懐妊を祝うことに合わせたように始皇帝の政務が忙しくなっているように感じたのは洛熙も薄々と感じていた、日中に呼び出される回数が減り、夜は直ぐに寝てしまう彼の寝顔を見ていると気を張っているのだろうかと心配にもなった。
そんなことを思うような立場でもないだろうが洛熙は自分が彼に思う気持ちを少しずつ理解していたが抑え込んだ。
それは偶然のことだった。
書庫からの帰り道、一人の妃嬪が「話を読んで欲しいのだけれど」と声を掛けた。彼女は断りたかったが当然出来ずに「喜んで」と返事をして妃嬪達の茶の席に招かれた。
白い石畳の上には低い卓が並べられ、香の混じった湯気を立てる茶器が置かれている。その周囲には色鮮やかな衣をまとった妃嬪たちが五、六人ほど集い、笑い声を交わしていた。
洛熙と年端の変わらなさそうな彼女達はとても美しく洛熙は自身の装束の裾を掴んでしまいそうになるが、やってきた彼女を妃嬪達は笑顔で招いて座らせては優しく茶を入れた。
洛熙は頭を下げながらも早速書を広げ「では……」と告げるが、彼女たちはそんなことを気にせずに今から話を読んでもらうことも忘れたように話を始めた、目の前にいる洛熙を品定めするようにみてはクスクスと口元を緩めて微笑む時、その中央に洛熙は懐妊されている妃嬪がいるのをみた。
「あなたが陛下の"寵愛の宮女"ですの?」
「毎夜寝所を出入りしておいでですって」
「なんて恥知らずの品のない娘、どこの出身で?」
「確か宦官が巴蜀の出であるとか」
「巴蜀……?ふふっ、とんだ山育ちの野蛮な娘ではないの」
クスクスと笑う彼女達に洛熙は気にせずに読み始める。
妃嬪たちは洛熙の話を無視して彼女を品定めして意地悪をいうが洛熙は妃嬪に意地悪をされた宮女をみたことがあった。仲のいい優しい宮女だったが彼女は確か妃嬪の美しい衣に茶を零してしまい頬を叩かれ、そこから酷い意地悪を受けていたと思い出す。
宮女達の中でも妃嬪を悪くいう人達はいる。
洛熙は出来るだけ彼女達の目に止まらないようにしようと頬を叩かれた姿を見て怖く感じて思った。女官は妃嬪達は皇帝のために生きる存在であるので我儘な者も多いといい、洛熙の傍にいたお付きの女官は妃嬪をあまり好まない人であり気をつけるようにと彼女に言ってくれていたが、丁度女官もいない時に洛熙はそこにいてしまった。
「陛下の寝所で物語を読んでいたと言うけど本当にそうなのかしら?」
「だってねぇ、陛下ってばあんなに激しい方じゃない」
「わたくしあの方に何度気をやられたことか」
「素直にお褒めくださるのよね」
「ねぇ……あなたも存じておいででしょう?」
洛熙の声に抑揚はない。
ただ紙の上の文字を口に出すだけのように読んでいた。
妃嬪とは品を求められるのではないのかと洛熙は思ったが彼女達はただ自分を虐げたいだけなのだと知っている。早く読んで去ってしまいたいのに無駄に頁がある話だったことに選択を誤ったと後悔してしまう。
「高名な文官に文字を教わったとか」
「あら?ではその方に寝所で教わっていたの?」
「だから平民の分際でお読みできるのね」
「陛下もこんな品も格もない娘を寝所へ入れるだなんて」
クスクスと笑い続ける妃嬪達に腹を撫でた一人の妃嬪は目を伏せながら少女のような甘い声で告げる。
「陛下は優しい方だから、夢見る彼女に同情しただけの事、可哀想な子をみて施しを与えたかったのでしょう」
そういって洛熙を見つめる彼女に妃嬪達は顔を合わせて「あぁ」と納得したように声を出すなり、また好き勝手に話をする。
誰も洛熙の声を聞かず。
顔も大したことがない。何もない田舎娘。勘違いをした平民。品位にかける見た目をしている。家柄もなければなにもない。教養は本を読むだけでは身につかないこと。
「恥ずかしいわね、私なら死を選ぶわ」
「……ご清聴ありがとうございました」
洛熙は読み終えると書を閉じて、直ぐに立ち上がり何も言わずにその場を後にした。背後からは彼女を嘲り笑う声が聞こえるが洛熙は足を早めた。本当に醜い人というのは貴方達だと言いたいのに。そう思い自分が一番醜いような気がして、逃げ帰るように回廊を歩いてた。
