あれから三月(みつき)流れた。
表向きは騒々しくないものの、宮廷内の視線は明らかに変わったものだと洛熙は感じられ深々とため息をこぼしながら書庫へ向かう為に回廊を歩いていた。
「あれが……?」
「あぁ陛下の……」
ヒソヒソと聞こえる声に洛熙は思わず顔を下向ける。
責められている訳でもないのにそう感じてしまう。
視線が痛いほどに触れる。
──平民の娘風情が。
──陛下の寵愛を?
「ワッッ!」
「ひゃぁぁあ!……へっ陛下!!」
「……っと、危ない、相変わらず好い反応をするな、愉快愉快ッ!」
薄暗い顔をして回廊を歩いていた洛熙だが突如通り際に戸が開いたかと思えば驚かされてしまい洛熙は体勢を大きく崩して倒れ込みそうになると、始皇帝は想像以上に大袈裟な反応をした彼女にすぐに手を添えて転けぬように支えてやった。
薄い布越しに触れられた手を洛熙は熱く感じてしまい、支えられた距離感に目を丸くしては即座に地に伏せて謝罪の言葉を上げようとするも、始皇帝の手は彼女に添えたまま離れなかった。
「へ、陛下?」
「丁度昼時だ、庭園でなにか読んでくれ」
「丞相様に怒られないでしょうか」
「朕が許すのだ、そこの者、茶を用意せよ」
昼時を過ぎて、日差しも風もとても心地良かった。
洛熙を連れる始皇帝が庭園に……というものの、そこは宮殿内の真ん中に位置する皇帝専用のものであった。
「失礼致します」
「うむ」
広く四角く低い木製の寝台には洛熙が生涯触れることも無いであろう上質な絹で縫われた敷物や異国から捧げられた柔らかな背もたれが置かれてあり、洛熙はそこに足を広げて腰掛けると始皇帝は当然のように彼女の膝に頭を置いた。
宮女たちが静かに茶の用意をしては何事もないように下がり、庭園には二人だけの空気が流れた。
「読まぬのか?」
「陛下、その……物語を読もうにも書物がないのですが如何されましょう」
「ではなにか話してみよ、なんでもよい」
そなたの話はどれも愉快だと言って笑みを浮かべる彼に洛熙は時折昼時に連れられるとそうして自身の話を強請られる。洛熙にとってそれは至って平凡な平民の娘の話であるというのに始皇帝はとても愉しそうに話を聞いてくれることが心地よかった。
王という生き方は洛熙にとって想像もつかないことであるが、宮仕えをしている中でそれが平民とは違う不自由を強いられ、常に死と隣り合わせだと知った彼女には到底良い暮らしであるとは言い難かった。
「そこでお師様は私に意地悪をした男子にそれはもうとても怖い話をしたというのです」
「ほお……そなたの師はまるで家族のようであるな」
「ええ、私もそう思っております、血が繋がらずとも親子であると」
始皇帝が彼女の話を好むのは自分の知らぬ世界があるのは勿論であるが、それはかつての自分と春燕のようでもあるからだ。
もちろん、彼女の両親は彼女を深く愛しているが、彼女の師である文官は独り身であり、洛熙を大層かわいがった様子であるのが話にしてわかる。彼女のために学びを与え、彼女のために怒り、彼女のためにその余生を捧げた。
「洛熙よ、何故その者を"先生"と呼ばないのだ」
「それにつきましては幼子の私が先生という言葉を知らず、お師匠様とお呼びしたからです……」
「知識人であるそなたもそのような間違いをするのだな」
「おっ、幼かったのです、お師様もそれで良いと言ってくださいましたので」
真っ赤に染まっては弁明する彼女をみていれば、かの文官が彼女を愛おしむ気持ちがよくわかる。
何者にも汚されなかった無垢なる子、それは宮女として仕えていながらもあまりにも純粋で、この宮廷には浮いていると感じるほどであるが、始皇帝は思わず彼女の頬に手を添えてひと撫でしては笑みを浮かべる。
「そなたがかわいかったのであろうな」
その言葉を聞く洛熙はまるで自分が愛でられたように感じてしまう。
