祭りが終わる前に洛熙は始皇帝を村の外れの文官の家へと招いた。
手入れし直した家の中はまだ少し埃臭いが勘弁して欲しいと思いつつ洛熙は馬を家の傍に置いて部屋に戻ると始皇帝は部屋の中を眺めていた。
洛熙は宮に帰ると告げた。
しかし、もう夜は遅いため明日の朝、出立してゆっくり帰ろうと告げたが泊まる先もない為、洛熙は迷った挙句に文官の家に来ていた。
家主がいない家だがいたら何を言われるかと思いつつも多分許されるだろうと思った。あの文官は洛熙を実の娘のようにかわいがっていたから。
洛熙は始皇帝が寝られるようにとどうにか場所を整えたりと用意していたものの、始皇帝は彼女を手招いた。
久しぶりに乗せた頭は何故か軽く思ったが、それはここ最近は李に膝を貸しており、彼は始皇帝よりも体躯がよかったのでそのせいかと思いつつ髪を撫でた。
久し振りに何かを読むのかと思いつつ洛熙は何をしようかと思う頃、目布を外した始皇帝が洛熙の頬を撫でて「朕の話を今宵は聞いてくれるか?」と掠れた声で問いかけるため。勿論だと耳を傾けた。
「もし口にしてよいのなら、朕にはこの世に二人、何よりも大切な人がいる。一人はそなただ、そしてもう一人は以前聞かせたかもしれぬが、我が母──春燕という趙人の世話人だ」
洛熙は思わぬ言葉に目を丸くした。
この世に二人だけ彼にとって大切な人がいるとして、その中に自分がはっきりと告げられたからだった。
そして一度だけ聞いたことがある──春燕という女性の名と母という言葉。
「朕は昔から人の悪意と嫌悪の下で生きていた。そしてそれはいつしか身体に現れ、人を傷付ければ自分に同じ痛みが生じるのだ」
「医書で読んだことがございます。感覚が共有されるようなものですね」
「好、流石は侍書、博識だな」
洛熙も聞いたことがある程度のもので知らなかったが彼がその体質だと初めて知った。
趙の人質として育ったが故だと春燕は告げ、彼女は趙人でありながらも誰よりも優しく、そして子供として扱ってくれた。母も父も知らない少年・嬴政にとっての春燕は全てであり。彼女を実の母のように想い今も慕っていた。
「彼女は朕を守り亡くなった。しかしこの目隠しをくれたのだ、これがあれば多少痛まないだろうと」
「だから、付けておられたのですね」
不思議だと思った。
始皇帝が目布を外すことは滅多になく。民や家臣でさえも彼を盲目の者、またはなにか邪悪なものを宿している。などと噂するほどであり、洛熙は初めて見た時、その瞳の美しさのせいだと思ったと素直に口にすると彼は声を出して膝の上で笑った。
「愉快な発想だな」
「笑わないでください、本当にそう感じて、取られるからかと……」
「はははっ!全くそなたの発想は文学的で美しいが、残念ながらそんな理由だ」
「そんな理由って……大切なことですよ、瞳は何もかもを吸収いたします。だから痛みもきっと見て知ったのですね。陛下は誰よりも民を思う優しい方ですから」
その言葉に始皇帝は──いや、嬴政はこれまでも同じ言葉を受けていたが、それらは全てただの世辞で、本当の言葉を今はじめて受けたのだと感じられた。
慈しむように彼を見つめて、優しく頭を撫でながら、誰よりも優しい王の痛みについて、それは計り知れないものであると感じる。
だからこそ、嬴政は洛熙の長い髪を撫でて、その光を閉じ込めた瞳を見つめた。
「その中で出会ったのがそなただった。そなたの声を聞いた時、痛みが和らいだ。春燕を失った日から朕は眠れぬ夜を過ごしてきた。宮にいて安心して眠れる夜などはもちろんあるわけがないと知っていた」
しかしあの日、偶然だとしても寝所に現れた洛熙は自分の立場も放り投げて苦しむ嬴政に寄り添い、背中を撫でて話をしてくれた。
六国を統べる皇帝となってすぐの事、封禅の儀も終えて戦い疲れと痛みを味わい、宮に戻れば人の欲に渦巻かれた苦痛に襲われる。
王である以上は痛みを受け入れねばならない、民の為にそれでもと思う時、洛熙が全ての救いに変わった。
「だがどうしようもない、そなたは平民の出で、朕は皇帝、朕はあらゆる規律を作り、それを厳守せねばならない身。もし皇帝が権力だけで破ってしまえば民に示しがつかなくなる」
「はい、承知しております」
「そなたを守る力がないのだ」
あの小さな世界には幸せは存在しない。
きっと憎しみと諍いが続いてしまう。
それでもいて欲しいと願う自分がどれだけ残酷であるのかを嬴政は分かっていた。
王であると言って、いつものように堂々としていたいのに、洛熙を前にするとできない。失うことが怖く。何かがあれば感情をあらわにしてしまう。身体を丸めて怯えるようにそう告げる彼の心を洛熙も深く理解していた。
村に戻ったからこそ、以下に外と中の世界が違うのかは理解していて、それでも自ら素足で硝子を踏むように、あの世界に戻りたいと願うのは……
「嬴政様をお守りしたいからです」
それは物理的にではない。
他の兵士のように戦うことなど洛熙には出来ない
ただ出来ることは寝所の薄い帳の中で彼に膝を貸してやることだけ。
「今晩だけです、宮に帰る今晩だけ、この部屋では私と貴方はただの"人"でございます」
誰も皇帝としてのあなたをみていない。
この部屋には誰もいない。
外の月明かりが部屋に微かに差し込むだけ。
朝になれば二人は皇帝も侍書に戻る。
それでいいと二人は決めていた。
決して嬴政は洛熙を抱かない、彼女を妃にはしない、洛熙も彼に何も望まない。
「だから今晩だけ、私を女に見てください」
洛熙の瞳は月や太陽の光を閉じ込めたように眩いと気付いたのはいつからだろうか。
書物を読む時の瞳はまるで光を浴びたように煌いており、それを眺めるのが好きであった。閉じられてしまうと早く開いてくれと願うように寝顔を眺めて髪を撫でる。
新しいものに触れると世界が広がるようで楽しいと笑う彼女は水の波紋を楽しむ子供のように無邪気で、美味しいものを食べた時の彼女は世界が逆さに返されたように驚いて、帳の中にいた彼女は嬴政の"玉座"であった。
起き上がる嬴政は洛熙をみつめた。
誰よりも美しい彼女の首筋を撫で顎先に触れる。
僅かに上向かせてやれば耳を赤くして濡れた瞳の洛熙がいた。
優しく触れるだけ、それ以上は何もしない。
赤く染まる洛熙の顔はクコの実のようだった。
「好」
そういった始皇帝の言葉に彼女は目頭を濡らして同じ言葉を返し。
二人は巴蜀の冷える夏の夜、ただ抱きしめ合って目を閉じた。
尊いものに触れ合うように。
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