宮を抜け、都を離れ、長い旅路の果てに洛熙は巴蜀へと戻った。
巴蜀への数日の旅は女一人ではあったものの、比較的穏やかに安全に戻ることができ、村を初めて出て都に向かった行きの事を思い出しては、あんなにも期待に満ち溢れた時間だったのに、今の自分は疲れきっているなと感じるほどゆっくりと帰った。

人で溢れていた都から離れ、自分の村に帰ってきた洛熙はいつぶりかに感じるほど久しぶりに何物でもない自分として生きていた。
山間部の村は小さいが人が穏やかで優しく、洛熙が戻ってきても彼らは優しく受け止めて「都は恐ろしかっただろう」と言い、洛熙を慰めてくれた。

しばらくは何も考えず休みなさいといわれた洛熙は子供の手伝い程度には家のことを手伝い、それ以外はゆったりと村を探索したり、詩を詠んだり、山の中で陽の光を浴びてみたり。どれも秦では出来ないことだと感じた。

村に戻って一週間ほど、洛熙は母に頼まれ隣の家に野菜と餅を届けに歩いていた。日中は日差しが強いが自然に囲まれた村では木々が光を吸収して美しく輝いている。
広い畑と疎らに建つ家々、小さな場所に押し込められたような都とは違うと思う反面、洛熙の中では消えない思い出ばかりが蘇る。

膝の上に乗せた人の頭の重み。
朝まで薄い帳の中で過ごした時間。
書を読む声と静かな寝息。

夢は諦めても残った感情だけは未だに消せずにいる。
自分の人生は長いはずだ、両親を見ていればわかる。
これからもっと色んなことがあるのだからと思いつつも、そこにはもう自分がいま胸に思い描く相手はいないのだと思ってみては胸が少しだけ締め付けられ、洛熙は片手で胸を抑えた。

「洛熙」

考えている間に名前を呼ばれた洛熙が顔を上げると向かいから畑仕事の帰りなのか鍬を担いだ老人──この村の村長がいた。
腰も曲がらずに真っ直ぐと立っている老人には昔からなにかと世話になっており、洛熙が戻ってすぐに挨拶に行った際も優しくしてくれた。
この村全体が優しかったことに洛熙は人の温もりを再確認し、宮という限られた小さく狭い場所では人も鬼となるのだろうと改めて考えた。

「戻ってきてからどうだ?」
「はい、少しゆっくりさせてもらってるので休めてます、いい加減働きゃなぁなんて」
「それはいいことだ、草抜きのひとつからでも始めるといい」

村長の言葉に洛熙ははにかんで返事をして分かれるかと思ったものの村長は少し悩んだ顔をして足を止めており、洛熙は小首を傾げた。
何かあるのだろうかと問いかけると少し悩んだあと村長は「なぁ洛熙」と問いかける。

「お主ももう元服が過ぎただろう、戻ってきて早々だがお主が気になるという者がいてな、どうだ?少し考えてみないか」
「それは……」
「宮仕えから戻ってきたばかりだが、悪い娘だと思っている者は誰もおらん。むしろ都で働けたのは立派なことだと村のみんなが思っておる」

村長の言葉は優しかった。
責める気など微塵もない。ただ普通の人生を勧めているだけ。
村の娘として。妻になり。子を産み。ここで生きていく。
当たり前にみんながしていることを洛熙にもさせてやりたいと思ってくれているのだ。村の人は洛熙にとても優しくまるでみんなが自分の娘のように扱ってくれる。
悩む彼女に村長は相手のことについて、歳も近く、村一番の働き者で畑も大きく安心感のある男で、彼を求める女性はいたが彼は洛熙が戻ってきたのなら、と掛け合ったらしく洛熙はそんなに情熱的な相手がいるのかと驚きつつも「考えてみます」と返事をした。

そんな風に自分を思ってくれる人がいるのかと思うと不思議だった。
村にいた時には同じ年端の女性は確かに早いと恋をしたり嫁いだりしていたが、洛熙には無縁の世界だったから。
宮にいた時のあれは違う。
そう言い聞かせては一人帰り道を歩く、空はもうすっかりと茜色に変わって、山々は朱色を含んで眩いほど明るく美しかった。

