巴蜀に戻ってしばらく、洛熙は昔のように畑仕事を手伝ったり、家のことをしたりと宮女としての仕事は違う仕事をした。
洛熙には弟がおり、彼らと両親でも人手は十分だが洛熙も一人で静かにすることはできなかった。宮とは違い村には書庫もないためとにかく暇を持て余すというのも理由にあった。
朝一番に水を汲んできて欲しいと頼まれて洛熙は二つの水桶を受け取って村の井戸で汲んでいた時、李が現れて重たいだろうと水の入った桶を簡単に持ち運んでくれた。
村では李が洛熙を想っていたことは知られているようで周囲の人間にからかわれては二人は思わず顔を伏せるが、李は無理には距離を詰めないものの洛熙にはっきりと好意を続けてくれた。
「困ったことがあればなんでも言えよ」
「うん、ありがとう」
彼の好意はとても分かりやすく不器用で素直だった。
洛熙は彼の優しさが嫌ではなかった。
素直に受け入れるがその裏に別の人がいるということも消えない事実で、彼はそれも微かに理解していた。
幼かったヤンチャな少年はあまりにも真っ直ぐと愛情を注いでくれる。
村の女達も彼を揶揄うように声をかけるが李は「好きなんだから仕方ねぇだろ!」と声をあげることに洛熙は驚く。
気持ちをそんなに素直に口に出していいというのが不思議にも思ったのだ。
宮廷内では何を思っていても口にしない方がいい。下手な言葉が噂になって尾鰭を付けて自体を悪くさせる。命の危険さえあるような場所で気軽に何かを告げることはできず、皇帝の言葉だけに従うだけが生きる道ではなかった。
誰もが敵で、誰もが悪意を持って、人の醜さがひとつの釜で煮えたぎっているようであり。それを唯一無かったようにしてくれるのが薄い帳の中で書物を片手に過ごす時間だった。
「眠たいか?朝弱いもんな」
「へっ平気だよ、李兄さんは反対に朝早すぎるんだよ、もう畑仕事終わったって……何時にしてるの」
「そりゃあ朝ゆっくりして、昼はお前と過ごしたいからだろ?」
「え……ぁ……そう」
「ついでに朝飯食ってけよ、母ちゃんも洛熙に会いたがってる」
李は本当に洛熙のために尽くしてくれていた。
暇さえあればまるで小鴨のようについてきて、用事ついでと言いながら真反対の洛熙の家に来たり、彼女が畑仕事や庭の手入れをしていれば手馴れたように手伝って。
もうすっかりと村では彼が洛熙に激しい求愛をしていることに対して、本格的な夏が近付いて来ようとするのに春に逆戻りだと笑われて、洛熙はポカポカとした優しい日差しに焼かれては照れてしまう。
洛熙は李の家の畑を手伝った。
彼の家は大きな畑を持っており、洛熙の家の畑は弟たちもいて男手が足りているから要らないと言われてしまい、自分の家よりも彼の家の手伝いをすることが増えてしまっているようだった。
彼の母親の声と共に木陰で休みながら二人でお昼ご飯を食べる。
宮殿にいた時とは違う質素だが握った米は美味しく採れたての野菜は新鮮で、隣の彼も胡瓜をポリポリと食べているのを見ると美味しそうだった。
「なんだ変な顔してたか?」
「ううん、李兄さんが美味しそうに食べてるから」
「洛熙はかわいい顔して食ってるよな」
汗を拭いながら笑顔で告げる彼に洛熙はもうそういう言葉にも少し慣れてきたぞと思いつつ、どういう意味なのかを聞くと彼は小首を傾げつつも閃いた顔をして声を上げた。
「んー……米漁ってるネズミみたいに頬袋に詰め込んでる、あと隠れて食ってた時は見つかったタヌキみたいな顔だな
「ねぇそれ褒めてる?」
もう!と洛熙が怒って彼の膝を叩くとケタケタと彼は笑った。
そういう無邪気な笑顔はあの人に似ている……と洛熙が思うと彼が大きく身を寄せる。汗だくの彼は上半身を脱いで薄い麻の布で汗を拭った。
首の太さや鎖骨、骨格の全てから男性だと感じつつ、洛熙はその身体にかつて皇帝の身支度の準備を手伝っていたことを思い出して、見惚れていると「すけべ」といわれてしまい洛熙は真っ赤になって「違うもん!」と声を荒らげた。騒ぎ立てる洛熙に彼は食べ終えるなり彼女の膝を枕にして横になる。
「李兄さん?」
「ちょっと昼寝な」
そういって瞼を閉じた彼はすぐに寝入ってしまい洛熙は思わず彼の髪を撫でた。
膝の上に人の頭を乗せるのは久しぶりだと思いつつ、あの人よりも短い髪を撫でた。書物を読まずとも寝入ってしまう彼の寝顔は全く洛熙が思い浮かべる相手と違う。
けれども洛熙には十分重なって見えていて、思わず口から言葉が零れた。
「嬴政様……」
風は心地よく吹いていた。
