ヴァルハラ──それは人の死後、選ばれ魂が存在する場所。
各時代、各世界にいた、王、英雄、天才達が集う場所である。
天界・ヴァルハラにおいて王宮の玉座に腰掛ける王が一人。
目布を被った王は長椅子の上で胡座をかいては肘を付き、静かなる広い玉座の間で呟いた。
「不好、あやつは一体何をしておるのか」
そう呟いた王がこの世界で誰よりも天上天下唯我独尊という風に堂々と生活をしてもなお、孤独を抱え、一人その世界で待ち人を待ちわびていた。
彼が唯一愛して止まず、触れることさえ出来なかった唯一無二の存在であり。彼が何よりも隣に起きたいと願った娘──洛熙は死後数千年が経過してもなお、王たる始皇帝の元へ現れることはなかった。
「洛熙よ……そなたは転生でもしてしまったのか?」
それならばもう何度目の生まれ変わりなのか。
それならばもう帰ってこいと彼は胸の内で告げながらもその目布の下の目を閉じる時、中華を統一した始まりの王の玉座の戸が開いた。
そこには見慣れぬ長髪の女人が一人、堂々たる姿で現れた。
面立ちや身なりからして中華ではない。
人々の目を奪うような純白のドレスを身にまとうその乙女を始皇帝は幾たびか拝見した。堂々たるその姿は決意を宿した者である。
戦乙女長女―ブリュンヒルデ―はこれから控える神々と人類の戦、ラグナロクの人類側を取り纏める存在だった。
始皇帝の前に現れるや彼女は膝をつき挨拶をすることを始皇帝は特段気にせずに何かと思ってみていれば、彼女はいよいよ神々は人類を抹消するために動き出すようであり。
始皇帝にその戦の闘士の一人として改めて出場してほしいという頼みであるが、始皇帝はそれを拒絶するつもりは毛頭もなかった。
強き者と戦うことはもちろん彼の楽しみの一つではあるが、それ以上に人類という守るべき存在を思えばこそのものである。
「あなた様が出場いただけるとは、それ以上に心強いものはございません」
「構わん。もとよりその話でここにいたのだからな」
始皇帝はブリュンヒルデの話を聞きながら返事をしつつ、ふと目の前の相手をみた。
この戦乙女はヴァルハラでの魂の管理をしている一人でもある。魂を残すか否かの判断は彼女ではなくとも、それなりには詳しいのではないかと考える始皇帝はいい加減に待つことも飽きてきた頃であった。
しかしながら天界については彼もまた詳しくはないため、より知識のあるものに頼む方がはるかに良いと考えた。
「戦乙女よ、朕は少し考えたぞ」
「いったい何をですか、あまりあなたの考えは聞きたくはないのですが」
「重要なことだ朕はこの場で静かに佇んでおるのはなにも戦を心待ちにしているからではない。待ち人を待っているからだ」
ブリュンヒルデは始皇帝の提案についてあまりいいものではないと察知していた。彼がヴァルハラにいることとなり、生前と同じ宮廷を用意することさえ、多少の労力がかかったのだ。
そして何よりこの王は、王としての振る舞いとしてまさに教科書通りの唯我独尊をみせるため、どういった無理難題をつきつけてくるやらと警戒したが、始皇帝は一人の女を探してほしいと告げた。
「名は洛熙、朕の亡くなる数年前に亡くなっておる。その娘はいまどこにおるのだ。もし今地上におるのであれば、その生を全うした暁には朕のもとへ連れよこせ」
「そんなこと一介の戦乙女にはできかねます。その判断は魂管理局です」
「そこをどうにかするのがそなたの役目であろう。もしこの天界にいるのであれば朕のもとへ来るように伝えるがよい。なにかしらを確認しあの娘の状況を知らせよ。でなければ朕はそなたらの遊戯に参加はせぬ」
「な...っ、本気ですか?人類の存続がかかっているのですよ」
「無論だ。朕は死んでいるのでな、地上で生きておる民は朕の管理下ではない」
また彼は自分が出ずとも他にも候補はおるだろう。というため、ブリュンヒルデはそうだとしても最高戦力で挑む中で彼を欠けることは大いなる戦力減であるとして眉間に皺をよせた。
そして深いため息を零した彼女は手に持っていた電子機器を取り出すと「確認してみます」といって、軽やかに操作をしてものの一、二分後、それは始皇帝・嬴政にとっては吉報となった。
「洛熙……この娘でしょうか?」
そういって差し出されたのは始皇帝が長年まぶたの裏にみていた、彼の半身ともいえる侍書洛熙であった。
生まれから没年、名前、出身地が記録されたそれをみると始皇帝は目布で見えぬ眼を細めるのが伺えた。それはまるで無邪気な子供のようであったことだろう。そして確認するなり大きく一声をあげた。
「あぁそうだ!なんだ間抜けな顔をしておるではないか、よし!今すぐここへ連れてこい!そなたの命でも動かぬのならば皇帝の命として連れてくるが良い!」