この数ヶ月、寝所を共にして毎夜朝まで眠る彼に読み聞かせる彼女は皇帝という身分であるはずの彼に向けて小さく心を揺らされた。
膝の上に乗った頭の重みも、触れられる感覚も、褒められるその言葉一つさえも喜んでしまう。
しかしそれは彼が皇帝であるからだと彼女は考えていた。平民の出でありながらもこのように扱ってもらえることに勘違いをしてしまいそうになるが、あくまでも侍書女官として、内廷付きと態々告げられる度に自分が必要であるのだと思ってしまう浅ましさを小さく恥じる。
「そう……思っていただけていれば嬉しゅうございます」
はにかんでそういった彼女に始皇帝はもっと話をと求めては時間を過ごした。
◇◆◇
始皇帝が宮を離れるということを決して珍しいものではなかった。
しかしながら洛熙が彼のそばにいるようになり、数日離れるというのは初めてのことであった。
「何かあれば直ぐに内廷付きの者へ声をかけるがよい」
「は」
「良い書物があれば持ち帰ってやろう」
「恐れ多い」
「とはいいつつも欲望は隠しきれぬ顔をしているな」
数日離れるといった夜、始皇帝は洛熙が困らぬようにと女官を付けることを告げた、土産の話をしてやれば隠しきれぬ目の輝きをみせる洛熙に思わず頬が緩み、彼女の頬に手を伸ばして摘んで伸ばしてやる。
ここ数ヶ月で彼女は随分と変わった。
痩せっぽちの娘だったがしっかりとした食事を提供してやり、生活を整えてやればみるみるとその姿を変えて、幼い娘のようにも感じる彼女は立派な"女"であるのだと感じられた。
「陛下、頬が伸びてしまいます」
そういった彼女に始皇帝は手を離してやれば赤くなっており、彼女は涙目になっていたことにやり過ぎたと笑いながら撫でてやれば照れ臭そうに笑う彼女は陛下と呼びながらも他の者とは違う距離感で話していることに本人は気付いてはいないのだろう。
慣れとは恐ろしいものだと思いながらも始皇帝は彼女が自分に気さくに接することを許した、それどころかもっと親しくなればよいとさえ胸の内で思う。命じたとしてもそれを受け入れることが出来ないことを理解しているから。
明朝、陛下が巡幸のために宮殿を後にするのを洛熙は見送った。
宮廷内は普段とはまた違う騒々しさがあると思う中、洛熙はここ数ヶ月、侍書女官という名の自由を得た状態ではあったものの、それはあくまでも皇帝の目の届く範囲までであった。
「陛下が居らぬ今、そなたがここを出入りする理由はない」
普段通りに書庫へ足を運ぶなり入口にて典籍にそう告げられた洛熙はそれもそうかと納得し「申し訳ございません」と告げた。
女官を付けるといわれたものの、彼女たちは洛熙に見向きもせず普段通りの仕事をしており、反対に洛熙をみるなり冷めた目を向ける。分かっていたことだと理解しつつ彼女は皇帝の側殿にある自室に戻ろうとすると、入口の兵が彼女を差し止めるなり、後ろから女官が現れた。
「陛下が居られぬのですから出入りを禁じます」
「しかし私の部屋は……」
「以前の部屋を使えばよろしいでしょう、宮女の部屋は埋まっていたような……あぁいえ、部屋はありましたね、そちらを利用なさい、それにそんなものを読む暇があるのでしたら針仕事が山のようにあります、そちらをなさい」
「はい……」
洛熙は自分がいかに甘やかされていたかを痛感した。
当たり前だと感じた。
陛下がいる時だけの仕事で、それ以外の自分は以前と変わらないはずだと思った。針仕事の部屋へといくと洛熙は布と針だけを押し付けられては自室で仕事をするように命じられ、さらに与えられた部屋は宮女の部屋の中でも一番奥の物置小屋であった。
丁度、同時期に入った宮女を見かけたものの彼女たちは洛熙を見るなり視線を落とした、まるで何も見なかったようにされることを彼女は仕方ないと言い聞かせては埃っぽい部屋の中で一日針仕事をし、食事についても他の宮女達からは席を開けられ、配給についても以前よりもずっと少なかった。
──陛下から頂いてるんでしょ?
