薄明かりの灯る寝所で、始皇帝・嬴政は静かに座していた。
灯火は低く、香の煙だけが細く揺れている。外の夜気は静まり返り、ここが宮の中心であることを忘れさせるほどの沈黙だった。
寝所に一人でいることに違和感を感じてしまうのは、それ程まで彼が侍書女官とあの娘と過ごしていたからで。彼は瞼を閉じては指先で三度、寝台の縁を叩くと、どこからともなく一つの気配を感じた。

「報告せよ」

始皇帝の声は低く、感情の起伏を感じさせない。帳の影から音もなく現れた一人の密偵が膝をついた。

「は。お命じの件につき、調べを終えました」

密偵の言葉に短い返事をする始皇帝は既に普段よりもその空気に苛立ちを纏っていた。
洛熙が宮を出たと報告を受け、それについて気にしているのは彼だけ。
心配はあったものの彼女の行く先は簡単に予測できている為、その道中のみを心配したがそちらも問題ないはずだろうと祈るように考える。

「燕姫とその周囲についてでございますが、いくつかの情報を仕入れました。まず初めに陛下が懸念しておりましたように懐妊は陛下の子ではございませぬ」

静かな寝所に聞こえるその声に始皇帝は寝台に座りながら片膝を立てて、そこに肘を置いてゆったりと話を聞いた。予想通りだったかと始皇帝は思い驚くことはなかった。反対にそれも含めて調べさせていたため、妙な安心感さえある。
数多の妃嬪がいる中、皇帝になる前から彼は幾人かの間に御子を設けていた。その為ハッキリではないが薄々どれくらいの月齢か、どれ程の時期かは察しており、始皇帝は記憶力も優れているため、今回懐妊したと報告する燕姫の周期と自身が夜を重ねた日はズレていたのではないかと考えていた。

「周期を調べました。燕姫が陛下と床を共にしたのは三月前。しかし医官が言う懐妊の時期は、それよりも後でございます。さらに、燕姫の側近の女官を辿ったところ、ある男と頻繁に接触していたことが判明しました……若い官吏でございます。燕国出身の者で、燕姫の外戚筋に連なる者」

医官や女官は銭で操り情報操作をしたと言うが、始皇帝はその言葉には思わず口角を上げて「好(ハオ)」と思わぬ口癖が出てしまう。
決してよくやったという意味では無い。あの狐はよく考えていると思えたのだ。
つまりあの女──燕姫は自分が他の男との間に出来た子を重ねて始皇帝の御子に仕立てようとしたのだ。何も知らぬ王であれば自身の妃嬪がそんな真似をするなど思わなかっただろうが絶対にないとは限らない。
しかし考えてもしてみるかどうかはまた別の問題で、それを成し得たことについて肝が据わっているといってよいだろう。

「また侍書殿──ルオシー様について女官達より伺い、彼女に接触していた宦官が見受けられた為、お調べしたところ、興味深いことが」

洛熙──その名を聞くだけで始皇帝の肩が小さく揺れるが彼は平静を保った。洛熙に女官を付けていたが付きっきりなられると女官本来の仕事はもちろん、洛熙自身も気にしてしまうからと言って適度な距離を双方納得いく形で取っていた。
付けていた女官達は洛熙を気に入っている始皇帝側の人間であるため、情報は確かであるのだろうが宦官については何かと目を向けた。

「その者は燕国出身。名は燕祐……燕姫の実弟でございます」
「何故そのような者が宮廷に?しかも宦官だと?」
「は。そちらにつきまして確認いたしましたところ、燕姫と官吏の手が回っておりました」
「実に見事のやり口だな、つまり燕姫の手に掛けられた者がこの宮廷に潜んでいるのではないのか」
「常にお調べ済みでございます」

流石だと始皇帝は口角を上げた。
弟となる宦官は姉を慕っていたようであり。洛熙に近付いては始皇帝から離れることを告げたり、宮廷内にあることないこと噂を流したり、そしてそれに魔を受けた官吏達が洛熙に接触を図っていたことも全て報告される。
宮廷内とは広いが狭い。噂話が出てしまえばその出処が必ず見つけられてしまう。まさに火のないところに煙は立たないということだろう。
その為、洛熙が妃嬪の茶会に招かれ傷つけられたことや、その日に燕姫と言い争ったのか頬を打たれたことも始皇帝は静かに聞いた。

「両頬を張られた洛熙殿でございますがとても力強い言葉を返したと」
「教えよ」
「は、洛熙殿は『陛下が望むのであればそう致しましょう、しかし私は陛下の侍書でございます。寝所を共に過ごすのも務め、しかしそうですね……あなた様方とは違うというのでしたら、私はあの方の寝所に招かれた』と言い切る前に頬を張られたようですが女官が耳にしておりました」

