その出会いは運命であったのだろう───

戦乱の世を纏め、六国を支配した秦国の王──嬴政はかつての約束を誓うように、王としての務めを果たしていた。
あの日、大切な人を失い、幼い身でありながら一国の王となった彼はその身に様々な不幸、裏切り、憎しみを受けた。
母のように想った相手を失ってもなお、悲しむ暇もないほどに彼は王として常に前を歩いた。

六国を支配した真の王として、天下一統を宣言せし彼は東方巡幸を始めた。
嬴政は天命を受けし者として"封禅の儀"を執り行った。
誰も真実は知らない、泰山の山頂にて、彼が魔人・蚩尤を打ち倒したことを。
巡幸に同行した者たちは、ただ王が泰山の山頂にて儀式から戻ってきた果敢な王であるという姿だけを知る。

そして秦王は宣言した。

「朕がこの中華の"皇帝"である」

───始皇帝として。

東方巡幸を終えて宮殿に戻った始皇帝は全ての者に彼が封禅の儀を終え、皇帝となったことを宣言した、宮殿も秦の民も歓びを分かち合い飲めや歌えと何処もかしこも騒がしくなった。

始皇帝の帰還について、宮殿内は騒がしいほどの客人や官僚に妃嬪が招かれ、彼の前で祝した。
人々の笑みを彼は喜び受けいれた、しかしその反面、魔人・蚩尤との負傷した痛みが身体を蝕んでおり、中華初の"皇帝"への席でありながらも彼は後を好きにするように告げて自室へと戻ろうとした時、回廊の奥に一人の宮女がみえた。

まだ若い宮女は疲れたような顔をしつつ酒を運ばされており、その華奢な体でいくつもの酒瓶の入った容器を震えながら持っていたが、年配の宮女に声を荒らげて怒られているのが見えた、凡そ遅いというのだろう。
始皇帝は自分の為の宴の席であるというが苦い思いをしてしまう、王になっても下の者を気にするというのはよくはないが、それでも彼は従来の優しさを捨てることはできなかったものの、それとは反対に傷んだ腹部に顔を顰めさせて足を進めた。

広々とした寝所の奥、帳の垂れた広い寝台に身を投げ出していた。
六日に及ぶ激闘が彼を苦しめているのではない、それ以上の"感情"が彼を蝕んでいた。
戦乱の世を収め、秦が七国の頂点へと君臨した、しかし幸せというものはそこには無い、人の幸せがあれば不幸もまた同時にある。戦というものは負の連鎖のようにも思える。

人々の憎悪。敗国の怨嗟。失われた家族の嘆き。

巡幸の際に受けた感情の波が彼の身体を蝕んだ。
戦いの痛みよりもずっと痛むそれは、彼が何十年生きようと変わらぬ痛みだった。
泣きたいと思っても泣けない、王である以上この痛みを受け止め続けなければならない、そうでなければ良き王にはなれないと彼は理解していた。

「……ッ堪えるな」

思わず取り繕ったいつもの笑みが浮かんでしまう。
静かすぎる寝所にて彼は身体を海老のように丸めて縮こまり痛みに抗った。痛みはすぐに引くのだ、この痛みは人の心の痛みであるのだ、幼少より受けた人々の憎しみはもっと痛かった筈だ。
春燕──始皇帝になったとしてもその名を浮かべてしまう。
実母よりも確かに母として自分と共に居てくれた人、唯一の彼の光、時折彼女が居てくれたらどうだったのかと強く考えてしまう。

目布の下で歯を食いしばる、声を出せば侍医が来る、妃嬪が集まる、余計な心配も、余計な同情は要らないと彼は一人痛みを耐える頃、広い寝所にて鈴の音のような声が聞こえた。

