立ち上がれたのが幸いだった
おかげで会長にはこっぴどく叱られてしまった

「あの…馬上選手ですか?」
「はい」
「サインもらえませんか」

着替えを終えて帰ろうと思った時だった外に出れば1人の青年がたっており色紙とペンが手渡される、思わず目を丸くしてからサインとはどうかけばいちのだろうか…と悩みながら自分の名前を書いてついで馬のしっぽも書いてみた

「名前とか書きましょうか?」
「あっはい、モブ田モブ男で」
「はいわか…え、モブ田くん?」
「え、あっ、覚えてる?」
「そりゃあ覚えてるよ、私をボクシングの世界に連れて行ってくれた人だもの」

ふと顔をあげれば確かに中学時代に鷹村さんの試合を誘ってくれた子だった、思わず思い出して彼の手を握ってブンブンと強く振り回してしまう
いやはやなんとも嬉しものだった、彼のおかげで世界が広がり今じゃプロボクサーなのだから有難いことだった
サービスにと名前の横にたくさん星とかハートを散らしたがもしかしてこんなのじゃない方が良かったかもしれないと冷静になってしまう

「ごめんね…サイン初めてだから嬉しくて」
「いやすごく嬉しいよ、馬上さんらしいし」
「ほんと?」
「こことか、馬のしっぽみたいだし」
「そうそう!私昔から馬と関わりがあったからつい」


えらく遅い、せっかくB級昇格戦なんて言うガキの遊びを見に来たというのにたづなは未だに来ないと鷹村は苛立ちを感じていた
その不機嫌に振り回される後輩達は冷や汗をかいていた…がさらに衝撃の展開があった、また鷹村にはみえていないのだろうがたづなが1人の男性を手に取って酷く嬉しそうな顔をしていたのだ

「あれってたづなじゃ」

そんなことを気にせずに呟いた青木の足を全員が踏んだが時すでに遅し、鷹村はその2人を見るやいな大股で足を進める
慌てて止めようとするがその体はまるで闘牛のように止まる気配はなかった

「おい、たづな何時までまたせやがる」
「鷹村さん、ごめんなさい」
「誰だ?お前の男か?」

鷹村の不機嫌度はマックスだった、嫌味をいったつもりだがたづなには届かないようで柔らかく違いますよと否定したが明らかに男の顔は残念そうだった
だがしかし鷹村をみて彼も目を輝かせた

「た、鷹村選手ファンです握手してください」
「俺様は機嫌が悪ぃんだよ、男なんかとするか気持ちわりぃ」
「モブ田くんが私に鷹村さん教えてくれた子なんですよ」
「仕方ねぇな」

突如現れたプロボクサー集団に思わず彼は目を輝かせたが鷹村は彼の持つ色紙を奪った、そこには馬上たづなと記載されて落書きまでされている、到底サインには見えなかったが多分そういうことなのだろう

「お前俺様のサインほしいか?」
「いいんですか!」
「おう、ペン貸しな」

嬉しそうに差し出した彼から奪って、たづなのサインの上に重ねるようにサインを描いた、思わず目を丸くすれば最初にサインを書いた本人が口を大きく開けて鷹村をみていた

「私の初めてのサインをめちゃくちゃにしないでくださいよ!酷いです!」
「っせぇな、あんなガキの落書き可哀想だから書き直したんだろうが」
「だったら別の場所に書いたらいいじゃありませんか、意地悪なんですから」

ギャイギャイと子犬と熊の喧嘩が始まったが終わる気配はなかった、結局軽く挨拶をしていってしまう元同級生の背中に寂しさを覚えつつたづなはジムの仲間たちに向き直って改めてB級合格について祝われたのだった。



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