──こんなご飯食べられないっていうんじゃない?
クスクスと聞こえる陰口について洛熙はこんな空気だったのだろうかと思った。
違うはずだ──陛下からの特別な扱いを受けてしまっているからだと彼女は理解していても尚、文句を言うつもりはなかった。反対にそれが普通であると密かに理解をしていたが故に食事を口にした。椀の中の米は底の方のものであるのか、とても硬かった。
数日が経過した。
いつ頃、始皇帝が戻るのかというのはまだ報告が無かった。
洛熙は毎日与えられた部屋で職務をこなしながら、眠れぬ夜を過ごしていた。
──陛下との夜は眠れなくても辛くなかったのに。
朝になると頭を枕にされていたことにより、少しだけ膝や肩や腰が痛むと思ったことはあるが、その程度で軽い睡眠でもよく眠れたと思うのに、その部屋になってからの洛熙は眠れなかった。
宮女としての職務をこなす中で些細な嫌がらせは続いていた。針仕事をといわれて手渡された布の中に針が忍ばされていたり、配給の食事にほんの少しの意地悪であったり。
洛熙はそれを悲しむつもりはなかった。
平民の娘である彼女は両親に宮仕えしたいと申し出た時、お給金以上の娘の心配を両親はした。特に母は内情を知らないが遠い知り合いが宮廷の者に見定められて連れられてしまったが、女社会が激しく厳しい社会であると言った。
それでも自分の夢を諦める気はないと思った洛熙は今ここにいる。
眠れぬ夜の中で、彼女は後宮の書庫にいた。
そこは誰も使わない不要な書物ばかりがまとめて置かれたもので、不要とはいうが洛熙にとっては宝庫であり、以前はこの書庫を管理する役目に就いていた。
一応は……と言いたげに、なけなしの手入れをされたその中を見て洛熙は真夜中に一人で整理をした。本来時間外に宮女が書庫を出入りしてはならなかったが奥まった場所ゆえか洛熙が何をしていても気付かれることも無かった。
「この話……陛下お好きそう……」
手に取った書物を広げては思わず思い浮かべてしまう。
冒険譚が好きで、まるで男子(おのこ)のようだと洛熙は彼に対して密やかに思った。そのように考えるなど不敬だと分かっていても話を聞く時のあの姿は目布をしていても分かるほどに輝いており、自分を揶揄うが陛下も余程物語が好きと見えると洛熙は笑った。
ちょうどその時、なにか冷たい風が彼女に触れた。
真っ暗な書庫内であるためかと思うも、何か背中に伝うものを感じた時だった。
音にならぬ何かが音を立てたかと思えば洛熙の頬に何かが掠った。
そして壁にトッ──と音を立てたかと思えば、鋭い苦無のようなものが壁に刺さっていた。そして自身の頬になにか痛みを感じ、頬を撫でると灯した蝋燭の明かりの中で洛熙の手には赤い何かがついていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
──逃げなきゃ、兎に角どこかに、誰かに助けてもらわなきゃ。
洛熙は宮殿内を走った。何故だか誰もいない。
こんなことはありえないと洛熙は思った。後宮から逃げ出して、誰か兵を呼ばねばと思った。
「……誰か、誰か!」
曲者ですと洛熙は告げたかったのに誰もその声を拾わない。
まるで誰もいないような物静けさ、走り逃げ惑う中でも洛熙は背後に聞こえる足音と、時折投げられる何かを感じた。
逃げる場所……兎に角どこか安全な場所を……
そう思う内に洛熙の足は自然といつもの場所へと向かっていた。
そこにも誰もいなかった、決してそんなことはあってはならないのに、皇帝の間には誰もいないのだ。
洛熙は慌てて戸を開けて、そして何処に逃げるかと考え抜いて目に入ったのは自分に与えられた部屋だった。側殿の横にある自室。
