何故、このような事になったのかと宮女の洛熙は考えた。
始皇帝の寝所たる正寝殿はとても広く、その中央の奥に一つだけ鎮座する広い帳のついた寝台。
豪華絢爛とはこの事かと思うほどに美しい寝所の中の帳の中、宮女であったはずの洛熙はその膝に始皇帝の頭を置いていた。
「今日はなにを読むのだ」
声からしてとても嬉しそうに待ち侘びたように告げる彼に、洛熙は書庫から借りてきた書物などをいくつか手に取り、簡易的なあらすじを告げて、どれがよいかと問いかける。
黒い髪はとても柔らかく心地よく、彼女の膝の上に広がり、少しだけ刈り上げた後頭部の髪はチクチクと布越しに触れるがそれが何処か幼子を連想させるようにも感じてしまう。
「そなたに任せる、どんな物語でも構わん」
「承知いたしました、ではこちらの物語を……」
洛熙は書物を手に取り、その手が小さく震えてしまうのは始皇帝に対する恐れではない。
気軽に手に取るその書物が洛熙が本来触れられるようなものではなかったからだ、万が一にも痛めてしまうとどうなる事やらと考えると身の毛もよだつような恐ろしさ。
しかしながら、文官達から「陛下もこちらであれば満足くださる」といって差し出されたものであれば拒絶する理由はない、その上、初めての出会いから早一週間で知ったことは彼の眠りはとても早いということ。
話に興味があるのではないのかと思ったものの、どうやら眠るためだけなのだと知る洛熙は数十頁捲った後に静まり返る帳の中で膝の上の始皇帝を書物の隙間から覗いてみた。
「わっっ!」
「ひええ!!」
突如大きな声をあげられた洛熙は思わず悲鳴をあげて足を上げると始皇帝の頭が軽く浮いてしまう。
なにが起きたのかと心臓がバクバクと音を立てる中で、彼女は始皇帝に脅かされたのだと気付くが、わざとでは無いとしても彼の頭を膝の上から跳ねさせるような真似をしたことに冷や汗がダラダラと流れてしまう。
「陛下申し訳ございません!!わっ、私(わたくし)はなんということを」
これでは死罪であると彼女は脳裏にすぐに過ぎった恐ろしさに身を震わせたものの、始皇帝は起き上がるなり彼女に向き合うように片膝を立てて腰掛けてはキョトンとした様子で彼女を見ては声を出して笑う。
「はっはっはっ、好い反応であったな、面白かったぞ」
「おっ面白っ……お戯れはおやめください、心臓が止まるかと思われました」
「朕のいたずらはそれほどまでにそなたに効くのか」
それは好いと楽しそうに告げる始皇帝の言葉に彼女は頼むからやめてくれと思わざるを得ない。
そもそも、この一週間はろくに寝られてもいない上に常に気を張ってしまっているのだと洛熙は胸中で愚痴を吐いてしまう。
こんな予定では本当になかった。
在り来りな平民家庭の出だった。
農村にて平和に暮らす家庭の娘であり、特色は無かった。
幼い頃は身体が弱く、少しずつ成長と共に強くなり、外に出始めた頃、村から離れた山のそばに住む、元役人がいた。
博識で読み書きができて、とても優秀な者であり、歳と共に政治に関わることをやめたのだといって隠居生活をしているその者に幼い彼女は好奇心から接触し、文字や言葉の美しさを学んだ。
文官にはなれずとも、いつか女官に───と夢をみていただけのはずが、洛熙はどうしてこうなったのかと考えていた。
東方巡幸を終えて戻ってきた始皇帝を祝う席はそれはもう派手であり。
毎度のことであるが宮女達は馬車馬の如く働いていたはずだった。
酒を運び、食事を運び、妃嬪たちのお色直しをしてやったり、廷臣達に酒を注いだりと忙しなく働いていた頃、ちょうど少し空気を吸おうとしていれば一人の薬師に呼び止められ「陛下にこれをお渡しを」と言って顔色を変えていうものだから、洛熙は何事かと思ったがただの腹痛であるのだという。
呆れ返りつつも、宮女が入れないと断るが名前を出せば大丈夫だと言われ、疑い半分に薬を手にして始皇帝の寝所へと足を運ぶと、それはもう簡単に通されてしまったもので、彼女は呆気を取られ、その日を後悔したのだ。
