彼は愚かな皇帝ではない。
こうなる可能性についてはある程度予見していた。
秦王の頃より、幼い事を理由に政治を乗っ取られそうになったことや、数多の裏切りについてなど、彼は理解している。
どれだけ人はいい顔をしていても、その醜さを彼はその身をもって理解していた。しかしそれが王である以上当然であることも理解しており。
かつて憎しみだけを理解し痛みを覚えた肌は、成長と共に人の視線というものの意味を物理的な痛み以外でも理解した。

洛熙の無垢な瞳はその身分から来るものもあるのだろう。
平民であり、女官になるには並大抵の努力では許されない、ある種の諦めも持たざるを得ない。
畏怖することはあったとしても、時間を過ごすなり、彼女の素顔が見えていくと余計に心がどこか惹かれてしまい、周囲はそれを"物珍しさ"だと小声で告げているのを知っていた。

「当然のことであろう」

深い眠りに落ちてしまった洛熙の髪を撫でながら寝顔を見ていると、まるで幼子を眺めた気分にもなってしまう。
触れてやってもよいのに、彼はそれを自分自身に許さなかった、過ぎた行為はいつしか身を滅ぼすことはわかっている。現に洛熙が狙われたことはその立場から来るものだったはずだ。

宮廷内は夜更けだというのに随分と騒がしい。
燭台の火が揺れるとひとつの影が現れた、黒衣を纏い顔を隠したその者は始皇帝が潜ませた密偵であった。薄い帳の向こうから密偵を見つめる始皇帝は「報告せよ」と命じた。

「は。陛下巡幸の翌日、典籍庫の出入りを禁じたのは後宮典籍監の官吏。
さらに女官長配下の宮女数名が部屋の変更、食事減配を命じております」

なるほど……と始皇帝は考えながら洛熙の頬を撫でた。
白い肌には傷一つなかった為に頬に残る小さな傷跡が酷く派手に見えてしまう。恐ろしかったのだろうと案じながら手を取ると以前よりも荒れた手となり、書物を手にしたあの手から数日でここまでになるのかと見つめていれば密偵は誘ったように詳しい詳細を話す。

「宮女より聴取したところ、陛下巡幸中の侍書殿は後宮、最深部となります荷起き部屋での生活を強いられており、そこにて宮女たち同様の針仕事を課されておりました」
「刺客は」
「外部から雇われた刺客であり、手引きをした者につきましてお調べ中でございますが凡その目星は──」
「よい、信頼のおける女官を呼び、その者の手当と手入れをさせよ、着替えもだ、朕の侍書として相応しい身なりへ整えさせておくのだ」

始皇帝はそういって寝台から起き上がると洛熙の身体が小さく揺れた。
ここ数日ろくな眠りもなかった為に軽いことでは起きないのだろう。思わず髪を撫でてやれば傷んでおり、出会った頃の姿を思い出してしまう。ここまで数ヶ月手塩をかけて手入れさせてきたものを簡単に踏み躙るとはと思いつつも彼の口元は普段通りに笑みを浮かべていた。
しかし目布の下の眼は何一つ笑ってはいない、王として民を安心させるべく、彼は常に笑みを浮かべた。それは昔──趙で人質として暮らしていた頃、人の機嫌を伺う癖のようなものでもあったのかもしれない。

静かに帳から出ては広い寝台の上で横たわる洛熙を見つめる始皇帝は寝所を後にし、宮殿の寝所へと足を運んだ。
時刻は既に丑の刻を廻っている。しかし宮殿内はざわめきを持っており、回廊の火が揺れた。
広間の襖が開かれるなり、始皇帝は足を運び、その場の者たちをみつめた。丞相、女官、宦官、典籍の官吏、さらに巡幸を共にしていた者たちも集まっており、広間の中は随分と人が埋まっていた。
揃って抱拳礼をしており、始皇帝は玉座へは座らずに伏せた彼らをみつめた。この事を知っている者も知らぬ者も揃って、並の事態ではないとして震えている。

それは巡幸を初めて数日後、一羽の白い鳩が始皇帝の乗る馬の傍に飛んできた。宮殿からの鳩であるが、その足には赤い布が巻かれており、皇帝へ向けた密偵からの文書であるとして、彼は足に結ばれた文書を読むなり理由も告げずに戻ると告げて走り出したのだ。