そこに逃げ込んでは慌てて戸を閉めて、部屋の中のものを慌ててその前に置いて身を丸めた。暗い部屋の中で涙が溢れてしまいそうになるのを必死に我慢して声を抑える頃、部屋の前に影が見えた。その手には鋭い何かを持っており、洛熙は喉が止まってしまう。
声を出してはならない、バレていたとしても、とにかく黙るんだと言い聞かせるが戸が横に引かれるが物が邪魔をして上手く開かないようだった。
しかし手が上に伸びて、薄いその戸を壊すのだと思った時だった。
「ここは朕の部屋であるはずだ、客を呼んだはずはないぞ」
洛熙は聞き覚えのある声だと感じた。
それはまるで闇に灯された光であるようだった。
「不好、答えぬか……それなら良い、少々苛立っているのでな」
ギシッと床が踏まれる音がした。
聞き覚えのある声だが、何故か聞き覚えがなかった、それはあまりにも怒気を孕んでいるからだったが、なにか音を立てると同時に「──待てッ!」といった始皇帝の声を最後にその場は静まり返ってしまう。
間を開けて戸がガタガタと音を立てる。
何事かと思っている間に戸が音を立てて外されたのを見て洛熙は目を丸くすると、そこには普段通りの始皇帝の顔が夜闇の中で見えた。
そして彼は入口のごたごたとした物を跨ぐなり、丸くなり怯える洛熙に合わせて腰を落とした。
「洛熙、朕である」
「へ……陛下?」
「そうだ、もう無問題だ、怖かっただろう」
まるで幼子に話すように優しい声でそう問いかけてくれる始皇帝に洛熙は顔を上げるなり、次第に自分に何があったのかを思い出して、全身が恐怖に震えだしてしまい思わず涙を溢れさせてしまい、子が親に甘えるように相手も問わずに彼女は始皇帝の胸に飛び込んで首に手を回した。
「陛下ッ、陛下ッ!……怖かったのです、死ぬのかと思って」
「洛熙……」
「うぅ……」
泣きながら首に縋り付く洛熙に始皇帝は優しく背中を撫でる頃、騒がしく駆けつけた丞相達の騒ぎに対し、始皇帝は静かに入口を向くなり「騒ぐでない」と告げて洛熙を抱いては寝所へと足を運んだ。
抱きすくめられ、洛熙は帳の中で横になっていた。
優しく抱き寄せられると、まるで父や母のように思えてしまうが、実際に彼は若々しく見えるが両親と変わらぬ年齢だったと思い出しつつ、洛熙は冷静になった頭で「このような無礼を」と申し訳なさそうに告げると彼はいつも通りの笑みをみせる。
「今は気にせぬ、それよりも顔に傷があるな、ここ数日なにがあったのだ」
「……特に何もありませんでした」
「朕に嘘をつくのか?そなたは知らぬだけで密偵がおるのだ、そなたの口から聞かずにそやつから聞くべきか」
「そ、それは……」
微かにある頬の傷を撫でられた洛熙は言い淀むものの密偵がいたとなれば意味もないかとここ数日の出来事を素直に告げた。
陛下が出た後すぐに出入りを禁じられ、宮女としての職務に励んでいたこと、部屋で眠れず書庫を整理していたところ襲われ、今になっていたこと、その都度気になる点を問われては洛熙は素直に報告するが、彼の表情は変わることなかった。
「そうか針仕事をな、流石我が侍書だ、褒めて遣わす」
「有り難きお言葉でございます」
「しばらく眠れていないのであろう、眠るが良い、今はもう朕もいる、何ももう恐れるものはない」
「……でもここは」
「構わぬ、朕が許可する、他の誰でもないのだ」
それならいいのかと洛熙は疲れから瞼がゆっくりと落ちていくのを感じた。
怖かったはずなのに今はもうずっと心地よいと思えた、優しく抱きしめられることも背中を撫でられることも、本来は決して許されないはずだと言っていても、今は離れたくないと思えてしまう。
「陛下……」
そう呼ぶだけで安心できてしまう。
そんなこと望んではならないのに。
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