洛熙は静かな午後を味わいながら目を閉じるのだった。
その日は洛熙が文官の家を掃除すると決めて二人で荒れ果てた庭を手入れして、埃臭い家の中を丁寧に掃除した。誰が住んでいる訳でもないが、またここで誰かが学ぶ機会があるのなら使わせてやりたいからで、洛熙も時折やってくるこの場所がいつまでも埃まみれの寂しい場所であることは嫌だったからだ。
二人は幼い頃の話をしながら笑いあって掃除をした。
人の家を漁るのはよくなったが文官が去る前に一部の私物や書物は持ち運ばれていたため、そこまで問題は無さそうだった。
「この辺りの書物すごく懐かしい、最初の頃のやつだ」
「読むのはいいけど片付けもしろよ」
「わかってるけど、ねぇみて李兄さッッ……!」
「洛熙!!」
脚立の上で天井まである本棚を漁っていた洛熙だが思わず身体を揺らすと大きな音を立てて転けてしまい、李は慌てて手を伸ばし、洛熙は痛むかと思えば痛みはなく。
反対に彼の腕に強く抱きしめられ、洛熙は彼の見下ろされていた。
二人の距離はさらに近く、互いに心臓の音が聞こえそうで、吐息が触れそうだった。
自然と顔が近くなり二人は目を細めた時、ちょうど戸が開くと洛熙の弟がお茶を持ってきてくれたのだが、ニヤリと笑うなり大きな声で村人達に報告しようとするため慌てて離れた二人は「ごめん」「いや俺も」と身を縮めた。
互いに耳や首まで真っ赤になってしまうと洛熙はやはり李はあの人じゃないのだと感じた。
『好、こんなことで照れるとは初心だな』
どれだけの距離にいても余裕を持ってそういったあの人は数多の妃嬪がいるが、目の前の彼には洛熙しかいなかった。
だからきっとそんな反応をしてしまうのだろうが、洛熙にとってそれはとても愛らしく感じられて、自分の反応を見たあの人が『好』という言葉の意味を理解してしまう。
人を重ねることはよくないと分かっていても洛熙は簡単には忘れられず、切り離せなかったが、彼も薄々何かを察していた。
夕焼けの道を歩く中、彼は「都にはいい男が沢山いるだろ」と探るように言われ、洛熙は否定しなかった。村と都は全く違う場所であるため、新鮮であり、官吏達でさえも違う世界の人だと洛熙は思っていた。
それでも本当に"いい男"というのはきっと限られていて、洛熙にとっては彼もまた十分にいい男であると思いつつ、歩く度に微かに小指が触れ合うのを感じて、洛熙は盗み見ると彼は真っ直ぐと前を見るため、少しだけ小指を絡めた。
「洛熙……っ」
名前を呼ばれても知らないふりをしてみると彼も何も言わなかった。
幸せだ──と感じた。人の憎しみも嫌味もなにもなく、ただひたすらに感情を表して言葉にする。
洛熙は書物について考えた。あれらは自分の口から出せないから文字にしたのかと思えた。
隣の彼は読み書きは出来ず、書の話も国の話も出来ない。詩の一つを詠んでみても分からない顔をする。洛熙とは正反対であるが昔から傍にいた彼について嫌な思いはない。
「じゃあここで」
「おやすみ、また明日」
去っていく彼を見送り、一通り一日を済ませても眠れない夜。
家の裏の山に登って一人で夜空をみた。
巴蜀の空はとても綺麗で宮殿にいた頃は見えなかった星がよく見える。
夜空を見る度にあの人の瞳を思い出す。
目元を布で隠した彼の本当の素顔はどんな宝物(ほうもつ)よりも美しく気高く、そして孤高の皇帝のものだった。
皇帝とは天から命を授かり、民を導く者だというが洛熙はその通りだと思えた。自分の声を褒めてくれるあの人の声を洛熙はいつも心地よいものだと思えて、自分こそあの声を聞いていれば寝てしまうのではないかと思う時もある。
自分が夜空を見る時、彼は何をみて自分を思い浮かべてくれるのだろうか、書を見た時?誰かの声を聞く時?寝所に一人で過ごす時?
そう考えてみては自分にはなんの特徴もないのだなと気付いて小さく笑った。座り込んで空を見ていると手のひらになにかが触れて驚くと山猫がいた。
猫よりも大きな巨体の山猫は洛熙の匂いを嗅いだかと思うと膝の上に乗って丸くなってしまい。洛熙は思わず声を出して物語を読む。
「むかしむかし、あるところに戦乱の世を終結させた王と自分の地位もわからぬ愚かな宮女がおりました……」
そうだ、愚かだったのだ、自分はあの時なにも知らない哀れな女であったからこうなったのだと彼女はひとりで涙を零した。
巴蜀の夜は冷えていた。
それがまた少し彼女を寂しくさせてしまった。
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