夜深い刻、皇帝の寝所の戸の奥より聞こえた衣擦れの音の後に聞こえた声。

「陛下、侍書洛熙でございます」

静かなその声を聞く男は静かに「入るが良い」と告げると開かれた戸の奥より官服を身にまとった一人の女がそこにいた。
深く平伏した彼女はゆっくりと立ち上がるとその広い間の中にはただ静謐な寝台とその場を照らす灯りのみ。
寝台の上に佇む男は彼女をみては微笑むと、彼女は深い礼をしたあと、隣に置いていた竹簡とまるで皇帝陛下を思わせるような朱色の布を手に取って、寝台の側へと寄った。

喉の乾きを感じるのは緊張と羞恥であった。
彼女は寝台の右奥となる柱の前に立ち止まると、竹簡をそばにある文机に置くと柱から出た杭へとその布を巻き付けた。

「(あぁ……なんて恥ずかしい)」

極力表情を変えぬようにと勤めていても、それでも感じる熱は羞恥から来るものであった。布を丁寧に落ちぬようにと巻き付ける中で感じる強い視線。
細い指先でそれを終えた彼女が竹簡を取り、寝台の上の男を見つめると彼は目布越しに静かに彼女を眺めていた。

「上がるがよい、我が侍書よ」
「失礼致します」

床へと深く頭を下げた彼女は恐れ多くも寝台へと登ると始まりの王の側へと寄り。恐れ多くも静かに佇む男の目布に手を掛けて、そっと解いては朱色の布が括り付けられた場所に同じようにと優しく結ばれた。
星々のような煌めきを宿す鋭い視線が彼女の背中を、全身をじっくりと見つめるのを節々と感じられる。彼女はごくりと唾を飲んでは寝台へ再度戻ると、緩やかに腰掛けて「御用意が完了致しました」という。

「うむ、では今宵もそなたの声で語るがいい」

そうして膝の上に頭を寄せた始皇帝に彼女は目尻を下げて微笑むと、いつもの様にその声で物語を語った。ただの一人も寄せ付けぬその神聖なる皇帝の寝所にて。

始皇帝陛下の寝台に上がることのできる者は純粋無垢なる乙女のみ。

そうした規律が生まれたのはいつ頃か。
元より彼が自身の寝台に他者をあげることはなかったが、彼が明確にそう告げるようになったのは平民の娘であるはずの侍書洛熙と出会ってからのことだったと誰もが静かに理解していた。

末端の宮女を務めていただけの小娘を侍書に迎えることについての異論は当初より直ぐに起きていた。しかしながら彼はそれを自身が決めたことだと告げて意見を飲まなかった。
それでも彼は皇帝で、この国の全てを導く者としての誤った判断をしてはならなかった。自身の眠りの為に寝所に彼女を招くということについて、いくら本人達が違うと告げても周囲の判断は男と女という表のみとなるがゆえ、陛下はそうして判断を下した。

「これより朕の正寝台へ上がるものは純潔の娘のみとする」

女官達の詳しい検査の末に許可を得た娘はその証を持ちこむことにより、陛下の寝台へと招かれることを許可するといわれたとき、それは大いにざわついたものだが、それを喜ぶはずの多くの妃嬪達も、そして家臣たちも、それが実質誰も許可されぬものだと理解していたのは、陛下へと献上されている女達は既に何らかの形でその純潔をとうに捨てていたからだった。

各国から連れられた美しき妃嬪たちは始皇帝との夜を過ごした者もいれば、当然元の国や別の国で女としての勤めを求められたが故にと、それぞれが異なる理由で朱色の布を与えられることはなかったのだった。

それ故に男も知らぬ、文字しか追うことを知らなかった洛熙のみが実質許可を得た存在となるのだ。

しかしながら、そうなれば女の怨みを買うのは当然であり。その怨みはか弱き侍書に向くことを知る始皇帝は自らその夜の務めのための相手の部屋へと皇帝陛下自らが赴き、甘い夜を与えてやった。

