──ねぇ陛下のこと知ってらっしゃる?
──ええ、ええ、知っていますとも
──どうやら陛下の寵愛を受けている者がおられるとか
──それもどうやら宮女、しかも平民の出であると
──なんて身の程知らずなのでしょう
──でも先日、宮廷から追い出されたあの方、どうやらその娘に手を出したとか
──四肢をもがれた刺客が龜に入れられていたとか

あぁ恐ろしい。

後宮──そこは皇帝の妃となる女性たちが中心となり生活をしている宮殿の奥にある、また新しい世界であった。
ここ数ヶ月、その後宮内では密かな噂話が常に流れている。
妃嬪と呼ばれる皇帝の妃たちは常に皇帝の寵愛を受けようと望んでいる。

数百人規模の妃嬪達はどれも皆美しい女性達ばかりで、一生に一度、その女性と夜を過ごせたらどれだけ幸福であるかと思うほどの相手を王は常に求めることが出来る。

皇帝の妻には階級があり、その頂点に皇后と呼ばれる皇帝の妃がおり、その下に数多の妃嬪と呼ばれる、いわゆる側室のような女性たちがいる。
始皇帝は秦王の頃より、皇后を持たないとされており、数多の皇太子や公主もいたがその母が誰であるかなどは秘匿されていた。

皇后を持たない理由については詳しくは不明であるが、噂話が好きな女たちは常に彼の実母の話やありもしない噂話をするが、その本心は自分こそが皇后になるのだという強い野望を抱いている。

そんな中、噂に流れてきたのは、とある宮女だった。
平民出のその娘を始皇帝が気に入り、あまつことさえ自身の寝所へと招いているのだという話は後宮をざわめかせるには十分であった。

長年の妃嬪達はその娘について口を閉ざしていた。
彼女たちは今更皇帝の寵愛を受けることはないと理解している。
あの男ほど分からぬ存在はいない。
子供のように無垢に笑い、優しく甘い言葉を与える、しかし確実な物は与えず、あまりにも平等に対等を守るのだ。
女に溺れることもなければ、反対に拒絶もしない、その存在は不思議でもあるだろう。

しかし一部の者たちは違う。
野望を抱え、皇后の座を伺っているのである。
その噂が流れ始めてしばらくのこと後宮にて宴があった。

桃の花が庭を淡く染め、香炉の煙がゆるやかに漂う。
妃嬪たちは色とりどりの衣を纏い、皇帝の前に整然と並んでいた。
中央の席に座るのは始皇帝──嬴政。
しかし誰も彼をその名で呼ぶことは許されず、彼はいつものように片肘を卓に預け、楽しそうに薄い笑みを浮かべている。
その姿はくつろいでいるようでありながら、誰一人としてこの場の主が誰であるかを忘れさせない威圧を纏っている。

「陛下、近頃面白いお話をお伺い致しました」
「なんだ」

幾人もの妃嬪が彼を取り囲み、舞い踊る他の妃嬪を無視して話しかける。
数多の美女に囲われてもなお不快感を感じさせない顔立ちとその姿を彼女たちは素直に好んだ。若々しく笑顔が愛らしいと感じさせる始皇帝の目布に触れることは誰も許されない。

「聞くに寝所へ宮女を招いておられるとか」
「朝までお過ごしだとか」

彼女たちはほんの少し聞けたら良いという気持ちだったのだろうが始皇帝は彼女たちに対して堂々と答える。

「そうだな、侍書として招いているが朕に意見でも?」

そんなそんなと妃嬪たちは口元を抑えて上品に微笑みながら空いた杯に酒を注ぐと彼は口付けて、彼女達のギラついた瞳を感じて微笑む。
憎悪や嫌悪とは違う、野望に満ちた瞳というのは肉体に痛みを与えはしないが、まるで汗が張り付いた寝苦しい夜のように気持ちが悪く思えてしまう。
しかし彼もまた彼女達が望むことを知っていた。それは当然のことであるため否定する気は無い。

「その娘は本を読まれるのですか」
「そうだ、読み書きに長けていてな、特に声が良い、まるでそなたらが奏でる琴のように繊細に音を奏でるのだ」

一人の妃嬪の喉を撫でる。
今宵は誰が彼の相手になるのかと彼女達は求めているのだ。
そしてその反面、その娘のことを知りたいという思い。

「眠れぬ夜に良いのだ」
「でしたら私がお読みいたしますわ」
「いいえ、私が」

他を押しのけてそう告げる彼女たちに彼は満足そうに笑う。
その姿もまた人間らしく美しいと彼は素直に褒め称えるのだ。
しかし彼は姿勢を正せば耳飾りが大きく揺れた。

「そやつの声でなければ眠れぬ、それだけのことよ」

その声色は特別であると女にはわかる。女というものは、とても敏感で繊細だ。男のほんの少しの息遣いや言葉の間合いで分かってしまう。反対に男というものは鈍感であると女はよく笑う。
どの時代にも間抜けな男は女のあそこで分かるというが、女はみんなそれを笑った、そんなものを見なくても吐く息ひとつで分かるのだ、特に皇帝の一挙手一投足をみる彼女たちからしてみれば、その声に熱が微かに籠るのが分かっていた。

