穏やかな日差しの午後、洛熙は庭園にて始皇帝の頭を膝に預かり、書物を読んでいた。
二人だけの静かなその空間で聞こえる洛熙の声は花が咲くような声であり、耳を澄ませていると心地よかった。意識が遠く夢の狭間に落とされてしまいそうになり、いつものように頭を撫でられると始皇帝は宮中でこんなにも穏やかな時間を味わえるとは思わずにはいられない。

洛熙の膝に頭を貸すと温もりと安心感がある。
声は勿論だが音読に慣れた彼女の間の取り方や読み方はそれだけで物語に没入できる。
動く唇は小さな赤い花のようで紅をささずとも血色がよく、微かに覗く舌の動きなどを盗み見てしまう。
頭を撫でるその手つきは幼子を愛でてきたような手つきで優しく心地よく、余計に現実から引き離されてしまいそうになる。

この時間が続けばいいと思いながらもそれは時間が許さなかった──否、時間だけではない。全てが二人を許すことはないのだ。それがまるで天命であるかのように。

それは突然のことであった。

──妃嬪の一人の懐妊。

実に久方ぶりのことであり、皇帝の子がまた世に生まれ落ちるということで宮廷内は既にざわめいていた。
後宮内は既にその妃嬪を祝うように華やいで、侍女たちは紅の衣を取り出し、宦官たちは忙しく走り回る。祝いの品が準備され、宴の話まで持ち上がり始めていた。

そしてその話は当然──洛熙の耳にも自然と入ってくる。
誰もいない書庫で彼女は一人、書物を片手に文字を読んでいるのに目が滑るようで、何も頭には入ってこない。
目に留まる文字は子、親、王、という文字のみ。
文字はいま一つの漢字にまとめられようとしているが、七国もあるが故に使われていた文字は違った。だからこそ洛熙の目に留まる同じ文字は全て形が違う、まるで人のようだと思ってしまう。

同じ人なのに全員が異なる姿形をしているのだ。

洛熙は子という文字を撫でながらそれはどんな感覚なのだろうかと思った。
両親は自分を懐妊した際には宴を開いたといい、村の人間が懐妊や出産した際には盛大に祝った。
だからこそ、それはとてもめでたい事であると理解しているはずなのに、洛熙はどうしてか喜べないような、反対に気分が少しだけ沈むように感じた。

普通の子ではない──皇帝の子、つまりは始皇帝またの名を嬴政の子であるのだ。
毎夜彼女が膝を捧げる王の血の繋がった存在はこの世で何よりも尊いもの。例えそれが一人二人でないとしても、どれもみな皇帝の血を引いた以上は特別な神の子のようなものだ。

「はぁ……」

ため息が出てしまう。
こんなにも宮廷内は幸せに満ちているのに喜べない自分が心底嫌になってしまいそうになる。
洛熙とて何も知らぬ娘ではない。人が子を宿すにはどうすればいいのか理解している。書物のように竹を切れば赤子がいたり、赤子を望んだ妃が髪を犠牲にして赤子を授かったり、二人の男女が手を取り合い祈れば授かる。
そんなものではない、あれは子供騙しや、神々にだけ適応されるもので、洛熙も始皇帝も人である。

天命を受けた王──それならもしかすると、と考えては洛熙は有り得ないと現実逃避のような考えを捨てる。
見たでは無いが、あの方が女性に触れる姿を、愛し合う姿を、夢にも何度も思い浮かべては身体に火が灯るように感じられるほど情熱的だと思った洛熙は自己嫌悪に駆られた。
人のことをそんな風にみてばならない。
それはとても浅ましく、下品で、醜いことだ。

──聞いた?あの若いお妃様、ご懐妊ですって
──ご懐妊だなんてしばらく忙しくなるわね
──でもよかったわ、洛熙とかいう宮女の娘が陛下のところを出入りし始めて後宮はずっと空気悪かったもの
──本当よね、女の嫉妬ってのは怖いわ

奥の回廊から声が聞こえた。書庫は外の声が案外聞こえてくるものだ。それどころか静かで天井の高い書庫はその声を響かせるようであり、洛熙は胸の内で響くように感じられた。
自分を毛嫌い者も、噂話をする者も、決して彼女は何も思わないようにと務めている。いわれて当然、反対に自分が彼女達の立場なら「どうしてあの子が?」と純粋な疑問が浮かぶだろう。
座っていた彼女は薄い腹を撫でた。
男も知らない自分は子というものが分からない、男を受け入れ愛し合った末に出来ると知っている。

「陛下は……」

愛されたのだろうか。
当たり前のことを口にしそうになっては書物を閉じた。
そろそろ昼時だ、ここでじっとしてはならないと洛熙は書物を手にその場を出て、いつも通りに回廊を歩き、日課のように庭園にて待っていた。
庭園の蓮はいつも美しく咲き誇っており、花の香りが微かに香る。回廊を忙しなく行き来する官吏や女官たちをみていれば洛熙はまるで世界から自分が浮いたように感じてしまう。

もう随分と前に感じるようにもなったが、以前自身の命を狙われた際のことを思い出す。
皇帝がいなければ自分には価値がなく、ただの平民でしかないということを。
そう思う頃、足音が聞こえ洛熙は顔を上げると奥の回廊から見慣れた目布を纏った始皇帝がみえて、彼女の心はそれだけで簡単に明るくなってしまう。もし彼女が犬であれば、きっと尻尾を大きく振ってしまっていたかもしれないが、その喜びはすぐに止まってしまう。