早くしろと急かすように告げた始皇帝にブリュンヒルデは心からウンザリとした気持ちになりつつも、彼がそう思う相手であるのも無理はないと理解を示し、仕方なく彼の指示を従うことにしてやるのだった。
そうして待つこと数日。
ヴァルハラ・始皇帝の居城・咸陽宮において相も変わらず始皇帝は不機嫌な様子で玉座に腰掛けていた。
ブリュンヒルデに命じて数日、洛熙がこのヴァルハラにいると知った始皇帝はその日の夜にはあの頃のように彼女の膝に頭を乗せて、またあの時のように声を聞けると思っていたはずだったがそれは一向にやってくる気配はなかった。
重たい王の間の扉が開いた時、始皇帝はついに彼女かと表をあげるとそこにはブリュンヒルデが立っていた。
始皇帝はついに耐えきれずに玉座から立ち上がり、その戦乙女に向けて足を進めては彼女を見つめた。
「戦乙女よ、どういうことだ、なぜ洛熙は現れぬ」
「ハァ……やはりあの娘は現れなかったのですね」
すっかり予想通りだと言いたげに不機嫌な始皇帝に対して怯むこともなく呆れたような顔をしたブリュンヒルデは、しっかりと彼女に会った上で始皇帝に会いにいくように告げたのだという。
「彼女はいま天界大図書館の司書手伝いをしているようです」
「図書館……司書……?何故そんなものに……」
「経歴を見ましたが立派なものでしたよ、生前の仕事の評価からここに来てすぐからあらゆる文献を読み漁り、様々な方々との交流も重ね、彼女は正式にヴァルハラでの職として就いているようですね」
いやはや改めて調べて見ても関心ですね。とここ千年ほどヴァルハラで過ごしていた彼女の知識に対する貪欲さや、学びに対する強い姿勢には純粋に尊敬さえ感じるとブリュンヒルデがいうものの、始皇帝は全く納得は出来なかった。
「つまりあやつは死後すぐからここにいたというのに、朕のところへは来ることもなく。他の者に仕えていたということか」
「まぁ…そうですね、ちなみに会いに行くようにお伝えしたところ『落ち着いた頃に伺いますので〜』ということでした。大層幸せそうに仕事をされてましたが、彼女の言う落ち着きとはいつになることやら」
これ以上は私でも何もできませんので頑張ってください。とブリュンヒルデは溜まった仕事を処理しなくてはならないとして、これ以上はもう相手もできないというように去っていった。
始皇帝はブリュンヒルデから預かった洛熙がすっかり離れなくなったという天界大図書館の地図をみつめては小さく肩を震えさせた。
「全く洛熙め、覚悟しておけ」
再会した暁には……と目布の下の瞳を鋭くさせる始皇帝は早速と誰にも告げず宮殿から出ていくのであった。
◇◆◇
洛熙にとってヴァルハラはまさに天国であった。
始皇帝との出会いから三年、二十一という若さで病から倒れ込み、この世を去った洛熙は当初始皇帝を置いて先に世を去ったことを後悔していた。
しかし、死後すぐにヴァルハラへと招かれた彼女は説明役の管理を務める天使たちの話を聞いてはその暗い思いが一瞬にして消えたのである。
『え!?つまりここでは地上での書物全てが集まる大書庫があると!?』
『ええそうです、もしお仕事をお探しでしたら洛熙さんなら全然斡旋しますよ。というかあなたにピッタリですしね、言語が分からなくてもここでは関係ありませんしね』
『まぁ……そんな夢のような!ここが極楽なのですね』
『ヴァルハラです』
手続きをしていた洛熙はその説明にすっかりと上機嫌になり。
それ以後は快適なヴァルハラ生活をしていた。
彼女は書を通して時代の移り変わりや世界を知り、その知識を何よりも幸せそうに感じていた。
己が生前誰に仕えており、その相手がどんな相手であったかを忘れた訳ではなかったものの、彼女は自分の世界に没頭しては、様々な場所へと旅を進めては書を求める姿には他の者たちも敵わぬほどだった。
「それで我が弟ポセイドンのところへ行ったのか」
「はい、大海の古い書物を拝見させて頂きました。ポセイドン様の書庫は大変美しかったです。なんといっても壁一面にガラスが張ってありその向かいには魚達が泳いでおられました。アクアリウムというそうですね」
「あやつの城はほとんどがそのような作りとなっている。余も時折あれをみて心を現れるほどだ」
本当に綺麗ですよね。と嬉しそうに話をしつつ小さな茶器にお茶を淹れる洛熙の向かいに座るのは冥界の王ハデスであった。
ハデスとも古い仲であり。洛熙は時折冥界にしかない書を借りたり読んだりする時にはハデスの世話になるものの、人間が簡単に天界と冥界を行き来するのは良くは無いぞとハデスに注意されたものの彼女の読書欲は留まることも知らず。
