弱冠十二歳にして秦王となった始皇帝──嬴政はその出会いを天から定められたものなのだと理解した。
洛熙という娘は宮廷において位の低い娘であると知ったのはあの出会いの翌日だった。
身辺を洗い直すように丞相に命じ、後宮の管理を行う宦官や、女官など、様々な者達からの情報を元に得た情報は、かの娘はあまりにも平凡な存在であるということだった。
そしてその平凡だという出自や本人自体を霞ませるような才がある。
それが並の文官以上の知識量と記憶力、達筆な筆使いに、言葉を読む声の色、秦王の頃より与えられた妃嬪達はみな器量の良い娘達であった。
数多の美女が集結し、それを持つことこそ王たる示しであるのだと理解していても、始皇帝──否、嬴政は異性を簡単には愛せなかった。
それは秦王となってすぐに再会した実の母──趙姫のせいでもあっただろう。
決して彼は人を愛せなかったわけではない。
反対に彼は民を愛していた。
しかし特別な相手として、どれだけの女を見ても心を動かされなかった。
六国を支配せし王を求める声は多く、皇后の座を狙う妃嬪達の水面下の争いも理解している。
女を美しいと思いながらも、彼の母とも呼べた女性──春燕のような心の美しい女性は現れなかった。
王であるのならば一人を愛さぬほうがいい、それは災いになってしまうとも考えた、子宝には恵まれた、自分の跡を継ぐものはいる。
そうであれば余計な争いは生まぬようにと彼は平等を考えた。
洛熙に出逢うまでは───
夜の帳が降りる頃、まだあの娘は来ていなかった。
急かすつもりはないと始皇帝は肘をつき、静かに座していた。
呼び出されたのは御史中丞、特段なにかを持ち寄った訳でもないが呼び出した始皇帝はその薄い目布の下でじっくりと相手を見つめて、普段通りに口元を緩めて問いかける。
「それでなにがわかったのだ」
「ハッ。宮女洛熙は齢十九の巴蜀の山間の農村の出にございます」
巴蜀──そこは山と川の豊かな自然の土地。
中央から外れた物静けさは、まるで神話の世界のように心地よい空気を持つと言われる。
その山間部に……と聞いた始皇帝は「だからか」と一人呟いた。
あの娘はなんとも言えぬ雰囲気を持っていた、それは周囲の者からすれば"田舎娘"とでもいうのだろうが、始皇帝にとっては"無垢な娘"ともいえた。
書物を読む姿を眺めていた頃、初めはその手は震えていた、皇帝を前にした怯えかと思うものの、話を続ける間に変わりゆくその表情から見て、実に物語にのめり込んでいるのだと理解した。
光のような娘であると思ったが、それは山間に射し込む柔らかな緑を含んだ光なのだと感じつつ、報告を続けさせた。
「父は畑を耕すのみの平民。母もまた農婦。さらに彼女より下にまだ幼子がおられるようですが、血筋に見るべき家柄はございませぬ」
「ほぉ……」
肘をつきながら聞く話では彼女が特筆すべき才能はない。
平民の出身の娘が何故、文官同様に書物を扱えるのかと思う頃、御史中丞もそう思っていたようであり、その件については詳しく調べあげたようであった。
「村外れに隠居していた元文官が一人。名は記録に残っておりました。かつて蜀郡の属官。政争に嫌気がさし、辞した者にございます」
その言葉に興味深さを抱いた始皇帝はその身を前にやるなり「その者があの娘に読み書きを教えたと?」と楽しそうに声を出す。
そこまで興味が引かれるかと思いたいものの、実に興味深いことだ、平民出の宮女はいるが秦国の者ばかり、さらにいえば平民といえど遠い血筋などの関係がある平民を装った者ともいえるだろう。
優秀な者であれば始皇帝は受け入れた、しかし宮廷はそれを拒絶する、それまでの政治の在り方を完全には受け入れない。
それが正しいかはたまた間違いであるのかは簡単には判断できないものであり、一概にはいえぬとしても、洛熙という娘の異端な出自にはまるであの娘自体が書物の一編のように感じた。
「ハッ。近隣でも稀なほどに筆が立ち、音読に秀でるとか、さらに文字に関しましては異国語にも通じていると」
「その者を師と仰ぎ、学んだのか、中々に興味深いな」
そういって始皇帝は淹れられた茶を飲むが、御史は日中洛熙について少々いくつかを確認してみたところ、洛熙は並の文官以上の才を持ち、博士に近い学力を持ち合わせた者であると苦し紛れに報告した。
中華の言葉についてはもちろん、異国語についても多少の理解があり、書物を読むことに関しての才は宮女では到底納得できぬほどであり、御史は本来であればこの女を何かしらで処罰する必要があったのではないのかと考えてしまうほどだった。
