目覚めた時、相手の顔を見ることに微かな幸せを感じるというのは始皇帝・嬴政にとって洛熙が初めてのことだった。
初めて目覚めた時に大切な人がいるという喜びに気づいたのは春燕を失ってからのことで、それから彼はそんな思いを抱くことはないと思っていた。

洛熙は案外朝に弱いのか、始皇帝よりも起きるのが遅いことがある。
そうした朝を迎えると始皇帝はその寝顔を心ゆくまで堪能した。細くて長いまつ毛に小さくて丸い鼻、眉は短く少しだけ眉頭が丸くて柔らかい印象で、長い髪が寝台に広がると絹のように美しく、幼い寝顔に小さく開いた唇をみると、つい指先で触れてしまう。
柔らかい──当たり前のことなのに、彼はなぞってしまうと、その下の上下する胸を見つめた。

洛熙は大人の女の体をしていた。
出会った頃の彼女はまるで痩せ細った猫のようだったが、始皇帝が手入れを始めるとそれはもう健康的な姿であり、時折彼女を見る男の目は欲を含んでいることを気付いては「不好(ブーハオ)」と一人で呟いてしまうほど。
周囲の者たちは朝まで過ごす洛熙と始皇帝が肉体関係を持っていると思っているのだろうが、彼はそれを直接聞かれぬ限り答える通りもないとして言わなかった。

しかし彼は洛熙には触れない。
簡単に傷付けていい娘ではないと知っているからだ。

「間抜けな顔だな」

寝顔を見るだけで日頃の疲れが抜けていく。
この愛おしさは何に似ているのだろうかと考えると動物に近いのかもしれないと思う。無闇矢鱈と可愛がってしまいたくなるが、ただの愛玩には出来ぬよう感情も存在するが、それを彼は抑えることが出来た。
ほかの女に出来ることが洛熙にだけは出来ない、それは美しい花を愛でる感覚に等しいだろう。

「んう……え、せーさま」
「なんだ」
「……饅頭が、おそってきております」
「ふはっ、なんだ夢を見ているのか……あぁ本当に」

どうしようもない気持ちが沸き上がりながら見ていれば帳の奥から丞相が現れては小さな声を受ける「重大なご報告がございます」という声に始皇帝は顔色をすぐに変えて、洛熙を起こさぬように寝所を後にすると皇帝の間の入口には見慣れた者たちが集っていた。
そして妃嬪の一人がとても嬉しそうな顔をしていた。

「陛下、お聞きくださいわたくしどうやら懐妊したようでございます」
「好(ハオ)!誠か……よくぞ頑張ったな」
「これも陛下がわたくしを愛してくださったおかげです」

べったりと身を寄せる妃嬪について彼はあくまでも王として返事を返したが、どうやらそれも喜ばしいようで誇らしそうな顔をした。
燕国の王の一人娘である燕姫(えんき)──その妃嬪は若く、始皇帝を深く愛していた。何度か夜を共にしたことがあるがいつも情熱的で深く愛してくれる彼女と過ごしたのはもう三月(みつき)は前のことであったように思い出す。

「ここ最近は食欲も出ず口から入るものが全て出てしまいまして、女官に相談しまして医官に確認させたところ、懐妊していたのですよ」
「誠か?」
「は、誠にございます」

広間に並んでいた宦官・医官・女官ははっきりと告げることに始皇帝はその妃が喜ぶことを見越して片手に抱き上げてやり唇を重ねてやった。
首に腕を回されて喜ぶ無邪気な燕姫は器量がいいものの、始皇帝は何も彼女に感じることはなかった。

噂話はすぐに流れて宮廷内を駆け巡る。
後宮は既に宴の用意をしており、始皇帝は自身を抜きに彼女達だけで別途行うように告げた。懐妊したものの無事に生まれると安心できる段階までは控えるのが当然だが、喜びに満ちた者たちを止めるにはない。
宮廷内の者、全員が始皇帝に対して祝いの言葉を残した。

