洛熙は密かに周囲が彼女を──陛下の寵を受ける者──として噂話されることは知っていた。洛熙自身あそこまでされてしまえばその言葉に対して少なからず同意しなくもない。
けれど決して自分の身分だけは忘れてはならないと毎日言い聞かせた。自分が特別であると思うことは彼の本当の愛を受ける妃達に失礼であり、洛熙は自分の身分はただの平民であり、偶然読み書きが他の者よりもほんの僅かに長けていただけ。勘違いをするなかれと言われてきた言葉を思い出した。

「好(ハオ)」

その一言だけで洛熙の心は泡に包まれて浮いてしまいそうになる。

「そなたの声は本当に素晴らしい」

声を褒められる度に自分が特別であるかのように勘違いをしてしまいそうになる。
そんなことを思ってはならない。勘違いしてはならない。
そう言い聞かせながらも隠しきれない感情が表情に出てしまうと始皇帝はいつも子供を愛でるように頭を撫でて微笑んだ、洛熙はそれがとても嬉しく、そして心地よいと思い毎日努力を惜しまぬように学び続けた。

「それって恋みたい」
「そっそんなわけないよ」

洛熙は宮殿内の書庫は何処でも出入りすることを許された。
その為、後宮の書庫にも出入りしており、時折仲の良かった宮女と顔を合わせると隠れて雑談をしたりした。
良家の出である友人の彼女に告げられた一言に洛熙は目を丸くして否定した。話の内容はもっぱら宮廷内の話であり、近頃の後宮の様子もあるが友人はそれ以上に洛熙と皇帝に興味を持っていた。

「でも褒められると嬉しいんでしょ?」
「そりゃあ陛下からだもん」
「頭撫でて貰うと嬉しいんでしょ?」
「それも陛下だからだよ」
「陛下と居るとドキドキするんでしょ?」
「そっそんなの当たり前だよ、緊張だもん」

皇帝に膝を貸して音読するなど、どんな人間だって心臓が早くなるはずだと告げる洛熙に対して友人はニヤニヤと笑う。恋のお話はいつだって彼女たちをときめかせて夢を見させてくれるものである。
特に宮女の中でも下っ端の者たちは洛熙とは普通に接していたし、ある意味彼女は夢物語のひとつのようであるのだが、本人は決してそれを認めないが話す口振りは恋をした女子のものだった。

「じゃあさ嫉妬とかしないの?」
「嫉妬って誰に」
「そりゃあお妃様たちによ」
「そんなの……」

そんなのするわけない……と洛熙が呟いた声はきっと弱々しかったかもしれなかった。
時刻は既に子の刻を過ぎて日付が変わっていた。
始皇帝は毎夜決まった時刻に寝所に現れるため、洛熙はそれに向けて用意をするが、今日は先に宦官より「陛下はお勤めの為、遅くなられます」といわれ、彼女はそれの意味を理解しており、短い返事を返しては側殿の傍にある自分の部屋の戸を開けて筆を動かしていた。

読むことだけではなく、書くこともしなければならない、宮殿内は宝の山のように七国の書物はもちろん、異国の書物も存在する。洛熙の師は並の文官ではなかったのだと知ったのは宮仕えの試験を受けた際だった。
読み書きについては男性を抜いても一番の成績であり、面談の際には平民の出でありながら何故なのかと理由を聞かれては素直に伝えた。
どれだけ優秀だとしても家柄があるからと宮女になり、なけなしに後宮の使われない書庫の担当となった時は素直にありがたかった。誰もここの書物を読まないのかと驚いてしまい、洛熙は一生分に感じる紙に囲まれては毎日深く深呼吸をして悦に浸った。

「何を考えているんだ」
「嬴政様!すっすみません、いつお戻りに?」
「今だ、遅くなったがよいな」

勿論だと洛熙は告げて立ち上がると戻ってきた彼の背に書物を片手について行き、正寝殿である寝所に入ると普段通りに彼の後に続いて薄い帳の中の寝台へと上がる。
足を伸ばそうとするが始皇帝は「横でよい」といった。
あの日、洛熙が襲われて二人で横になり朝を共にして以降、疲れている彼はこのように横になり、ただ眠ることを望んだ。手触りのよい人肌のある枕のようなものだからだと洛熙は言い聞かせて隣になると始皇帝の腕が回されて抱き締められる。

彼の衣に甘い香が匂った。
この時間だけでも分かっていた、頻度は高くないが週に数回そのような香りがするのを知っている、それはどれも異なる香りだが決して男性にはしない香り、しかし身の回りの世話をする女官や宮女の香りとも違う。
言わばそれは"女'の香りといえるのだろうか。
王である以上それも職務だと理解している。洛熙は自分を抱きしめる彼が深く眠るのを眺めては目布を外した素顔を見つめた。