「しかし陛下。いかに才があろうと所詮は農村の娘。巴蜀は文化も言葉も中央と異なります。宮廷に長く置けば、妃嬪や官人らの反感は避けられませぬ、なにより── 巴蜀は元より秦に完全に心服した地とは言えませぬ。土地の気質も、誇りも強い。陛下の御側に置くには……」
──燭台の火が揺れた。
静かな夜であり、始皇帝はゆったりといつものように皇帝たる風貌で座している。
そして、まるで御史を挑発でもするかのようにみつめて笑みを浮かべる。
「不安か」
「……は」
静寂が流れた。
二人の間にはなにもない、音も、風も、殺爆とした空気もない、ただ皇帝の言葉に呆気を取られたような御史の表情に始皇帝はクツクツと喉を鳴らして笑ってしまう。
「面白いことを言う。朕は六国を呑み、天下を統べた。巴蜀の娘一人が傍にいることが、それほど脅威か?」
そして笑みを止めて告げた言葉に御史は即座に額を地につけた。
そのようなことは決して無いと必死に弁明を図る者に始皇帝は何も深くは思わない。
いま目の前の御史や丞相などが不安になる理由を理解できないことはなかった。
しかしその不安を抱くのは彼らが皇帝ではなかったからだ、始皇帝にとってそれは取るに足りぬことであるとした。
そして立ち上がり、燭台の炎が揺れるのを眺めながら、外の月明かりに思いを馳せて目を伏せる。思い出すのはあの娘の声と痛みを和らげる心地よい言葉たち。
「朕はな、あの娘の声を聞いた、巴蜀の山霧のようであった。濁りなく、しかし深い」
御史は黙る。
「そなたらは身分を見る。朕は価値を見る。農村の出であろうと、朕に安眠を与える。それ以上の理由が要るか?」
振り向いた彼は堂々とそう宣告した。
なにも間違いはないというような口ぶり、当然だ、皇帝の言葉は全てが正しいのだ。
御史は答えられずにいれば、始皇帝は愉悦を噛み締めるような表情を見せる。それはあまりにも美しい笑みである。
「それに──中央に染まりきらぬ娘が、朕の書庫を読む。面白いではないか、朕は新たなものを好む。天下を一つにしたのだ。文化も、声も、心もだ」
御史は悟る。
これは宣告であり決して曲げぬものであるのだと。
たかだか宮女風情といいたい言葉も全て抑え込まれてしまえば黙る以外はない。そして沈黙は同意とされる。
「洛熙を宮女ではない。内廷侍書女官として扱え」
「ハッ」
「そなたらが不安になるような事はない、朕はあの娘には手を出すことはない、あれは……そういうものではないからな」
それについては懸念されるものであった。
妃嬪であれば当然で、女官であろうと家柄がよければ問題はない。
しかし、万が一にもあの平民の娘が皇帝の寵愛をその身に受け、子を宿してしまったとなれば、宮廷内のしきたりが破滅してしまう。嫉妬に狂った女ほど恐ろしいものはないと歴史を見ても理解していたはずだ。
「しかし巴蜀の娘が朕の傍にいる。それが不満ならば、天下を再び六つに割ってみよ」
冷ややかな冗談。しかし冗談ではない。御史は深く叩頭しては「御意にございます」と告げてその場を後にした。
丁度入れ違いの頃、帳の奥から娘が現れた、手には書物を持っており、様子を伺うような態度に、もう何度夜を超えたのか聞いてやりたいほどだというのに未だに慣れぬ様子の娘──洛熙に始皇帝は笑みを浮かべた。
「ちこうよれ」
「失礼致します」
「今宵はなにを読む」
「ええと、心優しき魔人と少年の逸話でございます」
「そなたが選んだのか」
「左様でございます、書庫にて選び惚けておりましたら、このような時間に」
困ったような顔をする洛熙には密かに密偵を付けていた。
様子は報告を受けており、自由に書庫を出入りするようになり、手に取る書物を悩み果てていたと聞いていたが、この時間までさらにかと知っては随分と喜んでいるのだと感じると心がどこか跳ねてしまう。
寝所へと向かい、寝台に上がる始皇帝の後に続いて一礼をして丁寧に座り込む姿は女官から密かに指導されたようであり、妃嬪でもない彼女に無駄な知識を与えれば、その分書物に費やす脳を圧迫するとして止めるようにいわねばならないと思いつつ、細い足に頭を置くと、少しずつ慣れた洛熙は書物を開いた。
洛熙が選ぶ物語はまるで子供に読むような物語が多かった。
しかし始皇帝はその話がどんなものでもよかった。
日々の疲れがまるで心地よい湯に浸かった時のように蕩けるように感じる。
鳥の囀りのような声に乗せられた言葉は彼の瞼の裏に物語の光景を簡単に浮かび上がらせる。音読をする身でありながらも物語に興奮した童のような彼女の声は何処かくすぐったい。
「洛熙よ」
「はい、如何されましたでしょうか陛下」