ハデス自身もこの娘を案外悪く思わずに受け入れてやり。今ではすっかり飲茶仲間のようであった。
洛熙は兎に角無害であり。そして何よりも純粋だとハデスはその魂に感じていた。
若くして亡くなった彼女との出会いも冥界の書物を読みに来たという純粋な理由であり。普段は気が弱そうに見えるというのに、たちまち書の話を始めれば打って変わっての態度となる。
それだけならば相手にはしないが、この娘の知識量とくれば天界にいる神々やその仕い以上のものであり、ついハデスも耳を傾けるようになっていたものの、それが人間嫌いのポセイドンにまで及んだのかと知ると若干苦笑いを浮かべつつ、生きて帰ったのみならず、ポセイドンの個人的な書庫にまで招いてもらったとなれば相当だろうと認識して微笑ましく感じていた時、中庭のガゼボにいた二人に近づく足音が聞こえた。
「あっ、ベルゼブブ様!」
「相変わらずの様子だね洛熙」
「ベルゼブブ様もお元気そうでなによりです、研究はどうですか?あれから私も少しお調べ致しまして、先日エジプト神界のオシリス様の神殿におじゃましまして……」
「エジプト神のオシリスか、復活と冥界の神だね、それは知らないことだ、詳しく教えて欲しい……」
現れた黒いカソックを身にまとった青年神ベルゼブブ。
サタンの忌み子として扱われていた負を纏う彼を見た洛熙はとても嬉しそうな顔をしては、ベルゼブブが好みそうだという書のコピーを渡しては子供のように夢中で話をする。
人嫌いでは無いが孤独になりたがろうとするベルゼブブも洛熙という知識人を前にするとその態度になることに対してハデスは素直に良いものだと微笑ましくみつめた。
すっかりと長い時間を過ごした洛熙はそろそろヴァルハラへと帰らなければならないと気付き、名残惜しくも二人に向けて挨拶をして去っていった。
ハデスはベルゼブブと二人で見送ってやり、慌ただしい背中を見届けては柔らかな表情を浮かべた。
「全く騒がしい娘だったな」
「ハデスさんいい加減、洛熙をここの専属秘書官にしたらどうですか?そこらの連中よりはるかに役立つはずですよ」
「そうしたいのは山々だが、あの娘の居場所は書のあるところだからな」
中々あの場所─天界大図書館─からは離れられんようだ。とハデスは微笑ましく呟いてはベルゼブブも納得はしつつ、それでも彼女が来れば…と友人のような感情を感じるのだった。
◇◆◇
洛熙にとって本は何よりのものであった。
書物さえあれば食事さえ要らないと言えるような極端な人間であり。
いくらヴァルハラにおいて人々が魂だけの存在といえど、その魂も食事や睡眠を取らねばならぬというのに、彼女は時折忘れてしまっては仲間内から注意されるような存在だった。
ヴァルハラにおいては生前のような悩みはあまり起こらなかった。
彼女がその生涯の短い時間を仕えた主、始皇帝嬴政を想わないことはないが、彼女は死後において互いの生き方があるとして彼を無理に追うことは無かった。
というのは建前であり。
洛熙という女は自分の目の前の娯楽に夢中となっていたのが現実だった。
天界にはいくつもの図書館があるが、彼女が務めている天界大図書館はその中でも屈指の広さと本の数を誇っており。
地上から発行される書物のありとあらゆるものがやって来るため、毎日のように何百という本を相手取るのだった。
書によって異なる香り、静かで天井の広い図書館、穏やかに本を嗜む人々、まさに始皇帝の侍書であった洛熙にとってそこは天国や極楽であり。毎日軽やかな足取りでそこへ向かい、一日のほとんどを過ごしていた。
「先日お伺いしたポセイドン様の書庫にあった古い大海の書物に及ぶものはやはりございませんが、この辺りの地上界における大海の書も大変面白いですね、うーんでもここの部分は少しポセイドン様から聞いた話と相違ありますね。次回お会いした際にお伺いしましょう」
鼻歌でも歌いそうな程に機嫌よく何十冊と分厚い本を受付カウンターの上に広げては読み漁る洛熙は死後からはるかな時間を経過してもなお、読み切ることの出来ない本にうっとりとしつつ、時折やってくる本の貸し出しを希望する来客の相手を慣れたようにしていた。
本の虫とはまさに彼女のことだといえるほどに夢中になる洛熙を他の司書たちは呆れるような、微笑ましいような顔をして見守るのが常である。
なにせ洛熙は図書館へ足繫く通い働く者としては見た目はいくら全盛期にての姿での顕現であろうとも随分と若いものであった。