「頼まれたからと薬を持ってきたのか、毒であったのならばどうする気だったのか、全く愉快なおなごだ」
翌日の夜、真相を話せともう一度告げられた彼女は恐る恐る告げたが、その通りのことをいわれてしまい、あの時は何も考えなかったと改めて自分で思い直しては恥ずかしさに身をすくませるが、彼はその姿をさらに好意的に受け止めるものだから驚いた。
しかしながら洛熙の生活は一変した。
まるで九十度逆さに返したかのごとくであった。
翌日の夜、洛熙は当然寝所へ赴くことを躊躇った。
昨夜や今朝のことは夢では無いのかと思うほど普段通りの日常で、薄暗い書庫室の管理をして、いつも通りの雑務をこなして夜を終えようとする頃、宦官がやってくるなり「宮女の洛熙は何処におる!」と声を荒らげるものだから、何事かと思い慌てて駆けつけると「陛下が待たれておられるではないか」とさらに怒号を受け、ヒソヒソと陛下?という声が聞こえるのを背に受けながら彼女は慌てて寝所まで駆けつけた。
書物一つも持たずに駆けつけた彼女に膝枕を所望しては「好い寝心地だ、毎夜忘れぬように」といわれ、朝まで寝入った始皇帝の寝顔を見つめているうちに時折意識を落として、起こしてと繰り返した。
そしてさらに翌日、あの事件から二日後、日中陛下に呼び立てられた洛熙はまた何事かと雑巾を縫う仕事を置いて、後宮から宮中へと足を運ぶなり、その場にいた宰相や宦官と同じ顔をした。
無理もない、始皇帝は自身の寝所の傍に彼女専用の部屋を用意したのだ。
正確にいえば寝所の手前、即殿に手を加えたのである。
これには始皇帝の側近の家臣たちも「妃嬪に顔が立ちません」「こんな宮女風情に」と慌てふためいていたが、始皇帝だけは違った。
「朕がただこの娘を好むだけで呼んだわけではない、必要だから用意させたのだ、宮女だというのならば立場を変えればいい、聞くと洛熙は優秀だというではないか」
「それにそなたらは朕に安眠を与えられるか?」
その言葉に家臣達は言葉を噤んだ。
陛下の言葉は全て、これまで無意味な権力を振るうことはなく、傍若無人でもなかった。
秦王の頃より深い眠りにつかない事は彼の傍に長年仕えた者たちは理解している。特に宰相でさえも口を閉ざすのであれば、なにかしら言い丸められたのだろう。
全員の視線が洛熙に注がれる。
何故この娘が──そんな視線は彼女自身問いたかった。
自分の何気ない行動が見定められ迎えられる者は夢物語でしかないとしていた、ましてや平民の自分に皇帝の私室の一部に置かれるなど、妃嬪……否、皇后よりも特別であるだろう。
「陛下……わっ、私には勿体ないものでございます」
「貴様ッ!陛下からのご好意に対しなんたる態度か!」
「構わん。身を弁えておるのだ、好いではないか」
洛熙はその身を弁えたつもりでも家臣たちは彼女を睨み立てる。
始皇帝から与えられるものを受ければ宮廷内からの反感を買う。
反対に始皇帝から与えられるものを拒絶することなど考えても有り得ないことである。
彼女はつまり───断崖絶壁の状態の窮地に立たされていた。
そうして毎夜朝まで共に過ごした洛熙は朝方決まった時間に宮女が起こしに来るが、洛熙は彼女らが来ると横になっている始皇帝を呼んだ。
「陛下、陛下、朝でございます」
「んぅ……まだよい」
「しかし身支度を致しませんと」
「では洛熙もしてくれ」
洛熙は書庫を担当していたはずの宮女だ。
本来読み書きが出来るため女官を目指しても良いが若い上に家柄も平凡な彼女には過ぎたことであり、薄暗い使われない書庫の担当になっただけでも奇跡のように喜ばしいことだったと思う。
身支度を担当する宮女達に交えて朝の湯汲みから装束の用意までを共にし、朝餉を持ち寄ってこられては、洛熙は戻りたいと思うものの、遠い隅に座る彼女の前にも食事が置かれる。
それは洛熙が口にしてはならない程のもので、妃嬪たちに用意されたものと全く同じもので、妃嬪達はその日の気分によって食事を求めたり求めなかったりとした。