「随分噂が流れるのが早く感じるな」
「燕姫様が大体的にお伝えしております、それに……しばらく後宮は落ち着きがありませんでしたから」

後宮の落ち着き──それは洛熙が現れたからだと始皇帝は理解していた。
妃嬪たちはこぞってここ数ヶ月不安な顔をしており、長く宮殿にいる始皇帝も気を許している年嵩の妃嬪達は素直に彼に意見もした。

──極端に花に水をやれば枯れてしまう。
──野草を愛でても踏まれてしまう。

彼女達の言葉は的を得ており、さらにその例え話の上手さを評価すると彼女達は呆れて笑う。もう何十年の付き合いのため互いにその距離感が心地好いのだ。

しかし全ての妃嬪がそうではなく、反対に洛熙に鋭い視線を送る者は一定数妃嬪だけでなくても存在しているのは把握している。
女官を極力つけて、宮廷内の密偵に目を張らせて、あからさまな行為には牽制出来るようにしているが、それも相手によっては意味をなさない。
後宮における問題は始皇帝さえ操りきれないところがあるのは現実だった。
女は恐ろしく、男の陰に隠れては大きな陰謀を持ち、国家を揺るがすこともあると過去の国で学んでいる始皇帝は十分に気をつけている。だからこそ彼は洛熙に手を出さない。万が一があれば互いの足場は簡単に崩れるからだ。

懐妊したからといって始皇帝自身は変わることは無い。
昼や夜に洛熙と過ごす時間は変わらないが彼女は目に見えて動揺している。
そうなるまでに思うことがあるのかと思うと彼は嬉しいと感じてしまった。
洛熙のことは深く愛しており、きっと彼女以上の相手はこの世に生を受けている限りはないと確信していた。
自分の傷を癒してくれる彼女と共に過ごしているからこそ眠ることが出来てしまうのに、誰もそれは理解できない。
そして彼自身がどれだけ彼女を想おうと彼女を皇后にすることは以ての外、王として彼は威厳を示さねばならない、その中で侍書として洛熙を傍に置いている時点で周囲の厳しい意見が上がるのは当然のことだったが、あの眠りを知ってしまえば手放すことなど出来なかった。

懐妊した女は母となる故に気が可笑しくなるとは昔からいわれていた。
腹の中の子を守るためであり、始皇帝は初めて自身の妃の一人が懐妊した際に悪阻で嘔吐し、暴飲暴食に落ちて、泣いて怒ってと情緒不安定な姿を見た時、素直に驚きもしたがそれが子を産むためなのだとしたら納得できた。
出来うる限り妃嬪達のことは想ってやろうと務めていた為、懐妊した妃嬪にも足を運ぶことは当然のことである。燕姫は始皇帝をみると花が咲いたように笑い、周囲は彼女を「愛らしいお妃様」というが、始皇帝はあの瞳の奥に宿した禍々しいなにかを薄らと感じていた。

「何か……匂うな」

玉座で目を閉じてそう告げる始皇帝の耳にも御子を喜ぶ声と、そして密かに聞こえる彼の侍書への中傷に似た言葉、以前まではもっと密やかであったのに忘れたかのように懐妊の報告と共に流れている。
まるで誰かが流しているかのようにも感じられる。
玉座に肘をついていた始皇帝は装飾品を付けた長い金属の指を三度小さく鳴らすと背後から「ここに」と声がした。

「懐妊した妃嬪とその周囲について調べよ」
「は……恐れ入りますが何かご心配を?」
「不好(ブーハオ)、匂うのだ、あの腹からは黒い何かが」

背後からはそれ以上の言葉はない。
しかしそれは珍しいことでもないとされていた、現に宦官と妃嬪が関係を持っていたことはあった──始皇帝の実の母・趙姫のように。
皇帝の傍にいる以上、女達は賢く狡く、その思考は時に彼をも凌駕する恐ろしさであり、女が政治に介入すれば国が傾くというのは冗談にはならないのである。