「見事な時間であったぞ」

女の味を堪能し、少しばかりの話をし、茶を飲み相手の望むものを与える。どれだけ美しい女に求められようとも始皇帝にはその奥に宿る欲望を理解しており、それを否定することはない。
彼が国を動かすように、女たちが彼という権力を得て実家に力を与えたいと願うのは至極最ものことである。特別な愛を渡すことはなかろうと平等に彼は扱い、時に子を宿させ、時に富を与えて、時に恐怖を植え付ける。

「陛下、私お願い事がございます」

美しい妃嬪は照れくさそうにもう時期歳を重ねる故にと告げたため、始皇帝はいつもの様に人のよい笑みを浮かべて「なんだ?朕がそなたへ出来ることなら喜んで与えてやろう」と返事をすると女は扇で覆っていた口元を僅かに見せてはその朱色の唇で呟いた。

「陛下の寝台へ、あがりとうございます」

まるで天女のごとく美しい女の望み。
それはただ夜を務めるという意味ではなく、陛下自らの寵愛をあの部屋で受け、特別な身になりたいということであるが、始皇帝は彼女を目布越しに見つめては変わらぬ笑みを浮かべた。

「ならぬ、そなたは朕の決めし規律を覚えておらぬのか」

それは蛇の首を切るようにハッキリと告げた。
誰もを受け入れるような寛大な笑みを見せてもなお彼はどこか冷たく女を見つめて、その扇に指を掛けては外してやった。

「朕があの場で求める者は無垢なる娘のみ、味わい尽くしたそなたではならぬ」

そうして女を押し倒しては彼は妖艶に微笑んだ。
特別だと嘘を告げて、この場がいいのだと告げて、本来の守るべき聖なる場所への汚れなどを彼は認めぬとして、白い女の背中に唇を這わせて聞こえぬように呟いた。

「洛熙」

陛下は初ものが好きだという声をかれは否定しない。
純粋無垢なる乙女を毛嫌う男がいるのかと余裕を持って告げられることだからだ。男ならば誰もが愛した女の特別を求めてしまうのが世の常であり。彼はそれを味わったのが侍書たる洛熙だった。

夜伽を終えた彼は静かに回廊を歩いていた。
夜更けの秦は静かで心地よい風とコオロギの鳴き声が聞こえた。
背後に付き従う官吏へと寝所へ戻る旨を告げれば侍書の用意のためにと先へ離れゆくのを眺め、彼は長いその道を歩いていたとき、ある一室の奥から聞こえた声に彼は足を止めた。

「足をお開きください洛熙殿」
「……はい」

産婆などを務める女官たち複数名に囲まれる中、若々しい女が一人。
床に仰向けになると出産のように足を開いた彼女の衣服の擦れる音が聞こえる。中の様子が見えずとも彼にはそれが儀式の為であると理解している。

歪んでいると言われてしまえば否定は出来ぬものだろう。
愛していても触れられぬ己の女へ、寝台に上がる為にと言い訳を用意しては夜毎に複数の手練れた女達に自身が男を知らぬ身であると判断をしてもらうということ。
ほんの少しの好奇心に彼は指甲套を嵌めた指先で薄くその戸に手をかけた。本来ならば決してみてはならぬその場所。命じておきながらどのよううなものかと薄く開いたその薄暗い部屋の中で彼女は天を見つめていた。

足を開かれ、奥まで確認するようにと検査器具を挿入される彼女は床に爪立てては見たことの無い苦しい表情をして、その目尻に涙を溢れさせた。
冷たい女官の声にて「力を抜いてくだされ」といわれては「は、い」と苦しそうな声が漏れる。恥と苦しみを味わうその姿に彼は胸の奥から込み上げる歪なものを感じながらもその場を離れて回廊を練り歩いた。