宮女としての食事をする洛熙をみた彼はその細い身体を育てよと命じ、妃嬪と同じ食事を食べさせるようになったものの、洛熙は毎日の豪華な食事は勿論だが、始皇帝の前であるとして喉を通すのがやっとの思いだった。
「そういえば洛熙よ、書物はいつもそなたが選んでいるのか?」
「いえ、文官様方からご教授頂いております」
「何故そなたが選ばぬのだ」
不満気な声をあげる始皇帝だが、洛熙は当たり前のことだと苦笑いをしてしまう。一応は宮女という立場である。
そんな人間が、国の、皇帝の、書庫室に出入りをして勝手に漁るなどできるわけが無い。毎夜手に持つ書物も本来彼女が目を通すことなど出来ないもので、各地の言葉や物語は言伝にしか聞いていなかった洛熙はまるで宝に触れている気分であるのだが、始皇帝には分からないようだった。
「私が選ぶよりも文官様方が選んでくださる物の方が余っ程素晴らしいものですので」
「不好、それは違う。朕は洛熙の語りを聞きたいのだ、そなたが選びそなたが読むものを聞いていたいのだ」
「しかしその……私が選ぶことは出来かねます」
「そこの者、御史と丞相を呼べ」
入口の宮女に告げると直ぐに駆け出し、しばらくの後に呼びつけられた二名は頭を垂らしては現れるや、始皇帝の私室にて朝餉を摂る洛熙にえも言えぬ顔をして見せた。
「洛熙の事であるが、朕は内廷侍書女官へと告げたはずだ、宮殿内の書庫については自由にさせよ、無論、朕の書庫でもだ」
「陛下、それは……書庫には他国からの貴重なものもございます、国にとっては文化遺産となるものを易々と文官でもない、宮女に」
「宮女では無い、女官だ」
書庫を担当する御史は顔を青ざめさせるが、洛熙も当然のことだった、今でさえも触れることは許されぬようなものばかり触れている。その上に女官までと命ぜられるなど信じられなかった。
「朕が告げたのだ、それ以上はない、そなたらに告げたのは念の為だ、他の者が何かを告げるのであれば朕に言ったと見なそう。それに……朕が読ませる書物なのだ、洛熙が手に取るものは朕のもの、そう思うように心がけよ」
では下がれと命じた始皇帝に洛熙は魚の身を摘みながらも俯いてしまう。
喜べはしない、周囲が自分をどうみるかなど分かっている。
始皇帝は皇后を持たない、子が出来てもだ、寵愛すべき寵妃や妃嬪もいない。
その中で自分が女としてこの場にいることを恐れる洛熙は食事を食べると始皇帝は笑った。
「怯えなくてよい、そなたはそれほどまでに朕を良くしてくれるのだ、それを食べ終えたら寝るのだ、そしてまた昼時に書物を読み聞かせてくれ、昼寝に合いそうなものを頼むぞ」
そういって食事を終えたらしい始皇帝は下げさせてしばらくするなり出ていってしまう。
洛熙は一人広い部屋で残されたあと、宮女に朝餉を下げてもらい、側殿の隣にある自身の私室として与えられた部屋に入る。それは宮女として宮廷生活をしていた彼女にはとても広いと感じられた。ひとつの部屋に何十人もで寝ていたと思い出してはあまりにも静かなそこは紙の香りがした。
喜んではならない。
恐れなくてはならない。
それでも少しくらいの夢を見た気持ちになってもよいのではないのかと思いつつ、自分一人の為にと与えられた寝台に横たわる、宮廷の生活はほんの少し疲れてしまう。
人の愛憎や陰謀の入り交じったその場所では、純粋に書物を読む楽しみもなかった。
だからこそ、始皇帝との時間は洛熙にとっても好ましい時間であると思うが、それを思ってはならないと言い聞かせた。
「……陛下の方がずっと好い声をしているのに」
不思議なことをいうと思いながら枕元に置いてある書物を撫でる。
物語はいつも遠いどこかへと連れていってくれる、それがどれだけ良いものか知る彼女は胸の内だけで想いながら深い眠りへと誘われた。
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