突然のことに呆気を取られ置いていかれた家臣たちは遅れて戻ってきた様子だったが、宮廷内では既にその話が流れている様子であり、始皇帝はため息を深く零した。

「はぁ───困ったものだな、朕がおらぬうちに、どうやら玉座を狙おうとしたものがいたようだ」

階段の上で立ち止まり、そういった声は軽やかだ。
彼は不思議なことにその年齢には合わぬ声や美貌を持っていた。
不老なのだろうかと囁く者もいるほどであるが、その覇気は決して人には持てぬ者であり、天命を得た皇帝だからこそ持ちうるものだった。

「玉座など……そ、そんな恐れ多いのでは無いのでしょうか」

宦官の一人がそう告げた。
始皇帝はニコリと微笑んで腕を後ろに組んだ。

「不好(ブーハオ)、朕が座すもの、それ即ち玉座なり。侍書の膝は朕のもの、つまりは玉座である」

はっきり、そう宣言した始皇帝の言葉に周囲はざわめいた。彼の指す侍書とは現在あの娘一人に向けてでることは彼に仕える者全て理解していたはずだ。
しかし彼が明確に自分のモノであると告げたのはこれが初めてに等しいだろう。それまで役職や場所を与えてもなお、皇后や寵妃などとは言わなかったが"玉座"と呼ぶのだ。

──皇帝の玉座。

それがどれだけ高い地位、否──特別なものであるのか彼らには簡単に口にも出来ない恐ろしさであるだろう。
いわば、あの娘──洛熙を始皇帝は当たり前にある役職などでは例えれきれぬほどに重要視しているという意味なのだ。

「そのような者だ、改めて問うが宮に居らぬうちに朕の侍書に何があった?」

まるで全員が喉に鋭利な刃物を向けられたようだ。
始皇帝の視線が一人一人に注がれているように感じられ、静寂が流れ、聞こえるのは風に揺れる燭台の炎だけ。

「答えぬかまたは答えられぬか?」

もちろん、本件について全員が明確には知らないことは彼も理解しているが、全員が知らないわけがない。本件に関わった当事者もその場に何人もいるはずで、その者たちは顔を伏せたまま、誰よりも青白い顔をして気の流れが大きく揺れていた。
人の気の流れというのはその感情でもよく分かる。
嘘をつく者や動揺する者は大きく気の流れを感じられており、始皇帝は黙り込む彼らを眺める頃、彼の背後に待機していた密偵が声を出した。

「典籍監の官吏三名が書庫出入りを禁じ、女官長配下の宮女数名が部屋変更および配給減を実行。さらに本日の刺客については外部から雇われた刺客であり、手引きをした者───典籍監補佐官、韓成でございます」

典籍監補佐官・韓成と呼ばれた男は慌てて顔を上げた。

「そんなっ違います!陛下私はただ……」
「黙るが良い」

始皇帝はゆっくり階段を降りる。
そして男の前で止まる。
顔を上げた男を見つめるその眼差しはまるで毒虫のように恐ろしい。始皇帝の右頬の百足のような彫り物のような不気味な気配を感じられ、男は全身を掴まれた気分になる。

「朕も無慈悲ではない、理由を問おう」
「そ、そ、それは……平民の女が…あのような娘が陛下のお側にいるなど、朝廷の威厳を損なうとっ……」
「尊厳?貴様が皇帝たる朕の威厳を守ると?」

始皇帝の鋭い黄金の装飾具の付いた指先が男の頬に触れては簡単に皮膚が薄く裂けて赤く滲むのさえ、不快感を感じずにはいられない。
目布をした始皇帝の顔が男をじっと捉えては、くすりと一つ笑うと同時に激しい音が立った。

「──ッガ!!」

声にならない声と轟音に宮殿内が揺れた。
始皇帝の拳が男の鳩尾に落とされると同時に男は壁に打ち付けられており、壁には大きな亀裂が入っていた。

「朕の玉座である侍書を殺すことで威厳が守られる?……実に愉快である、なぁ女官長よ?」
「は……」
「侍書の食事を減らしたそうだな、さらに心地よい部屋も与えたようだ」
「そ、それは……それは宮廷の規律を」
「朕が規律である」
「陛下お待ちください!!その判断は私一人ではなくあちらの宦官が!!」
「ちっ違う!何を申しておるのだ!」

始皇帝は目を閉じた。
政治とは常にこれだとウンザリしてしまう、誰かが誰かの足を引っ張り、誰かを甘い言葉で誘い、その思惑に引きずり込む。
聞くに絶えない哀れな者たちの言い争いに始皇帝はその場から背を向けて階段を上りつつ処分を命じる。