始皇帝は目を丸くした。
そしてしばらく黙ったあとそれは愉快に声を出して笑った。
あの洛熙が?と言いたくもなるがどうやら本気で返事をしたから頬を叩かれたのだろう。絶対に彼女が口にしないような下世話な言葉を自ら告げたというのは、それ程までに許せぬ事が言われたからなのだろう。
どんな言葉を言われたのかと聞いてやりたくなるが響き渡るほどに笑った始皇帝は先程までの空気が途端に変わったように感じて、目布の下に溢れた涙を軽く拭った。

「哈哈!なんと洛熙が……好(ハオ)、それでこそ朕の侍書だ」

ふぅ、と一息ついた始皇帝に密偵は話を戻し報告を続けた。

「また燕姫には以前より男の影が多くあったようでして、陛下が統一する以前の燕国では数多の男を抱え込んでいたようであります」
「……なんとも狐らしいな」
「宦官、官吏、護衛兵。金銭を渡して関係を持った者もおり。気に入った男はみな彼女の手中に収められたと」

まさに悪女といえるだろう。
公主であればまだしも、その悪癖は妃嬪になっても収まらなかったのかと知ると始皇帝は甘やかし続けた燕王についてを考えてしまう。
始皇帝が相手でなければ燕姫は国を支配する女になったかもしれないと考えつつ、話をまとめあげる。

「つまり、その狐の姉弟は噂を流し、妃嬪を焚き付け、男を貪り、あまつことさえ、朕の侍書を宮から追い出したということか」

密偵は帳の奥で顔を伏せたまま「左様でございます」と返事をするのを聞いて、始皇帝は腕を組み瞼を閉じてふんふんと笑みを浮かべたかと思えば、途端に笑みを止めた。

「不好(ブーハオ)、やってくれたな」

女とは末恐ろしいと思う彼は立ち上がり、燕姫は何処にいるかと問うと今晩は後宮にて宴をしていると告げる。妃嬪達には不自由なくとさせているがまさか洛熙が去ってすぐに盛大にしているとはと思わず舌を打ってしまう。

宴には主役がいる。
それはこの宮の主──否、この国の主たる始皇帝であるのだと彼は告げて寝所を出ていった。

夜更けの回廊は静かであるが始皇帝が間を出れば直ぐに内廷付きの宦官や女官達が何事かと背を正しつつ後を着いていく。
その轟々たる雰囲気に宦官や他の官吏はもちろん、丞相や御史太夫や兵も呼び始め、始皇帝はそれらを気にせず後宮の広間に足を運ぶが、その騒々しさに後宮にいる妃嬪や女官に宮女も思わず時間を問わず顔を覗かせる。

後宮の奥にある広間には、夜にも関わらず灯が幾つも灯されていた。
香が焚かれ、楽の音が緩やかに流れ、笑い声が響く。
燕姫はその中央にいた。
絹の衣を纏い、長い黒髪を飾り、まるでこの宮の主であるかのように堂々と座している。その周囲には数人の男たち──弟の燕祐に宦官や若い官吏が控え、酒を注ぎ、葡萄を差し出し、彼女の機嫌を取っていた。

「ふふ……よいわ、もう少し近くに」

燕姫は足を組み、男に杯を持たせる。
その姿は皇帝の妃というより、まるで王のようであり。
他の燕姫と仲の良い妃嬪達も同じように男を傍においている姿は相当に乱れたものであった。

「ああ良い顔をしているわね、今宵わたくしの寝所へ来て奉仕なさい」
「しかし陛下に申し訳が……」
「構わないわ、何せわたくしはあの方の御子を授かっているのですから」

いま怒られたところで何も怖くない、それにあの人は気付かないと笑う燕姫こそ気付いていなかった。広間の帳が開いていたことを。
誰と気付かずに欲に溺れていた頃、楽の音が止んだ。

「好!随分と良い宴だな」
「……陛下」

それまで男を両手両足では足りぬほどに置いていたような燕姫は始皇帝とその後ろに控える家臣たちを見るなり、途端に態度を変えた。
始皇帝の灯に照らされたその姿は静かで、しかし逃げ場のない威圧を放っていた。燕姫は一瞬はゆっくりと立ち上がり、衣の裾を整える。

「このようなところへ。お体に障りますわ」

男達は慌てて頭を伏せ、妃嬪達は顔を青白くさせて直ぐに顔を隠すようにした。
先程までの淫らな空気は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

「お呼びいただければわたくしが伺いましたのに」

その声は柔らかく、いつもの淑やかな妃のものであり。聞く者はみんな彼女のその容姿や文武両道な姿を見ては理想の存在だともいえると思えたが、その本性は広間を見るだけでわかる。
始皇帝は何も言わずにただ広間をゆっくり見回す。
男達。酒。香。笑いの残り香。