──この素顔をお妃様達にも見せるのだろうか。

洛熙は考えてしまう。
皇后はおらずとも数多の妃嬪はいる。
秦王として、それこそ洛熙の年頃には子を持っていた可能性は高い。
皇太子や公主は幾人もいるがほとんどその存在は秘匿されており、始皇帝には跡継ぎがいないと噂されている程だった。実際に彼は洛熙が知る"親"という存在には違うものを感じるのは、彼が王であるからだろう。

後宮にいた頃、妃嬪達の世話をした、それが洛熙たちの仕事でもあるからだ。
美しい女性しかおられず、自分を見比べると同じ世界に生きる同じ性別の人間なのかと怪しんでしまうほどに何百人といるのに美しい方々ばかりだった。

物語において恋や愛というものは様々だった。
けれど多くは幸せな話ばかりで美しい物語には洛熙はいつも胸を打ち、そんな恋愛が出来れば素晴らしいと思った。
そうでなくても両親のように歳をとっても互いを尊敬し合える人であればどれだけ素晴らしいのかとも思う。

愛とは何かと彼女は問う。
妃嬪達はいつだって皇帝からの愛を求めるが、それは真実の愛なのだろうか洛熙には分からなかった。韓から来た公主は宮女であった。理由は容姿が平凡であり読み書きは出来ずその他に何も出来ないからだと周囲は言っていた。
洛熙は彼女はとても愛らしい人だと思っていたが、元公主なだけに少しだけ我儘も強いところは難があった。しかし仲良くなった洛熙に対して「夢見すぎよ」と鼻で笑ったことがある。

皇帝と妃に愛などない──という言葉に洛熙は理解出来なかったが、妃嬪となる女性はほとんどが王に捧げられた貢ぎ物でしかない。美しいのは当然で、その王との間に皇太子を持てるかどうかで人生は変わる。
大抵が皇太子を初めて産んだ者を皇后としており、皇后となれば将来安泰、愛がなくとも未来はあり。それとは別に王からの特別な愛を受ける者が皇太子を産んだとなればそれは人生の逆転だともいえる。

結局は利益のためにしか国はない。
本当に愛し合えるのは責任がないからだと言われた時、洛熙には愛がわからなくなった。
幼いからなのかもしれない。恋という恋をしたことは無かった。村に年上の男の子がいて、その人に対して恋をしたと思っていたが意地悪をされたことにより瞬間に苦手になってしまい恋じゃなかったんだと思った。

恋とは、愛とは。

「なんなのでしょうか」

深い眠りに落ちてしまう始皇帝をみつめる洛熙は呟いた。
これはただ彼が皇帝だからなのだと洛熙は言い聞かせていても、彼に似合わない香りがするだけで、胸が締め付けられるようであった。

◇◆◇

そんな不思議な日々を過ごす中、洛熙はその日もまた宦官から「陛下より言伝でございます、今宵は遅くなるため休め。と」その言葉に洛熙は短い返事をした。
そういう日だってある。洛熙も毎日膝枕をしていれば足が痺れてしまうため、そういう日があるのは素直にありがたくもあり、ゆっくりと書物を読んだりすることも出来ると思えた。

いつも通りの時間に始皇帝の頭を膝に乗せることもなければ寝所に行くこともない洛熙は自分の寝台に横たわっていた。
眠ろうと思うのに眠れない。
こういう日は眠くなるまで勉強でもしようと思ったが文机の上の書物は始皇帝用に読むためのものばかりで、既に洛熙は何度も声に出して読み直ししていたものだった。

夜更けの宮殿には人が少ない。
警備のための兵ばかりで宮仕えの女性たちも見かけない。
洛熙は読みたい本は後宮の書庫だったなと思いながら回廊を歩き、辿り着いた書庫で書物を漁った。読み慣れない異国語の書物は翻訳文書もいると思い関連する紙を手にして中身を見てはこれで間違いないとして洛熙は書庫の灯りを消した。

静かに冷えた夜の回廊、誰もいないかのように感じる頃、前から宦官の一人が歩いて来たことに洛熙は会釈すると人当たりの良い宦官が話しかけた。

「陛下はあちら側をご利用しておりますよ」

後宮の書庫は妃嬪たちの為のものでもある故、仕方の無いことだったが洛熙は"陛下"という単語に肩を揺らした。洛熙を不要と言った夜に後宮にいるという意味が分からない訳でもない彼女は「そうですか」といって、また会釈していわれた場所と反対の回廊を歩いて戻ろうとした。