「全員処罰」

泣き叫ぶ女官長、言い訳を並べる宦官、それに関与した数名の者たち。
待機していた兵が密偵に名指しされた者を連れていく。
阿鼻叫喚のような状況の中でも彼は振り返らずにいれば密偵の声が静かに広間に響いた、刺客を捕えたという言葉、そして始皇帝のみに聞こえる小さな声でさらなる黒幕の名を……。

「そうか、では四肢を落とし龜に詰めて送り直してやれ」

それを聞く家臣たちはその身を震え上がらせた。
皇帝が何故、他の六国を制することができたのか、彼らは理解していたはずなのに喜びに忘れていた。支配者とは常に容赦などしないということを。
静まり返りながらも空気は何処か荒立っていた、まるでそれは夜の海の波のようであるかの如く。

それを背中で感じる始皇帝は背を向けたまま告げる。

「騒ぐな、洛熙が起きる」

そして広間を後にし、彼は寝所へと戻ると帳の中では身を整えられた洛熙が眠っており、彼女の手当を終えた女官が静かにその場を後にした。
瑠璃色と朱色の装束を纏う姿はまるで始皇帝と似た色味であるとして、女官の美的感覚を内心褒めた。今の気分を良くしてくれるものである。

始皇帝は眠る彼女が書物の一つも楽しめなかったこの数日についてつまらない時間を与えてしまったと後悔しつつ寝顔を眺めた。
泣き腫らした瞼は少し赤く、血色の良い小さな唇が小さく開かれており、彼は指先の装飾具を外してその唇を撫でる。

女の唇に触れたいと思う感覚は何度も経験があった。
それでも洛熙に向ける欲望は過去とは違うものであり、彼は人に滅多に見せることのない目布を外して洛熙を見つめて顔を寄せた。

「……陛下?」
「起こしたか」

互いに横たわり見つめあうと、洛熙は寝ぼけ眼で彼を見つめては初めて見る目布を外した姿に視線を奪われているようであった。
普段であれば不敬であるとして慌てたであろうがその気力も無さそうな彼女に手を伸ばそうとする前に、彼女の手が始皇帝の頬に触れた。

「まるで陛下の瞳は星空を閉じ込めたようにお美しゅうございます」
「……そうか、好ましいか?」
「巴蜀の夜空を思い浮かべてしまいます、きっと貴方様の瞳をご覧になられる方は幸福でございますねぇ」

洛熙はそれを夢だとでも思うのか、彼の頬を優しく両手で触れて幸せそうに見つめる。
始皇帝は胸の内が大きく音を奏でるように心地よかった。
その瞳で真っ直ぐと人を見てしまうと、その感情を受けてしまうというのに、洛熙は恐れではなく愛おしいものをみるような、唯一与えられた真っ直ぐの愛情のような眼差しと光を与えてくれる。

始皇帝──いや、嬴政は彼女が傷つけられたと知った時、かつて失った春燕を思い出した。幼い故に守れなかった母なる存在。
洛熙にはずっと彼女を重ねているが、それ以上に深い感情が揺さぶられており、彼は頬を包む優しい手に自分の手を重ねた。

「洛熙よ、嬴政と呼んでくれぬか」
「それは……ああいえ、嬴政様」
「もう一度」
「嬴政様」
「もう一度だ」
「嬴政」

洛熙は恐ろしい夜だと思った。
なのに彼に守られたあの瞬間から全てが変わったように感じた。
寝ぼけたフリをして素顔の彼に触れてその瞳の中に入りたいと思う頃、呼び方を強請られた時、呼ぶべきではないと分かっていても、幼子のように求める瞳をみてしまえば素直に呼んでしまう。

嬴政は彼女の胸に飛び込むように身を寄せて強く抱き寄せると、その柔らかな女の肉体に彼は埋まった。
心地よい心臓の音を聞き、その温もりに包まれると、まるでそれまでの人々の負の感情に晒された肉体の痛みが引いていくように感じられ、背中を優しく撫でられる。

「おやすみなさいませ、嬴政様」

どうか良い夢を。
そういった彼女の声を最後に嬴政は目を閉じた。
その夜は春燕の夢を見た。
優しく抱き締められて眠る夢であった。

『王様になっても愛する人がいるなら守ってやんな』

そういった彼女はやはり媽媽のようだったなと嬴政は夢の中で思った。


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