「宴をしてると聞いてな朕も参加したくなったのだ」
「まぁ嬉しい、御子を授かった喜びを、皆が祝ってくれておりますの」

そう言って彼女は始皇帝に手を伸ばした。
彼もまたいつものように口元に笑顔を作った。
そして伸ばされた腕を強く叩き落とし、氷のような声で問いかけた。

「誰の子だ」
「陛下……?」
「安心せよ、そなたの報告はもう全て聞いてある、腹の子の父も、弟の宦官を利用し医官や女官を金で買って騙したこと、実によくやってくれた」
「なにを、いっているのでしょうか?」

シラを切ろうとする女の額には薄い汗が滲んだ。
始皇帝は笑みを浮かべて、広間の隅にいる宦官・燕祐をみつめると確かに二人はよく似ていた。
あまりにも美しい燕姫に、それに騙されてもいいと言えそうな男たちもいるだろうが、始皇帝はそうは思えなかった。自分だけを騙すならともかくこの者たちは侍書・洛熙に手を出してしまったのだ。

「姉弟でよくしてくれた、感心したものだ、燕国の自身の血縁を密やかに混ぜて、宮を乗っ取りたかったか?であれば朕に直接挑めばよいであろう、なにもそなたにとっては"平民の娘"を目の敵にせずともな」

始皇帝には分かっていた。燕姫は自尊心がとても高いことを。
だから尚のこと洛熙が許せなかったのだろう。指先が震えて、次第に顔を赤くさせる美女の顔に青い血管が浮き上がるなり声が挙げられた。

「そもそも陛下が悪いのです。あんな自分の身分も弁えもしない地味でなんの取り柄もない男を喜ばす術も知らないくだらない女に入れ込んで、わたくしはあなた様の妃嬪なのです。あなたの子を望んで、あなたに特別に扱われたいと願って何が悪いのよ。皇后になりたいと思うのは当たり前でしょう!?王の妃が王の隣に座りたいと願うのが罪だとでも?」

それをあんな埃臭い女に!!
誰が奪われるものか!!

そういった燕姫の声と態度には誰もが何も言えなくなった。
女の嫉妬ほど恐ろしいものは無かった。

「男を侍らせて何が悪い?あなたも女を抱くじゃありませんか、一体何度あの娘と寝たのですか!!あなたはあの娘に夢を抱いてるだけなんです、あの娘も所詮は女、きっとあなたではない男に抱かれているんですよ」

始皇帝はなにも言わずに言葉を受け止めた。
これ程までに人を醜くさせたのは己だとも感じ傷付くべきだったのかもしれない。

それ以上に洛熙の事が頭に過ぎった。
二人だけの寝所の帳の中で膝の上に頭を乗せると優しい手で撫でられる。
「嬴政様」と唯一その呼び方を許した彼女がその言葉を発する時、その顔はいつも愛おしい人を呼ぶ目をしており、もっと呼んで欲しいと思った。
身分を捨てて彼女と共になれたらと思う度に、それは決して有り得ない夢なのだと彼は理解しており。泣きたい気持ちになってしまう。
この世で一番愛する人に、本当に与えたいことが出来ない辛さを目の前の女は知らないのだと感じる。

「そうだ、それでよい、欲しいものは全て手にする、それに間違いはないだろうな」

始皇帝は足を進めて女の前にしっかりと現れて見下ろした。
彼は目元を隠す布を解いて初めて妃嬪をその目に焼き付けた。
星を宿したその瞳は宇宙のように暗闇を感じる。

「だが、皇帝の子を偽ったことは赦されぬ」

家臣の動く音が聞こえた。
既に広間は包囲されており、兵は誰一人として出ることを許さぬようにしており。宴の席にいた男も女も怯えていた。

「燕姫の腹を掻き出せ」
「そ、それは」
「そして燕祐を燕姫の前で殺せ、燕姫に関わりある血縁の者すべてをだ、逃げるなら腱を切れ」

始皇帝は指差しをして誰にどう処分を与えるかを次々指示していき、兵が一人ずつ捉えてどこかへと連れていき、燕姫は怯えて腰にすがりついた。

「陛下!!おやめください!お許しを……ど、どうか、弟だけでも」
「大切なのか」
「もちろんでございます」

どれだけ苦しい時も弟と共にいたのだと泣きながら告白する彼女に対して始皇帝・嬴政は微笑んだ。

「朕にとっての洛熙のようなものだな」

尚更処刑だと彼は女の頭を撫でてやった。
兵に捉えられた彼女が泣き叫ぶのを聞きながら始皇帝は静かに呟く。

「そんなにも朕のそばに居たいと願うなら与えてやろう。いつまでもな」

燕姫は初めて理解した。
この男は怒っていない。憎んでもいない。
ただ──皇帝として処分しているだけだ。
その無慈悲さに、その静かな残酷さに、人は身体は震えさせた。
六国を支配する王とは如何なる存在かと改めて理解する頃、宮殿内は赤い血で染まったのだった。


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