政務を終えた始皇帝は後宮へと足を運んだ。
懐妊後は出来る限り足を運ぶようにしている。そうすることによりその妃嬪が懐妊されていることや、特別に思われていること、そしてなによりも相手への安心感の為で軽く話をして去る気でいた始皇帝は燕姫の部屋へと足を運ぶと寝台に横たわる彼女がいた。
燕国の皇后以上の権力を握っていたとされる唯一の公主の娘は恐ろしい程に美しい娘で、洛熙と同じ年端だと聞いた時、女は化けるものだと小さな驚きを感じた。

「陛下、来てくださいましたのね」
「あぁ様子はどうだ、辛い時期であろう、今はしっかりと朕のために休み欲しいものはなんだって強請るがよい」
「ふふっ陛下がいてくださるだけでわたくしは幸せでございます」

細められた瞳は男を誘うことに慣れた眼差しであると感じた。
実際に床を共にした始皇帝は彼女を堪能した。
舞う姿は蝶のように美しく、琴を奏でる指先は水を撫でるかのごとく、数多の妃嬪が彼の前で舞う時、彼女はその瞳で相手を魅せるのが印象的だと目布の下で感じた。

「ねぇ陛下、いまもあの娘を寝所に呼んでおりますの?」

そろそろ戻るかと思う頃、細い白魚のような手が始皇帝を触れて問いかけた。始皇帝が彼女をみるとその瞳は微かに潤んでいたが何一つ心は動きはしない。しかしそんなことは相手も理解しているように感じた。

「行かないでくださいませ、わたくしは皇后や寵妃になりたいという訳では無いのです、貴方様を愛しております。だからどうかわたくしが安心して陛下の子を産めるまではあの娘を呼ばないでくださいませ」
「そなたは朕に眠るなと?」
「わたくしの隣にいて欲しいのです、せめて少しの間は」

考え尽くしているなと始皇帝は思いつつも優しく微笑んで腰を下ろした。
まだ懐妊してすぐの時期は不安定になりやすいからと彼は理解を示すようにした。
もしいま「海にでも飛び込みますよ」とでも言われれば面倒であるのだと彼は内心冷たく思いつつ、それを腹の奥に押し込めて彼女の背中に手を添えて頬に唇を添えて隣になった。

「よかろう、しばらくはそなたの隣に居よう」
「ああ、嬉しゅうございます陛下」

そう言って首に腕を回して抱きしめた始皇帝はあぁこの女は何かをしていると確信した。
洛熙に付けさせた女官が「侍書殿が月経になられたと申しております」と告げられたが、その返事を返せてなかったと始皇帝は思いつつその夜は一晩眠れずに妃嬪の部屋で過ごし、翌日は洛熙に普段通りに過ごしてよいと告げた。でなければあの娘はまた後宮の書庫に引き篭もり一人で過ごすと感じていたから。
そして数日、寝所には戻らずに妃嬪の機嫌を取る為に夜は後宮で過ごせば周囲は更に微笑ましそうに、どこか安心したような顔を見せて、人とは単純だと思うが政務も忙しく昼に休むこともあまりできず、洛熙を見掛けないが女官達からは変わりなく過ごしていると報告を受けることにより安心した。

しかし洛熙はある日行方知れずとなった。
詳しく聞くも宮抜けをしたのだろうという話で誰もどこに行ったかなど分からなかった。無理もない、宮抜けをする者は少なくはなかった。
始皇帝はすぐに彼女を探すように命じようとしたが現れたの懐妊した妃嬪の燕姫だった。

「陛下、わたくしは陛下の子を身篭っているのです」

縋るような声で告げる女、その言葉と周囲の同調する瞳、陛下に妃嬪が意見出来るのはきっと懐妊中のみだろう。御子の命を握るのは母親であるからだ。
してくれたな──と始皇帝は笑みを浮かべた。
どの国においても王の血を引く者というのは狡猾な蛇のようだった。
始皇帝は「そうだな朕の御子だからな」と告げると女は笑う。

そこまで来るならいいだろうと彼は寝所にて一人瞼を閉じて座っていた。
薄明かりが灯る寝所で微かな物音が立った。
それは密偵の音であるとした始皇帝は「報告せよ」と告げる。
時間は掛かったが狐はいつまでも尻尾を隠せないことを彼は知っている。


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