◇◆◇

洛熙が戻ってきたから宴をしようといわれ、村一番の村長の家の庭に洛熙は招かれて、村人たちと酒を飲み交わしたい。
都に行って二、三年の月日が経った洛熙は女性として美しくなったと父ほどの男にいわれて苦笑いしては、他の女性に失礼だと怒られるのを平気だと返事する。
下手な下心もない言葉は嫌な気持ちにはならない。
反対にこの空気感が自分の育った場所だったと思い出す。
洛熙も村長の奥さんや他の女性のように手伝いをしようとするが都帰りの洛熙は座っていなさいと怒られてしまい、すっかりと座ったまま酒を飲む羽目となった。

「それにしてもウチの村から秦国の宮仕えが出るだなんて誇らしいなぁ」
「そりゃあお前、洛熙は村一番の秀才だからな」
「おまけにこんなに美人だ、都で男に取られず帰ってきてくれてよかったもんだ」

外にまで響き渡りそうな声で話をする男達に洛熙は遠慮気味に笑う。
彼らは心からそう思ってくれているのは洛熙も分かっており、有難いほどに自分を思ってくれているのだと感じると嬉しかった。
村の宴は、都の宴とはまるで違う。
豪華な楽器も舞もない。
大きな鍋で煮込まれた肉と野菜、粗い酒、焚き火。
だがその分、笑い声は大きく、肩を叩き合う音が絶えない。

懐かしいと思う洛熙はこんな風に鍋を囲んだのも村を出る前で、宮では仲の良い子達もいたがいつだってみんな仕事に追われて、時には宴の片付けをしながらみんなで盗み食いをしていたなと思い出す。
あそこで学んだことは図太さと人の悪意だったのかもしれない。
ダメな考えだと思いつつ、洛熙はすっかりと遅くなってきたことに気付いて、周囲も洛熙の帰りを祝う宴だというがすっかり酒に取られており。戻ってきたばかりの彼女が疲れていることも理解して引き止めずに帰らせた。

「洛熙!」

蛍が飛んでいるのを眺めながら夜の道を歩く頃、背後から声が聞こえたかと思えば足音が聞こえた。
名前を呼ばれた振り向くと少し慌てた様子でやってきたのは背の高い男であった。

「李(リー)兄さん」
「送ってく」

李兄さん──そう呼んだ相手は洛熙と同じ村で幼い頃から育った五つ年上の男だった。記憶の中の彼はまだ少し幼く思えていたが数年で立派な大人へと成長していた。
肩は広く、腕は日に焼け、農作業で鍛えられているのが分かる。
やんちゃな少年だったのがその顔立ちから見てわかるが、その反面村での仕事については昔から熱心であり、洛熙とは正反対の少年だった。

洛熙は彼の言葉に何も返さなかったが二人は自然と歩いた。
彼は洛熙の小さな歩幅に合わせており、洛熙もまた少しだけ歩幅を大きくさせる。梟の鳴く声が聞こえ、木々が揺らめき、蛍が小さく光るのが灯りとなっている。

「疲れただろ」
「ううん、大丈夫……ちょっと久しぶりだから飲みすぎたのはあるかも」
「向こうじゃいい酒を沢山飲んでたから悪酔いか?」
「そんなことないよ、私なんて下っ端だしお給料も少ないから全然、お鍋だって久しぶり」
「そうか……向こうじゃ大変だったんだな」

よく頑張ったと頭を撫でられると洛熙は思わず目を丸くした。
その触れ方はまるであの人のようだと思い、足が自然と止まってしまうが李は驚いた顔をして、直ぐに子供でもないのにそんな扱いをしてしまったことを詫びるが洛熙は少しだけ照れくさい表情をして「いいの」と答えると、彼は洛熙に真剣な目を向けた。

「綺麗になったな」
「え」
「洛熙はすごく綺麗になった、俺昔お前にずっと意地悪してただろ」

突然の言葉に何事かと目を丸くするが彼の続いた言葉に洛熙は筆を隠されたり、書物を取られて落書きされなり、脅かされたりしたが子供同士のじゃれ合いには十分だと今なら笑えるがあの頃はよく泣かされて洛熙の師匠である文官に彼はよく拳骨を食らわされたり、怖い話を聞かされて怯えたりしていたと思い出す。

「好きだったんだ、あの頃から」
「それは……でも……」
「縁談の話も俺からだ、都に行くと知った時、すごく悲しかった……好きだって言いたかったけど、お前は先生と同じ道に行くって決めてたから止めたくなかったんだ」

真っ暗な彼の瞳の中に洛熙は自分が閉じ込められているのが見えた。
真っ直ぐと捉えた彼の瞳は炎を宿したように熱く情熱的で、洛熙に本当の気持ちであるのだと証明するには十分だった。
夢を持っていた自分のために何も告げなかったという彼に、確かにその時いわれても洛熙は何も答えられなかったと考えるが今は違う。

