巴蜀から戻る道のり、二人は一頭の馬に二人で乗って帰ろうとしていたが、明朝やって来た李が一頭の馬を連れてきてくれた。

「俺は洛熙の幸せを祈ってる」
「ありがとう李兄さん」
「そういえば縁談のことは心配しなくていい、相手には伝えてたし、ダメだったら戻って来いって言われてるから」

その言葉に洛熙は李の縁談相手もまた彼を深く愛していたからこそ、そう告げたのだろうと理解して頷いた。頭を撫でようとする李の手を叩いたのは始皇帝であり。昨晩の優しい雰囲気はなどはなく普段通りの傍若無人の唯我独尊「皇帝であるぞ」といわんばかりの表情をしていた。

「なんだよ」
「こやつは朕の侍書だからな、無闇に触れるな」
「わっ、あっ、李兄さん」
「おい!!貴様!!」

始皇帝の言葉を無視して洛熙の頭を豪快に撫でた彼は笑った。

「嫌になったら帰ってこい、いつでも待ってる」

ずっと彼は良き兄だったと思いつつ、洛熙は馬に乗ろうとした……したのだが洛熙はとんでもなく下手くそだった。
馬に乗る事はもちろん、その後の事もままならず、二人の男は黙り込み馬は一頭にするか?いやもう一頭何かあった時用に……と話をした結果、始皇帝と共に一頭の馬に乗り、途中で迎えを寄越すように伝書鳩──もとい伝書鴉を飛ばすことで解決をさせた。

「あんなので分かるのか」
「はい、鴉は賢いですからね」

自信気に告げる洛熙に始皇帝はこの娘はこういう所があると思いつつも村人に挨拶をして洛熙は巴蜀を後にした。
村人達は嬴政が皇帝であると言われた際には驚いたものの、洛熙の態度をみるなりまるで村の者と変わらぬような態度をした為、彼はもう少しこの村にいたいと思ったが国を背負う以上は許されまいとして洛熙と二人ゆっくりと帰った。

「嬴政様が迎えにいらっしゃると思いませんでした」
「不好、朕のものを取りに行くのだから当然であろう」
「だとしても、とても嬉しゅうございます」

振り返って笑顔を見せる洛熙をみるとその眩さに始皇帝は目布の下で目を細めた。毎度の事ながら彼女の輝きは黄金よりも眩い気がしてしまう。

「巴蜀は良い場所だな、あまり来ることはなかったのだが、空気も良く居心地もだ」
「ここは特に山間部ですから、他よりもずっと空気が美味しいんですよ、緑も多くて秋になれば春は桜が、夏は緑が、秋は紅葉が、冬は……ええっと、寒い、ですね」

自分の好きな場所を大切な人に褒めてもらえることに喜ぶ洛熙は無邪気で、宮殿内では見たことの無い表情の数々に、彼女がどれだけあの小さな場所で自分のように抑制されていたのかを考える始皇帝は思わず彼女の頭に顎を乗せて凭れるように抱き締める。
馬が一頭しかいないのだから、か弱い娘を歩かせる訳にもいかないと理由を付けつつも始皇帝は触れては洛熙を愛でた。
巴蜀の山間部を歩きながら村を思い出し、村の人々も思い返しては、洛熙が何故ここまで無垢に優しく育ったのかを始皇帝は理解する。あの村の人間にこれまで彼が受けてきた痛みや苦しみや悲しみは一つも感じなかった。

洛熙の手紙から事情を知っていても、洛熙がもう一度戻ると告げると村人達は優しく送り出し、皇帝であろうとなかろうと嬴政を一人の人間としてみては「うちの村の娘を悲しませないで」と強く言われてしまい、彼は民の強さを思い笑った。

洛熙を好む理由と言うがわかったような気がしながら帰った。
険しい山脈を突き進み幾日かを過ごし、始皇帝は洛熙の元へ向かうのには八日程かかったが、帰りは急ぐこともないとしていたものの不安になった家臣たちが途中の褒斜道から迎えに来るなり、慌てて宮に返されてしまい二人は忙しい道のりだったと結果的に笑い合いながら宮門を潜った。

「なんだか、宮廷内の雰囲気が変わったようですね」
「好、当然だ、そなたを迎えに行く前に今一度宮廷内を整え直したのだ」
「整え……直す?」

洛熙は戻ってきた翌日、久方振りに宮内でゆっくり眠り翌日の昼頃に起きた頃、身嗜みを整え直しては宮殿の皇帝のいる庭園に呼ばれては足を運んだ。
庭園に行くまでの道のりでも、何処か宮廷内は柔らかくなったように感じ、以前のような刺々しさもなければ洛熙を好奇の眼差しで見る者もあまりいなかった。
その事について言及すれば始皇帝は洛熙の膝の上に頭を置いて横になっては直したというが、洛熙は老朽化に伴うことだろうかと小首を傾げるが、丁度お茶を入れに来た女官が「陛下は宮廷内の宮仕え全員を調べ直し、以前のような黒い汚れを取ったのですよ」といわれたが、洛熙は理解しきれなかった。