大抵の司書や図書館を好む者は老齢の見た目の者が多く、その中でも彼女をまだ若い娘だと思い近づいては余計なおせっかいをかけるものの、その莫大な知識量と探求心は並みならぬものであり。彼女を知らずに食って掛かる哀れな知識人もいるものだが、ほんの少しの図書館の楽しみの一つともされていた。
司書見習いという枠組みにいる彼女は主にカウンター業務のみを任されているのはその知識量と愛嬌からくるものであり。彼女自身もカウンターに腰かけて本を読みつつ、時折やってきた利用者の貸出手続きをするのみだが、ちょうど彼女の前に利用者が本を片手に現れ。彼女は本を閉じては愛想よく本を読み込み利用者カードの手続きを進めてやった。
「そういえば洛熙さんが勧めてくれた本すごく面白かったよ」
「本当ですか?お好みに合うか不安でしたがそういってくれてとてもよかったです。あちらが好みでしたら…「ほぉ?では朕にも一冊選んでもらえるか?」…へ?」
洛熙は近頃通い始めてくれている利用客の男性の一人の処理をしつつ話をしていた時、その男性の背後からは聞き覚えのある声が聞こえた。
その声を洛熙は決して忘れることは無い声であった。
生前最後の数年間を共にし、彼女に初めての感情を与えた存在。
唯一無二であり、天上天下の存在となる、その王を忘れることなど出来るはずもなかった。
「そなた邪魔だぞ、朕はそこの侍書に用があるのだ退くが良い」
そういわれた利用者が目を丸くして「いやでも借りてる途中で」と告げると彼はカウンターの上の本を仕方なしに手に取ると男に押し付けた。
「受付は終了だ、別の窓口で頼むがいい」
「へっ、陛下いけませんよ、あぁすみません直ぐに行いますので」
「洛熙、そなた朕よりこの者を優先するのか」
「そういう訳ではございませんが……はい、お返しは再来週ですのでよろしくお願いします」
洛熙は相手を見ては驚いた様子だが慌てて処理をしてやり、早急に利用者に誤っては本を手渡すと目の前に残った男に対して至極困り果てたような、生前と変わらぬように眉を八の字に下げた様子で彼を見つめた。
そう──彼とは彼女の唯一無二の王たる始皇帝であり。
ここ数千年は会うこともない存在であった。
始皇帝は目布をし、洛熙の知る生前と変わることのない姿で変わらずに腕を組んで見下ろした。
「お久しぶりでございます陛下、まさかこちらに来られるとは。なにかお探しでしたでしょうか?この天界大図書館は素晴らしいですよ、きっと陛下がお気に召します書物がございます。あぁ陛下のお好みでございますとあちらの…」
「書を読むために朕がわざわざここに来たと?」
「違うのですか?ここは図書館でございますので陛下が望まれるものでしたらなんでもお揃いかと存じ上げますが」
始皇帝は目の前の女に対して苛立ちと懐かしさと恋しさと憎らしさの全てを感じていた。
互いの死後から二千年は経過しておきながら、再会したというのに彼女の態度は生前と変わらぬものであり。
反対に始皇帝を見る姿は畏まりつつも数年ぶりに会った知人への態度と変わらぬもので、フワフワと柔らかい空気が漂っていた洛熙に始皇帝はますます目布の下で眉間に皺を寄せた。
「そなたは朕の侍書でありながら、こんなところに長年留まっておったとはどういうつもりだ、もしや朕へ申し訳が立たなかったとは申すまいな?まぁ良い今すぐ朕のもとへ戻るがよい」
寛大なる王としてまたそなたを朕の侍書として迎えようと始皇帝は変わらぬ態度で告げたものの洛熙は図書館の受付カウンター越しに目を丸くしては驚いた様子で、なおかつ彼女は首を大きく振った。
「いけません陛下、私は今お仕事中ですので皆様にご迷惑が」
「そんなことどうでもよい、そなたは朕の侍書であろう」
「そうですけど、とにかくここは図書館ですので、恐れ入りますがお声を控えていただいて」
「洛熙、そなた会わぬうちに朕へ意見までするようになるとは……」
始皇帝の張り上げた声が静かな図書館に響き出すと洛熙はますます眉を八の字に下げてはどうしたものかと悩み果てた。
周囲の視線も彼女に向かい、始皇帝を知る者も、洛熙を知る者も、誰も彼もがどういった関係なのかと興味深そうにみつめることに洛熙は堪らずに声を上げた.。
「陛下お願いですからあと二刻ほどお待ちください、私にも今の立場があるのでそれが終われば必ずや陛下のお言葉に従いますから」
「洛熙……そうか、そこまでいうなら良かろう、二刻であろうがそなたの頼みであるなら待ってやろう」
必ずや約束を守るようにと無言の圧を与えた始皇帝は素直に言うことを聞き、洛熙は始皇帝が好みそうな図書館の一室のフリースペースにある人気のビーズクッションを勧めてみれば「好!」と嬉しそうに告げては洛熙はフリードリンクのサーバーから緑茶を淹れてやり、もう暫く待つように告げたのだった。