胸の内には別の人がいるが恋というものを知ってしまっていた。
その情熱は誰にも消せない火であると。
自分も持っていた炎を彼は差し出してくれているのだと感じると洛熙は嫌な気持ちにならなかったのは、それが本気だったからだろう。

「帰ってきたら伝えたかった。いい答えじゃなくても、俺は洛熙が好きだという気持ちを伝えたかったから」
「李兄さん……私……」
「それだけなんだ、今は答えなくていい」

困らせたなと笑う彼に洛熙はそんなことは無いと思いつつ首を振った。
家の近くまで二人は黙って歩き続け、洛熙の家の近くで彼は引き止めもせずに去っていった。
その背中は広く大きく、抱きしめると安心感がありそうだと思いつつ洛熙は家ではなく、さらに村の外れに向かって歩き出した。

古い家が一軒、山の傍に建っていた。
数年以上、誰も住んでいなければ手入れもされていない状況をみつつも足を進めて戸を開けて部屋に入った。
部屋の中には紙と墨の香りが漂っており、小さな家の中は少しだけ荒れていて、洛熙は落ちたものを直したりしつつ、机を見ると小さな木彫りの落書きがあった。

「懐かしい」

ここは村の子供達の学び舎だった。
洛熙の師となる文官の家で、学び舎というが学んでいたのは洛熙だけで、他の子供たちは文官の朗読を聞いては眠ったり、文字を書くのに飽きて筆を投げ捨てたり。
子供というのはそんなものだと理解していたが故に洛熙のような勤勉な娘は彼の心に触れたのかもしれない。宮廷に仕えていた文官であったが長年の政治に疲れて生活を送っていた文官の気持ちが今の洛熙には分かる。
民の為としてあの小さな場所で全てが行われるが、政治や人の欲に塗れたあの場所にいると心が苛まれてしまう気がして、洛熙が文官になりたいと子供ながらの夢を告げた時、頭を撫でながら笑った彼の表情がなんとも言えなかったのを思い出す。

「お師様、洛熙はただいま戻りました」

おかえりと言われたかった。
骨張って筆ばかりを持っていた手で優しくされたかった。
しかし彼は処罰を受けた。
ある日、成都の兵と官吏が現れ連れ去られた。村人たちはどれだけ文官が良い人であっても自分達を守るために知らないフリをした。一番懐いていた洛熙は母に抑え込まれ泣き叫んだ。

「……貴方もまた私と同じだったのですね」

洛熙はある一冊の書物を手にして読み終えながら呟いた。
それは文官が書いた書であり。
彼は若い頃、それこそ前秦王の際、一人の妃嬪に気に入られてしまったが愛する妻のために拒絶した。
その結果、宮殿を追い出され遠い成都の宮で文官をしていたが家柄や元宮廷の人間ということも重ねて長年苦しめられ、結果として逃げ出した。
妻も失い、静かな余生を過ごそうとしたが、宮仕えの際の濡れ衣が起き、巻き込まれたのだというがそこには王の文字は一文もなく。洛熙が味わったような政治とは別の人の感情だけのものなのだと理解する。

洛熙は書を閉じて片付けつつ、一人部屋の中を見て回る。
幼い子供だった自分達がどう過ごして来たのかを思い出しつつ、洛熙は一つの棚の上を見た。いつも李に筆を隠されていた場所で、小さな洛熙は取れなくて泣いていたが大人になった今は背伸びをするとしっかり見える。
そこには筆が一本と、そして何かが彫られているのがみえて李のイタズラだと思いつつ何を書いてるのか見るために覗き込むと、そこには『洛熙好きだよ』と書かれていたことに洛熙は眉が下がってしまう。

「恋とは、愛とは、なんなんでしょうね」

誰に伝えるでもなくそう思った。
真っ直ぐ愛してくれる人がいるのに、それなのにどうしようもなく自分が不幸せになるような相手を見てしまうのだ、人とは難儀な生き物であると洛熙は悩みつつ瞼を閉じると一人の男がいた。

『好』

聞き慣れた彼の口癖が聞こえた気がして洛熙は瞼を開けた。
外は明るくなっていくのに膝は今日も重たくなくて足のしびれもない。
あの日々がもうずっと懐かしくて恋しいと思いながら洛熙は胸に手を添えた。

「嬴政様」

誰にも言えないその言葉をずっと抱えて生きていくのだろうか。
洛熙はもう呼ぶ権利もないのに呟いてしまう。
自分の名前が呼び返して貰えるように。


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