祭りに行った。
村の小さな秋の祭りだった、巴蜀の秋はとても美しい紅葉を魅せて、紅葉とイチョウの葉が落ちる赤と黄色の地面を歩いていると、祭りの中心では人の声が大きく聞こえた。みんなが笑って幸せそうにしているのが洛熙にはとても幸せなことだった。
秋のこの祭りを彼女は好んだ、秋は美味しいものが多くて、その上秋の空気は紙の香りがよく香る気がした。
なのに夢の中で彼女はその祭りの中に入れなかった。
またもう一つの夢を見た。
それは夢ではなくて実際のことで洛熙は胸の内に抑えていたものだったとそれを思い出した時に感じた。
弟が生まれたのだ、洛熙の下には何人かの弟がおり、みんなかわいかった。
けれど生まれたての頃は両親は一番下の子供に目をかける。洛熙も弟を見てきた為、その小さな命が目を話せばほんの瞬間に命の灯りを消してしまうことを知っていた。
だけど寂しいと感じてしまった。
一番上だから仕方がないと思いつつも両親にほんの少しだけ寂しいと告げると二人は笑って抱きしめてくれた。
この世には平等はない。
どれだけ平等に扱ったとしても、それを受け取る側はそう感じないのならそこに平等は存在しなくなる。それは皇帝の愛も勿論であるが洛熙は自分がそもそもその土俵にいないことも理解していた。
愛とはなんだろうか。
肌を重ねることなのか、皇后として隣にいることなのか、それとも何もせずとも声を聞いて眠ることなのか。
恋の話を見ると洛熙はその物語の感情に似たものを持ったことがあったが気のせいだと言い聞かせた。その感情は全て始皇帝に向けたものだったから。
違う違うと言い聞かせても募る思いはこれまで読んできた物語や詩のように切なくて愛おしくて苦しかった。人々はずっとこの感情を抱きながら人を愛したのかと思うと洛熙は耐えられないと思いつつも、きっとそんなことは無いと思った、恋はきっと幸せだけを与えてくれると思っていたかったから。
宮廷内──特に後宮の人間はみんな嬉しそうにみえた。
洛熙は後宮にはあまり近付きたくはなかったが、自身の好む書物はあの埃被った書庫に存在するため、遠くとも足を運んで一日過ごす事も多かった。
しかし、後宮において洛熙を見るものはみんな声を潜めて何か言う。
顔を伏せて背が丸くなってしまう洛熙はその声がよく耳に聞こえてしまっていた。ずっとこの半年ほど言われ慣れていたはずの言葉なのに懐妊の報を受けて以降、以前に増しても聞こえてくる気がした。
「ねぇあれ」
「ええ陛下の侍書女官の」
「違うわよ、ただの宮女でしょ、薄汚れたカビ臭い書庫担当の」
「あの子書庫担当なの?」
「後宮奥の誰も使わない書庫担当よ知らない?カビ臭いしジメジメしててあんな所にいたら腐っちゃいそうだわ」
だから文字の読める平民の娘にね……なんて嘲笑する声が聞こえるが洛熙は内心──カビ臭くないし、ジメジメしてたら書物が痛むのに……とそんな事を胸の内で告げた。自分のことは言われ慣れているが書物を下手に言われることは少しだけ嫌だった。
それまで数多の知識人や書き手が描き紡いできたものは、まるでその人の世界を外へ告げる手紙のようで、洛熙はそれらを描ける人を純粋に尊敬していた。
足を早めても人の視線は消えやしない、反対に全員が自分のことを言ってるのではないのかと思うほど耳に触れてしまい、洛熙は書庫の中に逃げ込んで戸を閉めた。それでも回廊からは今日も声がしている。
──懐妊されたとなれば彼女も陛下の寝所へ招かれないんじゃないの?
──お妃様の懐妊報告には本当に安心したわよね
──もしあの子が懐妊してたらどうなさるおつもりかしら?