官吏と廊で会う度に小さく会釈する。
優しい人は彼女に声をかけるが、無視をする者や舌を打つ者もいる、日中の宮殿内は人も多いため、嫌な話が聞こえて、早くどこかに逃げたいと思う頃、曲がり角で何かに衝突してしまう。
「申し訳ございません……」
「ン?お前……」
ぶつかったのは洛熙のせいではなく、前方不注意であった官吏のせいであった。若い三人の官吏は洛熙をじっと見下ろす目を見ては洛熙は直ぐに彼らが自分を悪く思う側だと理解した。
ぶつかった拍子に手首を捕まれ、洛熙は離して欲しいと思うが、彼らは洛熙に「例の宮女だろ」と笑った。
官吏は家柄のいい者も多く、宮女を見下す者も多く、そうした連中にとって洛熙はまさに格好の的だといえるだろう。手首を掴んだ男の上背は始皇帝ほどで整った顔立ちをしており、身なりや雰囲気からしても良家の出のように感じられたが洛熙をみる目は女を品定めするものだった。
「いい身分だよな」
「平民の娘がそこまで上り詰めるなんて」
「努力家だ」
三人の官吏はそう話をするが、明らかに彼女を見下している声色でからかっていた。洛熙はいつからかそうした自分を蔑む視線も声も分かってしまうようになってしまっていた。
「ありがとうございます……では」
「まぁ待てよ、そんなに急いでも陛下は夜だろ?」
洛熙は握られた手首を振りほどこうとするが相手は力を入れるため思わず顔を歪めてしまうと「案外かわいい顔だ」と笑った。
じっくりと身体を布の上から見られているのが分かり、洛熙は思わず顔を背けて「お願いします」と小さな声で呟くが彼女の手を掴んだ官吏は顔を寄せて、彼女の目を見つめて問いかけた。
「陛下と寝てるんだろ?」
またそれだと洛熙は顔を歪めた。
どうして彼らはそんなことばかりを言うのだろうか、どうして自分たちの王を貶めていると気付かないのだろうかと考えた。洛熙自身を貶すのならまだしも王を侮辱しているのだと洛熙は言いたかったが言葉を押し殺した。
何も言い返さない洛熙に男は両隣の官吏達に「いいよな女は」と語る。
女というだけで気にいられて寝てしまえば将来安泰。ただ寝台で寝そべるだけで全てが与えられる。良い家柄でなくても少し好みに引っかかれば十分で、女の身で書庫担当になっていたことや試験に通ったのも寝たからか?と笑い合う彼らは醜い別の生き物のようだった。
それでも何も返さない洛熙をみて男は小さな袋を取り出し洛熙に見せつけた。
それは銭の入った袋であり、何事か分からずに顔を見れば官吏の男は笑った。
「買ってやるよ。これまでもそうしてきたんだろ?」
その言葉に洛熙は耐えきれなかった。
男の手を叩くと銭の入った袋が音を立てて回廊に落ちた。
何かを言われていても洛熙は聞こえないフリをして足早に逃げ出した時、その先に妃嬪・燕姫がいた、彼女は洛熙をみては足を止めて笑い「あらまだ居られたのね」と笑った。
洛熙も彼女を見つめた、背丈は変わらない、その身分の高さは身なりや雰囲気で分かり、洛熙とは正反対だった。見下した者を見つめるその瞳に洛熙は醜い人だと思った。
「ご懐妊なされたとか
「ええそうよ、陛下の子を、だからあなたみたいな薄汚い平民は近づかないでほしいのよ」
今度は素直にそう告げた。
彼女はきっと子を成せば始皇帝に愛されると思っているのかと思った。
あの星の目を見たことあるのだろうか、美しいあのお顔の全容を見た事があるのか、今日の妃嬪の態度を見て全員ないのだと思うと洛熙は薄らと彼女達と同じ土俵に並ぶことを分かっていても言葉を抑えられなかった。
「陛下が望むのであればそう致しましょう、しかし私は陛下の侍書でございます。寝所を共に過ごすのも務め、しかしそうですね……あなた様方とは違うというのでしたら、私はあの方の寝所に招かれて……」
パシン───と乾いた音がした、目の前の燕姫は顔を真っ赤にさせて手を宙にあげていた。洛熙はふっ……と笑うと燕姫はもう一度洛熙の頬を強く叩いた。
「恥知らずの平民の娘が!!恥じらいをもちなさいよ!!」
シンと静まり返った回廊で洛熙は張られた頬を抑えることもなく前を見つめた。