洛熙の仕事は専らカウンターの受付業務が主だが、その他には生前始皇帝の侍書として活躍していた頃のように本を読み聞かせることにも長けており。
決まった時間になると洛熙は本を手に場所を移動するのを始皇帝はみつめると、彼女は子供たちへの読み聞かせの時間なのだといった。
ヴァルハラには人も神々も変わらず幼子が存在しており。その子たちはそれぞれの立場も気にせずに仲睦まじく過ごしており。既に洛熙を待つように子供たちは広い子供の用の読書スペースに集まっていれば洛熙をみてワラワラと集まって彼女の服の裾や袖を引っ張るのを彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「陛下もよろしければこちらへどうぞ」
「童のためのものだろう、朕はここでよい」
洛熙は柔らかく壁際に立っていた始皇帝に声をかけたが彼は断りを入れた。
二人きりであれば素直に彼女に招かれたものの、今はそうではないからだ。しかしながら再会した彼女があの頃と変わらぬままなのだと思うとどこか心の内は柔らかなものになる。
「それでは始めます『昔々中華は七つの国としてそれぞれが対立しておりました、しかしその七つの国を纏めるものが現れました…』」
その声は変わることのない自然の音色。
琴のように繊細で、凪のように心地よく、真水のように味わい深く、山々の中のように安心出来る。
そんな自然の声を聞いた始皇帝は一体いつぶりなのやらと感じつつ深くその声を味わった。あの頃の宮廷、皇帝の寝所にて王が眠る為だけに本を読み続ける侍書という存在であった彼女の膝に頭を乗せて聞き入っていたあの頃が懐かしかった。
互いを見つめる眼には確かに特別な優しい温もりがありながら、嬴政という男にはなれずに秦の皇帝としての彼、皇帝に仕える平凡な家柄の侍書という関係からは決して進められるわけが無かった。
あの時、洛熙は命を狙われ、他人に騙され、他人に傷付けられ、様々な悪意がついてまわり。それから守るべく対処をとったが、それと同時に線引きだけは間違えてはならないと互いを律した。
素直に恋しいと彼は感じてしまう時もあった。
どれだけ美しいものに囲まれていても、最後に望むのは平穏であると知ってしまった。
どれだけ心地よいと言われても人工的な香りは自然の香りには勝てないのである。
洛熙はまさに自然が作り上げた娘だと彼は死後も感じ続けた存在であった。だからこそ彼のあの特殊な肉体の痛みを和らげる術を持っている。
「陛下」
「終えたのか」
「はい、お待たせ致しました」
「では帰るか、我らの宮殿へ」
「あっ、それは無理です」
「は?」
ようやく長い時間を過ぎ去った洛熙は始皇帝の前に使い古された革の鞄を手に現れたため、始皇帝はようやく彼女が戻ってくるかと思えば、洛熙は「私の家はあちらの方面ですから」と言い始めることに始皇帝は固まったあと考えた。
「少し待て洛熙、そなたはあの下らぬ雑務を終えたら朕のもとへ来ると言っただろう」
「はい、来ましたよ?」
「では帰る場所も同じではないか」
「それは違いますよ。お言葉に従うとはいいましたがそれは"職務を終えた後に話を聞く"というところでして」
始皇帝は長い人生において比較的穏やかな気質であると自分を自負していた。
数多の敵と対峙してきたものの、彼の気は長い方であり。反対に相手を苛立たされることには慣れている方だとも思っていたが、いま目の前にいるこの娘に対しては我慢を限界であった。そもそも死後二千年が経過しているだから長い方だった。
「陛下のお気持ちよく分かります。生前の私が陛下の侍書としてよく役立ったということも。だから再度お声かけをしてくださったのですよね」
「そうだ、そなたは侍書であるが実に良き働きをしてくれたものだ」
生前の洛熙は始皇帝の良き相談相手でもあった。
まるで歩く蔵書のようであり、齢二十ほどの娘でありながらも古今東西ありとあらゆる本に魅せられた彼女の知識量は莫大で、始皇帝の統一後の政務に関しても実に役立ってくれたほどのもの。
それは洛熙自身も始皇帝から散々褒めて遣わされたことから嬉しいことに自信を持っていえることだったが、今は違うと理解している。
「陛下がお望みになられる知識人は数多おられます。こちらにきて知り合った方でも本当に素晴らしい方がおられますから、侍書なんかではなくもっと優秀な方を是非紹介致します。是非この洛熙におまかせください!」
こう見えても交友関係は少しありますからね。と胸を張って言う洛熙は始皇帝は口を開けて驚いては、本気でこの女はそれをいうのか?と考えた。そして考え抜いた挙句。彼はその指に飾っていた黄金の指飾りを外しては彼女の額に中指と親指で輪を作ってはペチンと音を立てて叩いて見せた。