「陛下……?」

その声に彼は思わず目をやると、そこには一人の女がいた。
始皇帝は彼女が宦官から差し向けられた妃嬪かと考えた。
こういう日であるのだから当然だ、反対に始皇帝として今夜くらいは誰かを抱かねばならないと言われても仕方ない。
王の勤めであると理解してもなお、その気にはならなかった、というよりも肉体と精神両方の疲労に彼は起き上がることさえ苦痛に感じるが、やって来た妃嬪に何も言わないわけにはいかない。
その上、いま侍医でも呼ばれればますます面倒事になると彼は思い、起き上がりいつも通りの笑みを口元で浮かべた。

見覚えのない娘だと感じた、華やかさはない地味な顔立ちからして何処かの良家の娘なのかもしれないと感じてしまう自分の浅ましさに嫌悪感が密かに浮かぶ。

「来てもらってすまないが今宵の夜枷は不要だ、下がってよい」
「え……と、それは」
「良いのだ、そういう気分になれぬ、宦官の者になにか言われるなら朕から告げておく……ッぐ!」

身体を上げた始皇帝だったが、痛みに思わず顔を顰めては身体を崩し、広い寝台に倒れ込んでしまう。
視界がさらに白けてみえる、痛みが脳裏を刺激して、意識の波が飲まれてしまいそうになり、目の前に妃嬪がいるとしても普段通りの振る舞いが出来なかった。

「陛下、お身体が……!」

それは決して許されぬ距離だった。
女は始皇帝の許可もなしに彼の横たわる寝台の側へ膝をついては、始皇帝の顔をみつめた、乱れた呼吸がその蚊帳の中に聞こえる。
汗が滲み、歯を食いしばり、痛みに耐えようとする姿をみた彼女は自身の身分も立場も気にせずにその背中に触れた。

「お辛いのですね、陛下……ああ、どうすればよろしいのでしょうか」

まるでそれは傷を癒す真水のように心地よい声と温もりであり、始皇帝は苦しみの中で彼女を見つめれば幼さが僅かに残る女は眉を下げては背中を摩る。
不安からくる感情が始皇帝に触れる。
憎悪や嫌悪など負の感情に触れてきた彼が他の感情を直接受けることは少なかった。それゆえなのか身体の傷が癒えるようにも感じる。

「侍医をお呼びいたしますので」
「構わん、いいから話をしてくれ」
「話、でありますか?」
「なんでもよい、そなたの声を聞きたい」

弱々しく幼子のようにそういった始皇帝の言葉に彼女は目を丸くしたが、優しく掴まれた手首は寂しそうにも感じられ、悩んだ末に彼女は「承知致しました」と小さく笑みを浮かべて、寝台の傍に座り込んでは横になる始皇帝の背中に手を置いて優しく撫でた。
苦しみにより眠れないのだと感じたのか、その手は規律良く背を撫でながら彼女はその声で話をする。
高くも低くもない落ち着いた声色、けれどもその声色は時に水のように、時に木のように、時に花のように、時に琴のように感じられるものだった。

「むかしむかし、あるところに、小さな国がありました──」

嬴政は両親の愛情を受けなかった。
幼い頃、彼は敵国の趙で過ごし、春燕と出会うまでの間は趙の世話係の人間が来るものの、生かすだけの最低限の生活のみ、物心がつけば彼は一人で生きろと孤独を味わった。
同じ年端の者たちが親に寝物語を聞かせてもらい眠りにつくことなど彼は知らなかった。子供らしいことなどしてこなかった彼は目の前の彼女が話す姿を見つめた。

「若者はずっとその村のものたちを守れるのか不安でした──」

彼女にはそうして話す相手がいたのだろうか。
優しく微笑んで背を撫でられると痛みが引いていく。
心地よい春の陽射しを受けるかのようで、自然と涙が湧いてしまいそうになるのを目隠しをした布の下で隠した。

───春燕

甘えることが苦手だった嬴政を子供にしてくれた人。
得意じゃないといいつつも寝物語を読んでくれたこともあった。
それが重なる頃、彼は静かに瞼を閉じる、彼女の話は特別なものではなかった、在り来りな農夫の若者が悪漢たちに立ち向かうという話。
それでも始皇帝は眠りについた、それはここ数年──否、春燕との最後の夜以降、味わうことのなかった深い眠りであり。
静かに頭に添えられた手を彼は掴むとそれを胸に抱き寄せた。