嫉妬と憎しみを抱いた人の目というのはとても痛いと思う。
そしてとても醜いと感じた。もし洛熙が始皇帝が誰かを愛しており、そこから無理に奪ったのなら彼女は自分が悪かったと言えるのに、そうでもない。そして彼を愛してしまったからわかってしまう。目の前の妃はあの人のことなど愛していない。ただ地位と名誉を得たいためであると。
「……哀れでございますね」
私も、あなたも、この宮殿にいる人、みんな哀れだと洛熙は思いながらその場を後にした。
泣きたくはなかったのに視界が霞んでしまう。
あんな人達に巻き込まれる嬴政はもっとずっと可哀想だと思ってしまう洛熙は腹を抑えた。ジクジクと痛むのにそこには何一つ誰との繋がりもないのだ。
「洛熙、今宵も話を聞かせよ」
てっきり昼間の話が話題になっているかと思ったが現れた始皇帝はなにも言わなかった。彼の性格を考えると必ず言われてしまうと思い頬についてはあの後必死に冷ましたお陰で赤く腫れることは無かったものの、口の中を切っていたようで少し痛かった。
今頃後宮はあの話題で溢れており、始皇帝の耳にも届くはずだと思ったが自尊心が傷付くからと口止めされているのだろうかと思いつつ、洛熙は平静を装って寝台に上がった。
近頃は政務に疲れているため早くに寝てしまう事もあり、洛熙は短いものをと思い寝台に足を置くと、慣れたように頭を置かれる。
「少し撫でてくれ」
いつからか彼はそうして告げてくれるようになった。
曰くぬくもりがあって眠りへと誘われるのだといい、洛熙もその気持ちはよく分かった。
母の膝に頭を置いて頭を撫でられると気付けば寝てしまうことがあったのだ、母に甘えることができなかったであろう始皇帝はきっとそうした寂しさをまだ残しているのかもしれないと洛熙は思いつつ書を開いた。
何の気なしに持ち寄った書のその物語は今の洛熙を傷付けるような内容でもあった。
むかしむかし、あるところに王様がいました。
その王はある日、宮を抜け出して遠くまで馬を走らせたものの道に迷ってしまい、ある村で娘に助けられました。
村の娘は明るく優しく、そして王の知らない民の話を聞かせて彼を甲斐甲斐しく世話をし、次第に王と彼女は惹かれ合う。
しかし、王を探しに来た家臣たちは彼を迎え来てしまい二人は離れ離れになる。宮に戻った王はそれでもあの娘を愛しているからと家臣を置いてもう一度彼女を迎えに行った。
雨が降り、雷がなって、雪が降っても。泥だけになっても空腹になっても、あの遠い遠い村の娘を求めて追いかけ、ようやく再会した娘に告げた。
『王位など要らない、そなたが欲しいのだ』
家臣は追いつき、村の人もみんなが王の愛を知り、二人の真実の愛を認め、そして王は王を捨て、二人は幸せに暮らしたのでした。
「──おしまい」
「その王は愚かであるな」
「起きておいででしたか」
「うむ、最後まで読むのを聞いていたくてな」
洛熙は書を閉じて膝の上を見ると目布越しの始皇帝と目が合う。
半分眠っているのだろうか、声は少し乾いていて普段とは少し違っているが薄暗い寝所の中でも彼の瞳は今日も夜空を閉じ込めたように美しいものなのかと考える。
「王が王を捨てれば、民はどうなるか、考えておらん」
「きっと他に御兄弟がおられたのでしょうね」
「だが、そやつを信じてついてきた家臣をどうするのか、朕には考えられぬ事だ」
「ご気分を害されましたか?」
「……違う、そなたが読むには不似合いだっただけだ」
その言葉に洛熙は暗に身分の差を突きつけられているようだった。
しばらくして小さな寝息が聞こえた。
膝の上で彼は眠りに落ちてしまい、寝所の帳の中には二人きりだった。
洛熙が知る限り、この寝所に妃が入室したことは一度もないのだという。ここは完全な皇帝個人の間で、そこに呼ばれる洛熙は結局その立場にいないから招かれるのだろうと感じる。
深い眠りにつく彼に手を伸ばす。
目を覆っている布に触れた。結び目をほどき、優しく外す。灯りに照らされた顔は穏やかで、戦場の王でも、絶対の皇帝でもない。少しだけ幼く見えるその面立ちはやはり年寄りもずっと若々しく整っていると思う。