所謂デコピンというものである。
「〜ッ!いっ、痛いです陛下、何をなさるのですか?」
「何をなさるだと!?朕がどれほどそなたを待っていたか、どれほど望んでいたか分かっておらぬのか!」
「それは有難いことですし分かっておりますが優秀な方が本当に多くて陛下のお役に」
「そんなものは要らぬ!何故首を縦に振らぬのだ、もしや何か隠しておるのか?朕を拒むのであればちゃんと言葉にするがよい」
探していたのだ──と始皇帝が洛熙の頬に手を添えて告げる頃、空はもうすっかりと夕暮れであり。
まるで二人が宮廷の陰謀により別れて再会を果たした時のようだと感じた。
洛熙は目布越しでも感じる強い眼差しに小さく唾を飲み込んだ。彼女とて彼をずっと想っていた。忘れるわけなどはなかったがそれでも互いの道は違うだろうと言い聞かせていた。
「嬉しいです、私が陛下を拒むわけがございません。ずっとずっと嬴政様をお待ちしておりました」
「洛熙」
「私から貴方を消すことなど出来ないのです。貴方が私の前に現れてくださったことがどれほど嬉しいことか……」
「洛熙-……そなた……」
柔らかな頬に触れる始皇帝は洛熙の言葉に胸打たれた。
互いに素直な言葉を告げることは禁忌であった。
初々しく恥ずかしがりな彼女がハッキリと言葉にすることが嬉しくないわけがない。
始皇帝は唾液を飲み込んで彼女をもう一度呼ぶと抱き寄せてやろうと決めた時、洛熙は困ったように眉を下げて微笑んだ。
「でも私、今ここですごく幸せな生活をしておりまして。だから宮廷での生活はちょっと……図書館のお手伝いもありますし、ね?」
「は」
「ほら、あそこに見えます二階建ての家屋の一室が私の部屋でございます。もうかれこれ千年以上暮らしておりまして、なんといいますかこれが本当に私にとっては自分の世界というのでしょうか?本当に素晴らしい環境でして」
何度目かと聴きたくなるほど彼は開いた口が塞がらなかった。
洛熙はそれはもう嬉しそうに幸せそうに語るものだが、始皇帝の視線の先にはボロ小屋のようなアパートが一件あり。そこの一室が彼女の部屋であり。彼女は今の生活を手離せないため始皇帝のところへは通うことはできても住むことはできないと言った。
「書物ごとき朕の宮殿へ運ばせれば良いだろう」
「私はあの家を気に入っております、本の香りに包まれて、日当たりもそこまで良くないのがまた心地よくって、自分で作り上げた楽園と言いますか」
「ええい!そなた全くワガママ娘に変わってしまいおって!そんなにいうならそなたの部屋の中を見てやろう」
こうなっては全部見てやると始皇帝はまるで娘の一人暮らしの家に来る親のような顔をして彼女の手を引いて案内させた。
錆び付いた階段を登り、四つあるうちの三つ目の部屋の鍵を開けた洛熙は「ちょっと汚れてますが」と恥ずかしそうにいいつつも招いてすぐのこと。始皇帝は声を失った。
汚い綺麗という話ではない。
不快感はもちろんなかったがそれ以上に声を失ってしまう理由はその狭い部屋の中に立ち込める本の山だった。
壁一面の本棚から溢れて地面から天井に向けてそびえ立つ書の数はまるで小さな図書館の一角のような量である。近代的なワンルームのアパートのそこはキッチンなどはあるものの、そこにも置ける範囲に本が重なっており。少し歩けば本が触れてしまうほどである。
「皆様から頂いたり、自分でも買ったりしてるうちに気付けばこんなことになってしまいました。本当にこの部屋にいるだけで幸せな気持ちで心が満たされまして」
「あそこの棚が壊れておるぞ」
「はい、ちょっと入れすぎたようで」
「床の軋み音がするが?」
「はい、いつの間にか、でも大丈夫ですよ数百年前からですし」
うふふと楽しそうに微笑む洛熙に始皇帝は何も言えなかった。
つまりこの娘はこの環境から離れたくないということのようで始皇帝は呆れてしまうが、洛熙はそんな王の苦労も知らずに幸せそうに軋む床の上を歩いては、これがあれがそれがと嬉しそうに語る姿は無邪気で愛らしいものだった。
始皇帝は愚かではなかった。
無理やりに彼女を連れ帰ることはもちろん簡単だが、それを実行したあかつきには彼女は悲しみに打ちひしがれることは明白である。
彼はとにかくこの二千年間求めていた女に拒絶されることだけは受け入れ難いことであるため、それならばと考えた末に微笑んだ。
「好ッ、素晴らしい城を築いたではないか洛熙、朕は自立したそなたを心から祝福してやろう」
「陛下ッ……お褒めの言葉感謝申し上げます」