「国を一つにしたばかりもあったせいか朕の知らぬ水面下では企む者も多かったのだ、だからいま一度手直しをしたということだ」
「しかしそうなると人手が足りなくなってしまうのではないでしょうか」
「そうだな、朕はな"血"というものに固執していないのだ」

これまでの政治においては血こそが全て。
勿論、王たる血が求められることは当然のことかもしれないが、宮廷内全体か誰かしらの血縁だという繋がりから小さな派閥がより深く現れてしまう。
燕姫に関する問題は特に血の繋がりから来るものであったと始皇帝は起き上がり、茶を一口飲むなりすぐにまた頭を洛熙の膝に置いた。
洛熙は政治が分からない。その為、なにかしらに口を出すことは決していないが始皇帝の言葉については理解できることもある。だが宮とは常に格式高い場所であり。洛熙のような人間の方があの立場でいる方がおかしいのだとも感じる。

「正しい者に正しい評価を、そうでない者には罰則を。いくら良い家柄にいようとも賢くなければ国を支えきれん。家柄に関係なく思慮深く博識である者は多い」

そういった始皇帝は下から洛熙を見上げる。
実際に洛熙は庭園に呼ばれる前にちょっとした試験を与えられた。
再度宮で働く以上、必要なことだと思っていたがどうやら違ったらしいと気付くと傍に控えていた女官は微笑み、官吏が一枚の文を片手に現れた。

「陛下、洛熙殿は文官達を抜いて一番の成績でございました」
「やはり……か、ほかの文官はどうだった」
「平均でいいますと、洛熙殿の半分程でした」

ほらみろと始皇帝は笑いながら起き上がる。
家柄身分ではない。本当に聡明な者というのは岩の裏に隠れた虫のようなものだというが洛熙は「それはちょっと」というため、始皇帝は頬を膨らませては洛熙を突ついた。
いよいよ彼女もそんな口を聞くようになったかと彼はからかい混じりに言いつつも膝をついて見つめる。

「なりたい者がその道に進めるように朕は受け入れる。本当にその道を志すのであれば、その者は弛まぬ努力を行うことを知っているからな」
「……陛下、とても素敵なお考えですね」
「それを教えてくれたのはそなたである」

感謝するぞといわれると洛熙は姿勢を正して頭を深く下げた。
洛熙にとって申し訳ないほどの褒美の言葉で恐れ多いと告げるが現に宮廷内は短い期間でも静かに変わっていた。
穏やかに風が吹くと蓮の花が水面で揺れる。
そうして人に寄り添う王だからこそ、戦乱は収まり一つにまとめられたのだと思い洛熙は静かにその風を感じて目を細める頃、始皇帝が洛熙をみつめた。

「洛熙、そなたをもう一度、内定付きの侍書女官として任命する」
「……陛下」
「職務内容は宮廷内全体の書庫の管理、また文官共に請われた際の教育、あとそれに……」
「そっそんな大役お受けするのは!」

洛熙は指折り数えて話を進める始皇帝にそんな大役は聞いていないと目を丸くした。
しかし始皇帝はあっちの管轄の、あれの教育の、そういえば宦官のところの……と呟くが洛熙が務めるにはあまりにも大きな職務であり、そんなものを女の身、さらに宮女の身であるのにと困り果てるが始皇帝はウンザリと背もたれに肘をついて胡座をかきながら洛熙を見つめる。

「不好、文句が多いぞ、とにかくそなたは侍書だ、常に学び朕のために書を読み学ぶ、それでよいな!」
「で、でも、私、そんな……」
「無問題!!朕がいうのだから誰も言い返させぬ、そもそも奴らがそういったのだぞ!」

苛立つように指を指すと庭園の奥の回廊に並んだ文官達は照れ臭そうに笑った。洛熙は見た事のある面々で、彼らはいつも書庫の最深部などで上級文官等に怒鳴られていた者達で、良家の出であるが貴族出の文官たちに虐げられていた者だった。
始皇帝はあそこの連中は冴えないが政治や知識については郡を抜く者ばかりで、本当に家柄や血というものは意味をなさないのだと下へ階級を落とされた者たちを見て考える。

「しかし、このような事をしてしまえば下の不満が溜まるのでは」
「だろうな。だがどんなことをしていようと政治とは常に火が立つものだ。それなら朕の思うやり方をする」
「……陛下らしいですね」

くすっと洛熙は笑ってしまうと始皇帝も無邪気に笑い返して、洛熙の膝の上にまた頭を置いて横になる。

「朕が皇帝である以上、そなたには侍書として書を読んでもらわねばならぬのだ。だから何処へもいくな」
「はい、もちろんでございます嬴政様」
「好……では昼寝に良い話を読んでくれ」

幸せな話がいいと言う彼に洛熙は書を持ってきていないのだがと思いつつ、いつの間にか二人きりになった庭園で話を始める。
それは七つの国を一つにまとめた初めての王様とそれに仕える侍書の話だった。


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