「めでたし、めでたし……って、陛下?寝ておられますか?」

物語を語り終えて彼女はしばらく静かな寝所で心地よい眠りについてしまった始皇帝にどうしたものかと考えた。
左手は彼の背中を、右手はいつの間にか掴まれて抱き寄せられており、その距離はまるで意中の者同士のようにも感じられた。

「お綺麗な方」

目布で覆われていてもなお、美しいのだとわかってしまう整った顔立ちは四十を目前にした男性には到底思えない美貌であり。
皇帝という、天の名を受けた者として相応しい姿であるのだと思った。
遠巻きに見ていても素晴らしいと思った方に触れているという恐れ多いことに彼女はどうしていいのか分からず、ただ今は起こさぬようにと寝姿を眺めていれば次第に瞼は落ちてしまうのだった。

◇◆◇

「──ッッ!!」

騒がしい。

「───!!!」

騒がしすぎる。

そう思うのとは反対にあまりにも心地よく眠っていたと感じる。
自分がこれほどまでに深い眠りに落ちたのはいつぶりかと感じるほどでありつつ、鮮明になる意識の中で目覚めた始皇帝は寝台の上でその身体を起こした。

「騒々しいな」

怒号に対しても動揺も驚きもない。
何かしらが起きたのだろうと冷静な判断の中で目覚めた始皇帝にその場が直ぐに固まった。
広い寝所の中には見知った家臣たちが多くおり、丞相までもがいる始末で、どうやら大事かと思うが、始皇帝は寝台に腰を据えて視線をやった先には武官に抑えられた女が一人いた。

若い女は怯え、顔色を変えて、今にも泣いてしまいそうな顔をしていたが、周囲はただ事ではないのだと彼女を強く睨みつける。その瞳だけで肌がジクジクと針先で触れられたように感じられてしまう。

「この女は昨夜、陛下の御寝所に無断で侵入した不届き者でございます」

丞相は傍によってくるなり始皇帝にそう告げた。
周囲が警戒するのは無理はない、凡そ暗殺者の類の可能性があるからだろう、薄着にされた女のいくつかの衣が無理やりに剥ぎ取られて捨て去られていた。
床に膝をつかされ、女の倍はありそうな身体の武官が細い女の両手を背中にやり、その背中を強く押し付けると苦しみに顔を歪めた女は俯いていた。

「申し開きがあると申しておりますが、陛下の御前で弁明など──」
「朝から元気なのは好いことだが、騒がしすぎないか?」

困ったものだといつもの様に悠々と笑う始皇帝に家臣たちは揃って頭を下げるものの、丞相は「しかし御寝所に侵入した宮女にございます。即刻処分を……」と重々しく告げる。
皇帝の部屋に無断で侵入するなどあってはならない、それが妃嬪でも女官でもない、一番位の低い宮女であるなら近付くことさえ許されない。それを理解していないわけがないこの女がいたということは、暗殺を企てていた可能性もあると判断するのは当然だった。

しかし、始皇帝は寝台から足を下ろしてはその女の傍に寄り、彼女を見下ろしては「顔を上げよ」と命じた。
皇帝の命は絶対であると恐れながら顔を上げた彼女は夢ではなく、昨夜共に過ごした相手であると思う。

「名をなんと申す」
「洛熙でございます」
「申し開きを聞こう」

震えた声で返事をする彼女に始皇帝は優しく微笑みかけた。
そうすると彼女はゆっくりと落ち着きを取り戻して声を出した。

「昨晩、尚薬局より薬を届けよとの命を受け、御寝所へ参りました。お声をかけましたが……お返事がなく……その……」

これ以上を言葉には出せなかった。
昨夜の行動が如何に無礼であるかを彼女は理解していた。
下がれという命を無視して駆け寄ったこと、触れてはならぬお方に触れたこと、さらには朝まで過ごしたこと。
死罪は免れぬことでありながらも彼女は真実を告げるしかない。