「そんな我が侍書殿の生活を妨げるなどとんでもない愚の骨頂であるな。だから今のままで構わん。反対にそなたが知識を広めることに背を押したい限りである」
「あぁ流石我が陛下、お分かりいただけるだなんて洛熙は嬉しく思います」
「朕からも是非そなたが好む書を厳選して送ってやろう、そしてたくさんの知識を広げるがよい」
「嬴政様ありがとうございます!!」
「ハッハッハッ良い良いッ」
始皇帝は寛大な心で彼女の全てを受け入れてやると洛熙は涙を滲ませては始皇帝の胸にあの頃のようにやってくるため、始皇帝は狭い部屋の中で抱きしめてやりつつ、もう一度足を踏みしめると地面はギシッと音を立てるため口元を緩めて今晩はここで過ごそうといって、彼女の膝枕の元でまたあの頃のように心地よい時間を過ごしたのだった。
そう──始皇帝・嬴政には考えがあった。
出てこないのならば無理やりに出てこさせればいい。
それは戦争においてはいくつもの例があったはずのことである。
始皇帝はあれから洛熙の自宅宛に毎日のように大量の書物を送り届けてやった。彼の権力を持ってして中華のあらゆる重要な書物を送れば、その都度洛熙は嬉しそうに心から始皇帝に感謝をするが彼はそれを聞いては「構わん、朕の侍書のためよ」と当たり前のように返事をした。
そうして連日数百冊規模で本が届くことに対して幸せを感じていた洛熙だったが、その幸福は当然ボロ家では長続きするはずはなかった。
ある昼下がりのこと。
始皇帝の宮殿内に騒がしい足音と共に丞相がヴァルハラで利用する連絡網となる電話を片手に入室するなり「洛熙殿からです」と慌てて告げたことに始皇帝はついに来たかと笑みを浮かべて黄金の装飾のついた受話器をとった。
「どうした洛熙、何事だ」
『へっ陛下!!それが……その、大変なことが起きてしまいまして』
「ほぉ?どういったことだ?朕が力になれるのであれば助けてやろう。そちらへ向かってやるから動くなよ」
それはもう上機嫌な様子で始皇帝が受話器越しに告げることに周囲のもの達はここ数日のおかしな行動からついに洛熙になにかが起きたと理解した。
なにせヴァルハラに来てからの始皇帝は洛熙への想いを隠すことはないからだ。生前から知ってはいたが表に向けられたその愛情の酷く重たい熱は相当なものである。
そうして始皇帝自ら足を運んで辿り着いた彼女の城──という名のボロいアパートでは既に彼女が大家らしき相手から叱責されている姿であり。始皇帝はまるで娘の謝罪に来た親のように現れては堂々たる足取りで近付けば開いた一階の玄関からまさに見るも無惨な状態が確認できた。
「陛下ぁ……そのですね、実は私の部屋の床が抜けてしまいまして大家さんから大変怒られてしまいまして……それで家を出て欲しいと言われておりまして」
「なんと誠か、まぁあの書籍数と床の軋みからは仕方あるまい。朕もそなたへ連日送っていたものが原因かもしれぬな……あぁ誠に悪いことをしてしまったようだ」
「そっそんなことありません!陛下は私のことを思ってくださったのですから。陛下のおそばに居るのさえ恥ずかしい限りです」
オヨヨ……と酷く肩を下げて落ち込んでしまう洛熙はすっかり始皇帝のせいではなく自分のせいなのだと言っては落ち込んだ様子であり。始皇帝に気付いた大家は怒ってはいるものの洛熙自体は元より心優しい娘であるがこのような生活をされては部屋を貸すことはできないと強く告げた。
ワンルームの部屋は床が抜けてしまえばほとんど生活はできる訳もなく。一階の大家の部屋も大きな被害を蒙り、さらには修繕にも時間と金が掛かることもあり洛熙にも多少は払ってもらわねばならぬと言うが洛熙は顔を青ざめさせるばかりであった。
何せこの女は本にだけ全てを捧げてきたこともあり。
多少の貯金はあれども大家から告げられた金額は単純な金額でもなかった。
おまけにヴァルハラにおいての居住は申請を出した上で許可を得る必要があり。地上での生活よりも多少屋根のある家を持ちたいと思う場合は手続きが面倒でもあった。
つまり洛熙は今追い出されれば金なし家なしという状態でもあるため彼女は卒倒してしまいそうになるものの、始皇帝は優しく彼女の肩を抱いて相手の大家に愛想の良い笑みを浮かべた。
「我が侍書が粗相を働いたことこの秦の皇帝たる朕より心より詫びよう。ここの修繕費は朕が持つので安心してくれ。洛熙も住む場所がない上に書を求めるのであれば朕のもとへ来るが良い」
「でも……私陛下にご迷惑を……」
「構わん!!そなたは朕の侍書であるのだ、遠慮など無用である、さぁあの部屋の書物は全て運ばせてやる。これからは存分に朕の傍で読み語らうが良い」
「へいっ……いえ、嬴政様!!」
ありがとうございます!!