「陛下!」

そういって呼び止めたのはまだ若く美しい妃嬪であり、彼女は深々と挨拶をするが付きの女官達はとてもその妃嬪を心配したような顔をしていた。
無邪気で明るい人なのだと遠巻きに分かる、年は自分と同じだろうかと洛熙は感じた。いつも通りの笑顔を浮かべている始皇帝の手がその妃嬪の腹を撫でるのを見て、あの妃嬪が例の……と洛熙は思うと視線を逸らした。

──自分じゃない

そう思ってしまう自分がとても嫌になって、洛熙は書物を読み返すのにやはり一向に頭に入ってこないと思う頃、背後から冷たい何かが頬を撫でた。
驚いてもよかったが洛熙は頬に触れるそれが金属であり、指先に付けられた黄金色の装飾品であると知る彼女は目を細めてしまう。

「待たせていたようだな」
「いえ、今日はこちらで読んでいたのです」
「そうか、今日は良い天気だからな」
「ええ、祝い事には良い日であります」

始皇帝の声に洛熙は目を細めると長椅子の背もたれを飛び越えて、まるで猫が着地でもするかのように静かに乗っては洛熙の足に頭を乗せ、彼女は書を開いた。
目を隠したその布の下の視線にはいつからかしっかりと気付くようになり、下から見られる洛熙は熱い視線に思わず顔を下げては「如何されましたか」と愛想笑いをするが始皇帝はなんでもないとその心理を隠してしまう。

いつもの様に風が流れて洛熙の頬を撫でるが、その風は少し冷たく感じられたのは何故なのかと洛熙は書を読む。

洛熙ほど分かり易い娘はいないと始皇帝は思った。
人の気の流れというものが分かる彼にとって、洛熙はいつだってその感情によって大きく流れを変えていた。しかし書を読む時はいつも整うのだが今日は違った。
気の流れを読まずとも、彼女の声はいつもと違い音を乗せない。頁を捲る指先が乾いている。書を読む瞳は微かに戸惑いを持っている。
理由は明白であり、こうして動揺を示す彼女まるで後宮から戻ってきた時に眠るときと同じ反応で、彼には洛熙のその感情がとても分かりやすく感じられていた。

嫉妬──それは彼が女の感情に強く宿るものだと知っているが、それは常に皇帝の隣にいる為の感情であり、そこには嬴政でなくてもよい事を彼は理解していた。妃嬪達は常に争いを小さく繰り広げているがそれは彼女達の勤めの一つでもあると彼は感じていた。

しかし洛熙は無関係でその感情を持つのは素直に"嬴政"という男個人に向けての感情だと彼は知っている。
彼女の膝を借りる始皇帝は彼女を抱き締めたいと思った。
その頬を撫でて装束の襟首を掴んで長椅子に寝かせて唇を重ねて、その衣の隙間から見える肌に吸い付いて、真っ赤に染まる彼女の全てを喰らいたいと年甲斐もなく思えてしまう。

「……陛下、読み終わりました」

静かにそう告げて見下ろした彼女に寝たフリをした。
話を聞いて寝てしまうことはよくあるため、洛熙は気にしないと思っていたがその日の彼女は感情が揺れていたのだろう。
「陛下」ともう一度呼んだ彼女はまた書を開くかと思っていたが、書を横に置いては始皇帝の頬に優しく触れる。薄い布からは彼女のはっきりとした表情は見えないが人というのは口元だけでも感情が分かってしまう。

「嬴政」

呼ぶことを唯一許可した彼女は寝所以外では呼ばなかったが思わず口にしたのだ。
目布に触れそうになる手を彼女は止めて「おめでとうございます」と苦しそうな声で告げた。泣いているのだろうかと始皇帝は感じたが涙を拭うことはできない。

そんな権利は彼にはない。
悲しませたいわけではない。

『洛熙殿は宮仕え……いえ、この世界ではあまりにも純白の娘であります』

それは年嵩の女官の言葉で、彼女は洛熙をかわいい娘だと気に入っており、余計な陰謀や欲望を持たない者で、王に付き従う従順な者であった。
幼い頃から王を支え、何度も妃嬪達の出産に立ち会い、数多の政治と策略を見て、女の醜さを知る女官の言葉は正しいのだろう。

その言葉を聞いた時に始皇帝は同意した。
洛熙はあまりにもこの世界には無縁な無垢な娘である。
人の悪意や恐ろしさについて知らずに育ってきて、自分の夢の為だけに真っ直ぐとここ(宮)へ向かってきたのだ、どんな立場に立たされても虐げられても悲しみを抱きつつも自分が悪いのかもしれないと考えるような優しい娘は後宮で生きるにはか弱すぎる。

「終えていたか」

始皇帝は寝たフリを終えて声をかけると洛熙は普段通りに微笑んだ。
偽りでも構わないから二人だけで過ごせたらと願うことがある。
彼女の声に包まれて、優しい笑顔を向けられて、どんな諍いも人の憎しみもない場所に居られたら。

「陛下お時間でございます」

そういった洛熙の声に始皇帝は「朕が良いといったのだ、気にするな」といえたらよかったのに、彼はその言葉も出せずに身を起こす。
起きたフリをして触れ合った手を洛熙も彼も気付かないふりをして、ほんの少しだけ指に力が入った。絡めてしまいたい、繋いでしまいたい。
願いながらも始皇帝は背を見せて「夜を楽しみにしているからな」と言ってその場を去ってしまう。彼女の視線を背中で受ける。振り返ってしまえば戻ってしまう気がして始皇帝は胸の内に抑えた。

王としての立場を考えて。



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