「様子がおかしく、あまりにもお苦しそうにしておられましたので」
「苦しそうなどと、軽々しく申すな!」

彼女の背を縛る手に力が込められると彼女は苦しそうな表情に声が漏れる。
家臣たちの視線が集まる。処分を求めるものであり、この女の未来はもう決まっているとわかっていた。

聞いた声はやはり安寧。
騒々しさの中に聞こえる彼女の声はやはり鐘の音のように心地よく、ひとつ聞くたびに胸の内に染み込んで、痛みが和らぐようである。
偶然ではないだろう、これは天より与えられたのだと悟る。

「もう一度聞く、名は?」
「洛熙でございます」
「好い名だ、そなたに似合っている」

洛熙か……と口にするだけで心地よいと感じる始皇帝は周囲のざわめきを気にせずに、彼女を拘束する武官に解放するように命じた。
苦しい体勢だったのだろうが、彼女は腕を軽く摩りつつ、次の言葉を待っていた。

「処分はせぬ、朕が許した」

部屋の中はさらにざわめいた。
そんなことが許されるものかという彼らに対して始皇帝は笑みを崩さぬまま、昨晩洛熙はこの寝所に現れたあと自分にそれはもう心地よいほどの音読を披露して見せたという。
その声と物語の語り方は宴の席の妃嬪達の舞い以上の価値を感じたと称する。

「朕はこやつが気に入った、久方振りに安寧を受けたぞ、褒めて遣わす」
「お褒め預かり光栄でございます……?」

褒美の言葉に洛熙も家臣たちも意味がわからぬという顔をするが法も規律も彼が作るものである。
始皇帝は彼女が如何に素晴らしい眠りを与えてくれたのか、周囲に語っては、処分は馬鹿らしく褒美を与えて良いほどだと声高に告げる。
家臣たちは声を失う頃、始皇帝は洛熙の前に立ち、腰を曲げて彼女の顎先に指を添えて持ち上げさせた。地味な顔というよりも幼いおぼこい顔だと感じた。

「洛熙よ、今宵から毎夜朕の寝所に参れ、そして話を読め、どんな話でも構わん」
「……え」
「宮女であるから厳しいか?では今日から朕専属の侍書女官にでもするか、そなたらはどう思う?」

陛下それは……と丞相の焦りの声が聞こえるが始皇帝は一人、嬉しそうに納得した表情をして周囲を見つめた。
周りの言いたい言葉はよく分かるが受け入れるつもりはない、彼女以上に痛みを和らげ、心地よい眠りを与えてくれたものは家臣にも、妃嬪にもいない、ともなれば当たり前のものでもあるだろう。

「昨夜のように読むのだ、それが朕からそなたへ送る処罰だ」
「……ですが、その、私はそんな」
「朕こそが全てだ、そなたに反論は認めぬ、それとも死罪が良かったか?」

含めて笑った彼に洛熙はゾッとしてしまう。
本来であればそうなるはずだったというのに喜ばないとは愚かだが、周囲の視線はあまりにも痛々しい。

「朕が眠るまで読むのだ、そして朝まで過ごす、それがそなたの仕事だ、よいな?」
「……謹んでお受け致します」

それが正しいのかは分からない。
しかし彼が右を向けというならそれに従う他はない。
始皇帝はその言葉に満足そうに笑うと「下がれ」と命じた。
洛熙も家臣たちも下がる中、丞相と宦官に残るように命じ、洛熙が宮女の中のどこにいるのかと聞くなり、直ぐに立場を変えるように告げ、さらに始皇帝の寝所の隣に彼女の部屋を作るように命じた。

眠れぬ王に眠りを与えた。
たったそれだけだと周囲も彼女も思うだろうが始皇帝だけは違う。
あの声と語り方、穏やかな春の息吹のような微笑み。
彼女を為す全てが嬴政は天から授けられたものだと理解しており、その全てを受け入れると決めた。例え周囲が彼女をなんとみて、評価しようとも、その真の価値を知る者は自分だけでよいのだから。



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