──まさかそんなの他のお妃様…ってことにするわよ、孕ませる分には問題ないけど産んだところで陛下の顔に泥を塗るだけ
──じゃあ孕んでも掻き出されてたかもしれないのね
──当然よ"平民"なんですから
洛熙は書庫の奥へと逃げるように腰掛けた。
そして腹を撫でた、とても痛いと思い抑えてみると、足の間にドロリと嫌な感覚がした。昔から来たり来なかったりと不定期なそれについて、村の大婆と呼ばれる者に「子を宿しにくい者の体質じゃ」といわれたことを思い出した。
衣の中に手を入れて足の間に指を触れさせて見つめると指先は赤く染っていた。洛熙は赤い指先に小さく付着した赤黒い塊を眺めた、小さな胎児とはこの形なのだろうかと考えると洛熙は口の中に含んだ。
腹も頭もズキズキと痛むため、誰も来ない書庫で横たわると冷えた書庫は心地よく瞼が下がった、血を流すとどうも眠気に襲われてしまうと思いながら身を委ねた。
女官に月経が来た旨を伝えた。
始皇帝は女のモノを穢れとしては扱わなかったが、懐妊した妃嬪のことを考えれば洛熙は終わるまでは皇帝に近付くことも良くないだろうという判断であり、告げられた女官は洛熙に優しく「何も気にしなくて良いのです、あなたは正しい心を持っている」といってくれたことに感謝しつつも始皇帝の返事が来ない限りは後宮の書庫で過ごそうと考えた。
下手に部屋を用意してもらえばそれだけでまた迷惑もかかってしまう。
宮女としての職務は与えられないのに、彼女達のそばに居るのは邪魔でしかない。洛熙は自分が宮廷で一番の御荷物だと思っていた。
本当はすぐに始皇帝から返事が来ると思ったがそんな事はなかった。
女官は告げてくれたはずだが、やはり一週間ほどはと考えて夜更けの後宮を歩いて、別の書庫から借りてきた書物を持っていこうとしていた洛熙の前から一人の宦官が歩いてきた。
その者は洛熙が始皇帝と妃嬪の行為を見てしまった夜に出会った者だった。
物優しそうな顔立ちでその姿は妃嬪の隣に並ぶに相応しい姿にみえて、洛熙は会釈したが男は立ち止まった。
「どうも侍書殿」
美しく笑う人なのだと洛熙は思いつつ、耳に残りやすい宦官に挨拶を返すと彼は態とらしく妃嬪のめでたい話について語り始めた。
懐妊した妃嬪は洛熙と同い年であり、燕国の公主であり、燕王の寵愛を一番に受けた娘であるとされた。舞と琴が得意で、筆を持たせたら妃嬪の中でも郡を抜く才色兼備。
「とてもご立派なお妃様だと思わないか」
「誠にご立派でございますね」
「そのような方が御子を宿された、同じ年端の女性としても誇らしいだろう」
洛熙は何も思わなかった。
その妃嬪と自分が違うことくらい彼女も目の前の宦官も分かっている。
声というものはとても不思議だと洛熙は感じた。
目には見えないのにその音で怒りも悲しみも喜びも見せることができて、宦官の声には僅かな嘲りが混じっている。
「毎夜お傍におりながら、何も残せないとは如何程のことか……なんとも、惜しいことですな」
その瞳は憐れむよりも嘲り笑っている。そんな宦官の胸の内など分かっている。
どれだけ洛熙が傍にいても、彼女が望むことなど許されず、そしてそれを天は見ているからこそ与えないのだというのだろうと言いたいのだろうが、洛熙は少しだけうんざりしていた。
男と女──それだけで彼らはみんな小さな勘違いをしている。
朝まで共にするのは始皇帝の眠りのため、触れることもないことを彼らは思わないのだろうかと考えるが、彼らにとって寵愛を受けていると認識している以上は無理なのだろう。
「ご安心くださいませ、陛下は私を侍書としたお傍においておりますので…「それはいつまででしょうな」
強がりを口にしたつもりが言葉を被せられた。
洛熙は何も返せずに相手を見つめたが宦官はニコリと微笑んだ。
そして足を進めて横を通り過ぎる時、彼女の肩に手を置いた。
「自分のことをよく考えるといい」
冷めきった声はまるで鋭い刃のようで洛熙は立ち尽くした。
分かってると自分に言い聞かせて二本足で立っていたはずなのに足が小さく震えた。
腹部が痛かった、股から血を流しているのに冷えすぎたのかもしれないと洛熙は書庫へ戻り布を被って横になりながら、蝋燭の火を眺めた。
「私は……侍書なんです、嬴政様の」
洛熙は被った布の下で腹を撫でる手を下に添えて太ももを撫でた。
重たくて朝まで乗っていると足が痺れてしまうのだが、それが好きだった洛熙は恋しいと思った。
そういえば今日は陛下と朝の時点で顔を合わせていなかったと思い出して、ますます身体を丸めた。誰でもいいから腹を撫でて抱きしめて温めて欲しいと思った。
その時まぶたの裏で自分を抱きしめくれる始皇帝を思い浮かべたのは、あの腕の中がとても暖かく心地よいからで、先程の宦官のことを思い出しては彼の眼差しの意味を知る。
あの夜に違う回廊を教えてきたのはわざとだったのだと今更気付いた、あの宦官は洛熙に教えようとしていたのだろう。
"身分の違い"を勘違いするなと釘を打ちたかったのだろう。
洛熙はなんだか声に出したかった。
自分がどれだけ望んでも陛下は触れることなどない──と、けれど望んでいる自分もいるのだなと気付いた彼女は涙を零した、あまりにも不毛だったから。
← △ →
⇦
back