「そなたの話を聞いたぞ」
下から見つめる始皇帝に書物を置いた洛熙は「私の……?」と疑いもないような純粋な疑問の目を向ける。皇帝から自身を調べられたと言われて恐れない者はいないはずだ、しかし彼女はさっぱり理解できぬという顔をしており、その素顔には悪意の一つもないからだといえる。
真っ白な紙のような人間であるから、そこまで飲み込むのだろうかと感じながら、洛熙が巴蜀であることや、彼女の師についてを話した。
「そなたが師と仰ぐ相手はどんな者であったのだ」
知りたいと思った。
かつて自分にも師であり、母である女性がいた。
忘れることなど一度もないが、彼女にもそうして忘れられぬ相手がいることに小さな同調を感じてしまうのだ。
「その方は……大変聡明なお方でございました、政治に疲れ、村の外れにご隠居されていたのですが、村の者は極力近付くなといわれておりました」
「何故だ?」
「私共平民には恐れ多い方でございましたので」
照れくさそうに笑う彼女だったが、幼い彼女は身体が弱かったが成長と共に少しずつ外を知り、そして一人村のハズレの文官の元へ訪れた。
高齢の文官はひたすら熱心に何かを読んでいるのを見て興味が湧き、毎日のようにそれをみていたが、変わった文官は飲み食いもせずに書物を読み漁ることに明け暮れて、ついには倒れてしまい、洛熙は誰かを呼びたくても呼べずに慌てて幼い身であるからと言い訳をして家に入り、必死に声をかけた。
「大胆な娘であったのだな」
「人の生死でございましたので」
「良い事だ、続けよ……」
倒れた文官は空腹で倒れたようであり、洛熙は自宅から慌てて米や野菜を盗んでは文官の自宅にて勝手に料理を炊いて、倒れ込んだ文官の介抱をしてやった。
そして食事を終えて落ち着いた頃、文官は彼女が近頃見に来ていたことを知っていたといい、興味があるのかと問いかけた。
好奇心旺盛であり、見たことの無いその絵のような字に魅了されるなり文官に毎日教わった。両親にバレてしまったものの学びたいという娘の意志を尊重した両親は文官に迷惑をかけぬようにと強く注意して送り出してくれ、何年も彼女は文官の傍で学びを得た。
「その方はもう亡くなってしまいました……」
「何故だ」
「分かりません、しかしある日、目の前で連れていかれ、戻ってこなくなりました、お師様はそのまま処分を受けたのだとご報告をお受け致しました」
凡そは理解出来る。政治を嫌気がさしたからと宮を後にした文官、統一前の蜀にて何かしらがあり、処分されたのであろう。政治とは常に複雑なものであり、一度でもそこに踏み入れたものは簡単には抜けられぬものであり、彼女は慕っていた文官はまるで祖父のように優しい方であったと語る声は寂しさよりも恋しさと温もりを感じられてしまい、不思議だと思えた。
「悲しくないのか」
「悲しいです、しかしお師様は私を立派な女官になれるようにと告げてくれました、ですので私はどのような立場でも勉学を怠らないのです……って陛下の前で御失礼でございますね」
そう言ってみせる彼女もまた人に夢を託された者なのだと理解する。
何故彼女が自分の胸を優しく刺激するのかはわかったような気がした。
それは彼女が、かつての自分に重なる部分があり、そして真っ直ぐと伸びる草花のように強い人間であるからだった。
「そなたが望むなら、その地位を授けてもよい」
その夢に向けて背を押してみたくなると思ってしまい、思わず声を出した。
彼女は目を丸くした、欲望を剥き出しにされたとしても構わないと思えた、その瞳や声であれば何を望もうと許せるとも思える。かつて寵妃に入れ込んでしまった者の末路を知っていても、それとは別の純なる夢追人の背を押すために尽くしても良いと思えたが、洛熙は微笑んだ。
「いま私は陛下の侍書でございます、これよりも光栄なものはございません、このような身分でありながら陛下にお仕え出来ていること自体が私にはとても光栄でございます」
凛とした声に真っ直ぐ向けられた笑み。
それは始皇帝の胸を締め付けた。
「……好」
いつの間にか口癖にようになったその言葉を呟けば彼女も小さく微笑んだ。
「はい、好(ハオ)でございます、とても好い言葉で私も好きでございます」
その笑みはあの頃の母──春燕と同じものであり。
嬴政はその瞬間、なにがあろうと、彼女を生涯、隣に置くことに決めた。
例え二人が何者にもなれぬとしても、ただの皇帝と侍書として、その身を終えることを胸の内で取り決めたのだった。
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