指先を見つめると洛熙とは違う骨張って、そして幾度も勝利を重ねたと感じさせる強い拳をしている。
「陛下……」
消えそうな声でそう呟いた。返事はない。分かっている。
起きないで欲しいと思いながらも呟いてしまうほどに恋をしている。
眠っている時だけでなくとも触れたい。
あの人たちのように肌を撫でられたい。嘘でもいいから女として扱われたいと思ってしまう。
今日一日の言葉が繰り返された。
言われ慣れているというのに腹を撫でた妃の姿も、自分を見る男の欲望の眼差しも、全てが醜く恐ろしい。
彼が皇帝でなければ、自分が平民でなければ、現実は違ったのだろうかと考える。
物語の中はいつだって美しく残酷でも優しい、現実はただ残酷で厳しいだけだった。
「嬴政」
あなたが好きです。
そう素直に告げたらいつものように微笑んでくれるのだろうか。
洛熙は彼の髪を撫でると起こさぬように足を抜いて帳から抜け出した。
夜の風は冷たかった。寝所は暖かく心地よかったと身体を覚ますように外にいると足音がして、振り向くとあの宦官がいた。
洛熙は彼が自分を邪魔な存在だと微かに目の敵にしているのを知っている。
今日は本当に嫌な一日だと思いつつ、逃げることなくみつめた。
「こんな夜更けになにを?」
「空気を吸っていました、御用は」
皇帝の間から離れて、いつも始皇帝と過ごす庭園をみていた。
蓮の花は満月の光を得て光り輝いていたかと思ったが、雲が増えて次第に空は暗くなり、ポツリポツリと音を立てたかと思うと雨が降り出した。
「用というほどのことではない、話をしに来たのだ」
「同じ話はもう聞きたくないのですが」
「私も言いたくは無い、だが何も分かっていない、どれだけの方をお前が苦しめているのか」
苦しめている──という言葉に洛熙は目をみつめた。
宦官は話す。
始皇帝は偶然声を気に入って眠れたから褒美を与えたのにそこに胡座をかいていること、それ故に迷惑をしているのに気付いていないこと、洛熙のせいで妃嬪たちは嘆き苦しみ、その悲しみに女官や官吏たちはみんな苦しんでいること。
この宮の中で洛熙が一番貧しい平民の者で、他はみんな良家や王族の出であり、慈悲を貰っていることに気付いてもいないこと、面の皮の厚さはやはり平民だからなのかと次々と告げる彼の口元を眺める洛熙は、彼の溢れるその言葉の数に対して詩を詠むことが上手そうだと感じられた。
「身の程を弁えろ、貴様はそこらの石なのだ。陛下はただそれに躓いてしまったのを、勘違いしている」
「……小石でも当たれば意識せざるを得ませんからね」
「あぁそうだ、だがそこいらの石を愛でるものはいない。お前は愛されない、子も宿さない、そこにお前の価値はない」
断言した宦官は洛熙を見つめた。
「そのうち陛下も飽きられる、そうなる前に自分の身を考えることだ」
そう言い残して去られると激しい雨が降り注いで洛熙の足元を濡らした。
洛熙は俯いて言葉を繰り返しては分かっていると自分に言い聞かせた。
「そんな夢……」
皇帝が宮女を愛するわけがない。
そんなことは最初から分かっている。それでも胸の奥が痛かった。
その夜、ルオシーはほとんど眠れず書庫で朝を明かした。
あれから数日後。
洛熙はいつも通り寝所にて、その時間に待っていたが始皇帝は来なかった。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。
ずっと夢を見ていたのだと洛熙は書庫で本を漁りながら気付いた。
夢から覚めよう。
立派な女の心を持って、夢を見ることを諦めて。
自分に向けられた笑顔も、許された言葉も、触れ合った肌と熱も、胸の高鳴りも、 それは全て夢だったのだと言い聞かせた。
『洛熙』
耳に触れる彼の声が愛おしいと思う中、洛熙は今日彼が来なければ朝になる前に宮を出ようと決めた。
そしてそれは決まりきっていた運命のようで、寝所には今宵も彼は現れなかった。せめて最後にと思った夢は儚く散ってしまい、洛熙は宮を後にしたのだった。
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