「しかし、そのように宮女を寵されますと私共は寂しゅうございますわ」

ねぇ……と蛇のように笑う妃嬪に続いた他の女もそういって、その肉体に身体を添えたものの始皇帝は酒を飲み切り杯を置いてしまう。

「無問題、そなたら以外を愛することはない、それにあれに対するものは寵などというものでも……」

それを最後に宴の席を離れた始皇帝は誰も呼ばずに寝所へと戻ってしまったと知り、彼女たちはその娘に対する疑念を強まらせていく。

そしてある日の夜のことだった。
週に数度、始皇帝は必ず妃嬪と時間を過ごすことを自身に義務付けていた。どの妃嬪にも必ず当たるようにと宦官の管理の下で会う相手を決める。
宦官はその日の相手に密かに告げると用意をしっかりと済まさせて、皇帝の寝所とは別に設けられた妃の宮室へと向かう。

夜は深く、灯火は静かに揺れ、香炉の煙が細く天井へと昇る。
まるで義務的に肌を重ねた始皇帝は静かに衣を整えて帯を締めていたが、妃はまだその美しい玉体を寝台の上にさらけ出していた。
真っ白な真珠のような肌に凹凸の美しい肉体、男なら誰もが手を伸ばしたがるような肉体でも、彼は事務的に行為を行い、彼女の望むものをあたえるだけのことだった。

「もう戻られるのですか、夜は長うございます」

まだ一刻しか流れていない。
夜は長いはずで本来はもっと互いを求め合い朝を共にして、他の妃たちに自慢げな顔をして、その腹に何かを宿せるかと期待するのだが、そんな考えもさせてくれぬような静けさだった。

「待たせているのだ」

悪びれもなくそう告げる始皇帝はまるでそれを知っているだろうと言わんばかりであった。実際に後宮だけではない、宮廷全体がその宮女の話を知っていたはずであり、だからこそその態度をするのだと彼女は理解しており憎らしく思えた。
一刻を過ごして戻るなり、その噂の本読みの娘と朝まで過ごすのかと思えば彼女は自然と声を出した。

「陛下、わたくしも本程度お読みできます」

皇帝の妃として集められた者たちはその称号に恥じぬように努力をしている。多少の読み書きはできており、さらに舞を踊り琴を弾ける。しかしその宮女の話は書物を読む程度のこと。読むことなら誰でも出来るじゃないかと意見が飛び交った。

「ふっ……」

薄い帳の奥で始皇帝の微かな声が漏れて、それが乾いた笑いであると気付いたのは空気のせいだったのかもしれない。彼は振り向きもせずに背中を見せつける。

「そなたは愛いことをいう」

思わずその言葉に目を丸くした。

「だが"程度"というと、たかが知れてしまうぞ」

詩を詠むのなら言葉の難しさは分かるであろうと告げてその場を後にした始皇帝の背中を見届けた彼女は理解した。宮女などではない、その娘は完全に彼の特別なのだと。
自分の地位が脅かされるくらいならと考える彼女は不満を募らせる者に声をかけ、そして始皇帝の不在に合わせて刺客を差し向けたのだった。

しかしそれは失敗に終わった。それも最悪な形でだった。
ある朝目覚めると同時に部屋へ荷物が運び込まれた。大きな龜と「陛下からでございます」という言葉に怯えつつ手を伸ばせば中には人の頭が見えて彼女は大きく悲鳴をあげて倒れ込んだ。

それぞれが処分される中でも処刑はなく、全員が流刑や降格などを受ける中、彼女は後宮から追い出されることとなり、とある国の娘であった彼女は戻るなり父親が刺客を差し向けた犯人として絞首刑となり、自宅には刺客の四肢が届いたと知った時、六国を制した王がその笑みに含めた意味を理解し。
物読みの娘は決して他には置かれない立場にいるものなのだと理解する頃には遅いものなのだった。

「お聞きになった?あの娘と陛下は先日隠れて街へ行ったとか」
「陛下が目布を外した姿を見せたとか」

後宮内には今日も噂が広がっていた。
かの宮女の娘は現在内廷付き侍書女官という役割を与えられており、どの席においても同伴を許されているのだということ。
それが寵妃でないのならばなにかと不安になりつつ園庭で話をする彼女たちへ宦官の一人が柔らかく微笑んで安心するように告げた。

「あの娘は平民出の女官、陛下が皇后や妃にすることはございません。何故ならあの方がそのように規律をお決めになっておられるのですから。あくまでもあの対応は規律を重んじてなのでございます」

それに平民出の娘は子を宿しても許されないと断言する声はどこか冷めきっており、彼女らにとって皇帝の子を孕めぬというのはまさに鬼の言葉のようでもあった。
数多の妃嬪達は皇帝の子を宿したいと願っている、つまりそれさえあれば、今よりもと考える彼女たちはゴクリと唾を飲んだ、自分たちにしかない戦い方はあるとして茶を飲んだ。

そして間を開けてから彼女たちは笑った。
どろどろとした胸の内で彼女らは娘・洛熙を哀れんで嘲笑う。
何を望もうと所詮彼女は許されぬ存在で自分たちは許される──ともなれば出来ることは一つだとして濡れた唇をひと舐めした、それはまるで蛇のように。


back