「ううっ……」

静まり返ったその回廊で声が聞こえた気がした。
何処か苦しそうなくぐもった声に感じられて、洛熙は後宮であるからして妃嬪の一人が苦しんでいるのかと思い、その人の良さから足が進んで声のする部屋の傍に辿り着くなり戸が薄く開いていた。

その部屋の寝台には見慣れた背中があった。

何度も見てきたその背中は男の鍛え抜かれたもの。
幾千もの戦を乗り越えた戦士の背中。
洛熙が泣いて抱きしめた際に触れたことのある背中。

「陛下っ……あぁ……」

艶のある声と美しい細い足。
その開いた戸の奥、寝台の薄い帳の中で始皇帝は女性の裸体に触れていた。腰に手を添えて繋がっていた。
洛熙は思わず口元に手を添えてしまう、当たり前のことをしているだけなのに驚いてしまった。

「陛下……はぁん、陛下……」

自分と比べ物にならないほどに美しい女性は起き上がり、始皇帝の膝の上に乗っては二人は抱き締めて唇を重ねた。そして女の白魚のような指先が彼の目布に伸びる頃、洛熙は思わず逃げ出した。
何も考えたくないというように足音を殺して早足で進めたのに、気付けば走って自分の部屋に戻っていた。ここが自分の部屋と言っていいのだろうかと洛熙は考えて瞼を閉じると、そこには先程の映像が流れた。

「……嬴政様」

じわりと何かが滲む。
涙ではなかった、下腹部が熱く感じられて、洛熙は思わず衣の内に手を入れて赤いものが付くかと想像していたのに、透明な粘着質なものが指に触れた。

「……うぅ」

分からなかった。
どうしようもなく胸の内が苦しくなり締め付けられる。
だというのに瞼の奥には先程の映像が流れた。
その映像にはあの美しい妃嬪ではなく、自分自身がいた、 どうしようもない下腹部の熱をどうしていいのかも分からない洛熙は寝台に身体を丸めて瞼を閉じた。これは病の一種なのだ、悪い夢を見ているのだと言い聞かせても女の声は消えない。

『洛熙』

それと同じくらいに始皇帝が自分を呼ぶ声が呼び起こされ、洛熙は微かに涙が零れてしまう。
恋とは……愛とは……なにかとわからぬままに。

◇◆◇

不満が背中に痛いほど伝わる。
朝までいて欲しいと願う女の視線を受けても始皇帝は笑みを浮かべて「よい時間だった」と声を掛けて帯を締めては、今日の職務は長かったと内心思ってしまう。
貢ぎ物として数多の妃が送られてくるが、その相手をするのは昔から好まなかった。王である以上の勤めは果たさねばならないが年齢もあり、これ以上世継ぎも要らないだろうと思うものの、それが職務であると言われれば勤めは果たさなければならない。

──こんな時間のために、あの憩いの時間が費やされるのか

始皇帝は洛熙を思い浮かべるが、決して他の女に触れている時には思い出さない──というよりも思い浮かべられなかった。
あの物語を語る声が女の声に塗り替えられることをまだ想像つかない。それを無理やり知りたいとも思わない。

「陛下……」

背後から抱きしめられて腹に手を回される。
細い腕も柔らかい身体も実に堪能させてもらったが始皇帝は優しくその腕を外した。

「今宵はここまでだ、そなたもよい勤めであった、褒めて遣わす」

あの娘以外特別はいない。
あの娘も下世話な肩書きに載せたくない。
腕を解いて戸を開くと外は夜闇に包まれており、回廊の灯りが揺れていた。
しかしふと視線の先に落ちた一枚の紙になにかと思えば、書物のページが落ちたようであった。何故ここに……と思った時、始皇帝は微かな考えを浮かべて自身の部屋へと戻った。

静かに足取りを早く向かい起こさぬように足音を殺して戻り、側殿の隣の小さな部屋の戸を開くと乱雑に置かれた書物と文書があり、始皇帝は手を取ると自分の手の中の紙と比べる。

「……不好(ブーハオ)」

それしか言葉は出ずに、狭い部屋の中の寝台の中で丸くなって眠る洛熙をみると少しだけ目頭が濡れていた。そして乱れた服装の隙間からは白い手足が伸びている。
もう一度彼は"不好"と心の中で呟いて、知らぬフリをして自身の広い寝台へと横たわった。
どれだけ綺麗事を並べ立てても、もし許されるのならば、きっとあの娘をどんな女よりも強く愛しただろうと考えては呆れたような乾いた笑い声があふれる。
身に染み着いた彼の王としてのそれが許しはしないと思いつつも瞼を閉じた。
今宵の女もまた洛熙の顔を思い浮かべていたなど誰も知ることはない。知られてはならないのだと彼は自分に言い聞かせて瞼を閉じた、静かな寂しい夜だった。


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