そういって洛熙は始皇帝の胸に抱き着けば彼は心から楽しそうに笑った。
なんと単純な娘であるかと思いつつ始皇帝は早速と洛熙を軽やかに抱いては自身の宮殿に連れ帰り。早速と家臣達へ洛熙の部屋のものを全て持ち込んでやり。大家にはたんまりと詫びの品を渡してやったのだった。
「……ですから陛下には頭が上がらない事ばかりでして」
目の前でお茶を淹れる洛熙に始皇帝のラグナロクでのパートナーであったアルヴィトは開いた口が塞がらないとはまさにこの事だと感じていた。
この能天気な始皇帝の侍書という名のその一身に寵愛を受ける娘に彼とどのように再会したのかを聞いた時。彼女はそれはもう始皇帝のことを称えて告げたものだったが、話を聞いたアルヴィトは全く異なる印象を受けていた。
というよりもあの男が如何なるものかというのを感じざるを得なかった。普段から笑みを絶やさず飄々とした態度を取りながらも、かの中華を統一せし初めての王であり。そしてなによりも"男"なのだということを。
「洛熙本気で言ってるの?そんなの全部あいつが仕組んだ罠じゃない」
「罠……ですか?そんなことありません。陛下は私の為に王でありながら自ら大家さんにお詫びを入れて下さり。こんな情けのない者をまた侍書として迎えくださったのです」
「そっその考えがダメなの!男なんて狼よ?嬴政なんて狼どころかあんなの危険な龍よ」
「わぁ陛下が龍だなんてとっても素敵な例えですね、流石アルヴィト様です」
コロコロと嬉しそうに笑みを浮かべてはお茶を飲む洛熙は今でこそ図書館の司書手伝いをしつつも始皇帝の侍書として変わらぬ日々を過ごしている。
しかしながらその中でも始皇帝の彼女に向ける想いは強いものであることは出会った当初からアルヴィトも知っていた。何せ初対面から話を聞かない自由奔放で唯我独尊のあの男は洛熙にだけは違う。それはまさに世界に唯一の存在と感じるような眼差しと声を向けるのだからアルヴィトは聞いていてその身がこそばゆくなることもあるほどだ。
「兎に角あんたはあいつの事を良いように見すぎよ、もう少しあいつのことを「ほぉ?朕のことをどうするのだ?」……げ、聞いてたのね」
「昼寝の時間であるからな」
「いらっしゃいませ陛下、ちょうどお茶をお淹れしておりましたのでどうですか?本日はライチの緑茶でございます」
「うむ!良い香りだな……してなんの話をしておったのだ」
すっかりと庭園で話をしていた洛熙とアルヴィトの傍に現れた始皇帝に洛熙は再会した頃の話を恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに語ると始皇帝は満足そうにしていた。
ちょうどお茶を淹れていた洛熙だったが、少しだけ湯が足りないことに気が付くと取ってくるといい二人を残して宮殿内へと足を進めていくのを眺め、始皇帝は長椅子の上で胡座をかいては茶を飲むのをアルヴィトは呆れた顔で眺めた。
「本当ずるいわよね、洛熙にはずっといい顔をしてる」
「当然だ、自分の想う相手の前で格好をつけるのは男として当たり前のこと」
「自覚があるんだ。ふぅん、まぁでもやり方はどうあれあんたみたいな男が何千年も待ち続けたってことは凄いことよね。でもどうしてそんなに待ってられたの」
普通はみんな第二の生を謳歌して生きるのがここでは当たり前だとヴァルハラにおける人類を見守ってきた彼女がそう聞くと、始皇帝は信頼たる相手である戦乙女のアルヴィトだからこそ告げてもいいと思い言った。
「あの娘と朕が過ごした時間は三年だった。あの娘が本当に穏やかな時間を過ごせたのは一年ほど」
彼女と出会った始めの一年半ほどは宮廷での様々な陰謀や策略の末に彼女は傷つけられ。始皇帝も様々な制度や考えを改めるきっかけともなり。その後は穏やかな時間が過ごせると信じていた。
「洛熙はあの頃には治せなかった不知の病を患った」
今でこそ薬で治るような病であるが彼女は高熱を患い、もとより身体は強くなかったゆえに時間を重ねる毎に細くなり、弱り果てるのを始皇帝は眺めることしか出来ず。常に医官を数名つけては確認と治療を求めたが洛熙は自分の死を理解していた。
『嬴政様お願いごとがございます』
『なんだ?なんでも叶えてやろう、だから頼む洛熙どこへも行かないでくれ。そなたが逝ってしまえば朕は』
『私は必ずあなたの元へ戻ります。地獄を歩み全ての罪を浄化されたあと。私は生まれ変わり必ず戻りますゆえお待ちください』
春になれば花となり。
夏になれば蝉になります。
秋になれば真っ赤な紅葉になりましょう。
冬になれば雪や火になってみせます。
人ではないかもしれないけれど、必ずあなたのそばにいます。
だからどうかお一人でもお休みになって。
私はあなたの侍書として永遠に本を読みますから。
「そういってあやつは息を引き取っただから待ち続けた」
「永遠を願って?」
「……あぁそうだな」
始皇帝の最後を聞いていたアルヴィトはこの男が不死を求めるなど思わなかったがその意味を理解してはどうしようも無い愛の深い男だと感じてしまう。いつだってこの男は民も、母も、侍書も、特別に愛していることを知っていたアルヴィトは茶を飲むと立ち上がり席を離れた。
入れ替わるように洛熙が戻ってきてはアルヴィトと軽く話をして始皇帝の傍にやって来るとお茶をまた用意した後、長椅子に座る始皇帝の隣にゆっくりと腰掛け、彼はその柔らかな膝に頭を乗せた。
「風が気持ちいいですね嬴政様」
「そうだな、そなたの声のように撫でる風だ」
下から見上げる始皇帝は洛熙の手を撫でると二人は静かに指を絡めた。
ヴァルハラにおいて人は魂であるとしても、今二人はここで互いを触れて感じあっていた。
「洛熙」
嬴政はただ一人の女の名を呼ぶと彼女は嬉しそうに彼を見つめ返した。
「話を読んでくれ、今の気分に合うものを」
彼は瞼を閉じてそう告げると彼女はにこりと微笑んでは話をした。
それは今の心地よい昼下がりのような話であった。
風は二人を優しく無でた、離れぬように絡め合うように。
2026.8.2
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