白雪のような艶かしい足、実った果実のような赤い顔、雨露のような涙、奥を他者に開かれ見られて下される朱色の布を手にする彼女は屈辱的であろうが決して拒まないのだと知れば知るほど歪みを手にしてしまいそうになり。寝所へ戻った彼はその豪華絢爛の布を脱ぎ捨て寝所の奥の湯の間で己の身を清める。

「若くはないのだがな」

そういいながらも昂る熱を否定することも出来ずに熱い湯に浸かり、彼はその瞼の奥に宿る侍書を思い描いた。抱いてしまいたい。求めてしまいたい。許されぬと分かっているからこそ燃え上がるのかと考えては違うのだと理解する。
彼女を一人の人として求めるゆえの情熱を彼は深く理解しては、それが許されぬものだとも思う。仮に彼女が男を知ってしまったとしても寝所には呼ぶだろうと思いつつもあの朱色の布が彼女を縛っていることを彼は存分に理解している。

「律儀な娘だからな」

まるで犬のように忠義を尽くす彼女を始皇帝は思いつつも目布をつけ直しては湯から上がり、控えていた者たちが彼を丁寧に整え直す。
用意を済ませては下がるように命じたあと、寝台の上で静かに腰を沈めて待っていると、衣擦れの音が微かに聞こえた。

「陛下、侍書洛熙でございます」

祭りの鈴のような声が凛として告げる。
彼は変わらぬ態度で入室を許可すれば側寝殿を抜けて通ってきた洛熙は今宵も竹簡と共に朱色の布を折りたたみ持っていた。
平伏しては挨拶をする彼女が始皇帝の傍により、彼の目布を外す度に初めて見るように僅かな高揚を見せることがどれほど愛おしいことか。
彼女は静かに柱の杭に朱色の布と、始皇帝のかつての忘れ形見ともなる目布を丁寧に巻いていく。その面立ちは恥じらいを隠そうとするものであり。
しかしなれど白と赤の二つの布はまるで交わりなど出来ないのに、二人が男女であると思わせるような妙な色香をも纏っていた。

「それでは陛下、本日は……」

静かに告げる彼女の膝に彼は頭を乗せながらその顔を下から見つめて彼女の長い宵闇のような髪を撫でる。

「陛下」
「洛熙よ、そなたには酷な真似をさせておるな」

それがどのような意味であるのか彼女は考えた。
内定付きの侍書という特別な枠組みにいる彼女は決して周囲の目は優しいものばかりではない。それでも皇帝陛下の加護のもとに生活を送る彼女はただ愛する書と物語、そして敬愛すべきこの世の全てたる陛下へと仕えられるのならば、例え足を開き老女官達に凄惨たることをされようとも構わないと心から思っていた。

優しい彼女の竹簡を持つ手が彼の頭に添えられる。
この寝台にあがる権利を持つ者だけに許されし触れ方はどのような女であれ、ここまで慈しんではできないと彼は知っている。

「陛下の為でありましたら、この洛熙、どのようなことであれ構いません」
「朕がそなたを傷付けていてもか」
「私は陛下の侍書です、私はあなたの書でございます」

この世の全ては神に仕えし皇帝のもの。
まるで他の女たちのような言葉でも告げるのかと彼は静かに見つめ返したものの、彼女は彼の髪を撫でては微笑んだ。

「ですので焚書だけはお許しを」

せめて同じであれば擦り切れてしまう方が良いという彼女に始皇帝は少しだけ間を開けては「フハッ」と声を出して笑っては、勢いよく起き上がるため、膝に乗せていたはずの洛熙は身体を大きく揺らして寝台の上で恐れ多くも仰向けに倒れそうになるのを優しく受け止められてしまう。

「好(ハオ)、唯一無二の我が侍書だ、その身が擦り切れようとも傍にいるがいい」

例え何者になれずとも、例え触れることさえ出来ずとも、
二つの布がその柱で風に揺られる限り、その二人は離れぬ運命である。
それは夜と月、墨と筆のような関係であるのだ、交わらずともひとつになるという。


2026.9.8


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